【第3章・野良犬の衣食住】『いつ生まれたって、いつ死んだって、どうでもいいような気分』

 夜になり、三日ぶりに『家』に帰ることにした。と、いっても実際はおれの家ではない。

 オカムラという女の家である。オカムラはおれが大学のときに付き合っていた女で、今はもう恋人としての関係は途切れている。ただ、タクシードライバーをクビになり、住む場所を失ったと泣きつくと、週に二度だけ部屋の使用を許してくれた。生きるためなら、なんだってするさ。

 月曜と金曜日。どちらも、彼女がアルバイトで家を長く開ける日で、互いに邪魔にならないだろうという理由。

 彼女はおれと同じ大学を出たあと、フリーターをしながら、画家を目指している。

 芸術学部でもなかったくせに、なぜ画家なんか目指しているかは不明だが、おれと同じように社会にすっとなじむことができないやつなんだろう。

 仲間と金を出し合い、小さなアトリエで個展をやったりしているらしい。もちろん、儲かるどころか出費はかさむ。でも楽しそうだ。少なくとも、芸術というのはなんとも人間らしい。金をいくらもらっても、獣と同じ暮らしをしているやつなんか山ほどいるのだから。

 電車で池袋駅に戻り、しばらく歩いた場所に、彼女のアパートはあった。木造の古い、二階建てのアパートだ。

 合鍵を使って部屋に入るとまず、粘土のようなにおいが、ぷんとする。

 室内なのにひどく冷える。窓が薄いからだろう。

 六畳一間の部屋の片隅に、油絵を書いている途中のキャンバスがあった。おれには、紫色の、奇妙な渦にしか見えなかった。何か意味があるのかもしれない。

「苦悩」「青春」「葛藤」「ポストモダン」「欲望」「吐き気」。

 ルーズリーフに、色々なタイトルの候補が連なっている。どれも的外れな気がした。こういう絵は、わかったような口を利きたい自称芸術評論家にぴったりだ。おれはもう少し、具体性がある方がいい。たとえば、女の裸、とか。

 サイズの合ってないスーツを脱ぎ、毛布にくるまる。携帯電話を充電しようとして、無意味だと言うことに気付く。一瞬あかりのことが頭を過る。携帯の電源を入れれば、あかりからのメールの嵐でケータイは鳴り続け、頭のいかれたバイブレーターへと姿を変えるだろう。

 このままでもいいか。こわいし。

 冷蔵庫を開け、ノンアルコールビールを一本取り出す。もちろん、冷蔵庫は未来へは繋がってなかった。小さな地球人もいなかった。

 今日の出来事はすべて夢のようだったが、もちろんそうではなかった。

 明日は八時半には起きて、『ホテル・レミング』に向かわなければいけない。それを一瞬面倒にも感じたが、もちろんサボるわけにはいかない。これから毎日石段で寝ていたらもう身体がどうにかなってしまう。部屋の段ボールを机がわりに、晩酌。一缶では、顔を洗うことさえままならない量。いや、気分だけでじゅうぶん。

 おれはオカムラについて考えた。あいつのことだ、今日のことを話したら、根掘り葉掘り尋ねてくるに違いない。オカムラはさばさばとした女だが、好奇心が強い。一緒にいると、丸裸にされるような気がする。人が遠慮して突っ込まない部分にも、土足で入りこむ。それをどう思うか、人に依るだろうが、おれは嫌いじゃなかった。さっぱりとした清々しさ、懺悔でもしているかのようなのだ。隠しごとがないということは、悪いことばかりじゃあない。

 赤ん坊みたいな、いい気分だよ。

「あら」

 ビールを飲み干し、ぼんやりと天井の染みを眺めていると、オカムラが帰ってきた。絵具がところどころついたペインターパンツに、サイズの大きい黒のダウンジャケットを着ていた。頭にタオルを巻いていて、まるで工事現場のあんちゃんという風体。

 胸も全くない。あまりに平らで、トランプタワーだってできちまいそうだ。

 背が低いので、男に間違われることはないだろうけど。

「来てたんだ? ちゃんと一本でやめた?」

「おぅ」

 おれは上機嫌に、空いたビールを掲げる。少し甘えたような感情が生まれる。なんだ、あの宗教狂いのババァのことなんか、全然笑えないじゃねーの。

「ノンアルコールでも、飲みすぎるとあかりちゃんに怒られるもんね?」

「……まぁな」

 オカムラは、あかりのことを知っている。アルコール中毒が治った後、オカムラの家にいたおれを尋ねてあかりがやってきたのだ。ストーカー女と彼女が顔を合わせ、どんな修羅場になるかと思ったが、どういうわけだかあかりとオカムラは馬が合うらしい。オカムラは、「あたし、かわいい女の子大好きだから」と満足気に言った。

 まぁ、そんなことはいいんだ。もっと大切な話がある。

「実はさ、仕事見つけたんだ」

「まともな仕事なんでしょうね?」

 オカムラは半信半疑で、おれに尋ねる。

「インチキ霊媒師よりはまともさ」

「なに? またタクシーの運転手?」

 オカムラは隣に座り、おれの膝にもう一枚毛布をかけた。二人で、一枚の毛布を分けあった。

「いんや。タクシーじゃない」

「ふぅん。じゃあなに?」

「ま、似たような仕事さ」

「具体的に、なに?」

「……運転手だよ。会社の」

「何の会社?」

「うるせーな、いいだろなんだって。しばらく世話になったけど、それも今日までだな」

「なに? 出てくの?」

「なになになになに、うるさいな。そうだよ、今日で出ていく。お世話になりました」

 おれはそれこそ慇懃無礼に、三つ指立てて頭を下げる。

「立って半畳寝て一畳。でも、居心地は悪くなかった」

「居候の癖によく言うわよ」

 オカムラはそう言って笑って、上着を脱ぎニット一枚になる。そしてこちらに身体をあずけてきた。おれは黙って肩に手を回し、彼女に笑いかけた。薄っぺらな笑顔。

 でもおれにとっては、精いっぱいの親愛の情の表れなのだ。

「ね」

 オカムラは甘い声を出した。

「最後に、触ってけば?」

 彼女はおれの髪をかき分け、耳にふわりと息をかけた。オカムラとは、もう、二度と会わないかもしれない。おれの青春はいつもこの部屋にあったし、意識はいつまでたってもここに囚われ続けるだろう。おれは冷たい指で、彼女の耳たぶをそっとつまんだ。

 ぷよ。しっかり寝かせたパン生地みたいだ。

 オカムラは掠れた声で、喘いだ。

「あん」

 お、そういやおれ、今日誕生日だわ。ハッピーバースデー。

 オカムラの色気のない体をまさぐりながら、そんなことに気づく。

 いつ生まれたって、いつ死んだって、どうでもいいような悪くない気分だね。


【第3章・了】

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