【第3章・野良犬の衣食住】『空気振動大会』

 『ホテル・レミング』に戻り、205号室に向かう。鍵は閉まっておらず、小さく欠伸を噛み殺しながら部屋に入る。昨日は石段の上で眠ったせいか、背中が痛い。

 今日は金曜だ。『家』に帰って、しばし眠りたいところだ。

「あー、もしかして、お前がトラ?」

 柔和な眉をした男。茶髪でツンツンとした頭で、あっさりとした顔立ちをしている。

 彼は、馴れ馴れしく言う。

 大きな背の低いガラステーブルの上には、トランプが散乱していた。毛の長い絨毯の上に、喜瀬川と、その男が卓を囲んでいた。彼は、頼んでもいないのに軽い調子で自己紹介を始めた。

 友好的な態度は結構だが、お前誰やねん。

「和田」

 わだ?

 と一瞬頭がフリーズしちまうが、自己紹介ね、唐突。

「ここでさ、経理やってて。お前あれだろ、喜瀬川の写真見て、つられてきた口だろ?」

 和田は不躾にこちらを指さし、にまにまと笑った。よく喋るやつだね。

「え、あんたってあたしにつられてきたの?」

 喜瀬川は、まじまじと、嫌悪感たっぷりにおれを見つめる。あはは、ジト目ってやつですか、今時の。よくそんなに、かわいい瞳を濁せるものだ。

「おい、いきなりそんなに睨むなよ」

 和田は苦笑いを浮かべ、おれと喜瀬川を交互に見つめる。

「喜瀬川に睨まれてここ辞めてくやつ多いんだぜ?」

「でしょうね。この女と四六時中顔合わせてたら、疲れるに決まってる」

 頷き、皮肉たっぷりに微笑んで見せる。

「あんたみたいな男にそんなこと言われちゃ、女としておしまいね」

「……なんだ、ずいぶん仲がいいな? お前ら、付き合ってんのか?」

 冗談めかして言う和田に、喜瀬川は冷ややかな視線を浴びせかけ、「冗談でもやめてくれない?」と引きつった声で言った。

「おれも、その冗談は笑えない。あー……和田さんは」

 言いかけると、和田は困ったような笑顔を浮かべ、「雄太でいいよ。俺和田って名字嫌いなんだ」と言った。

「和田、そんなに嫌ですか?」

「え、いや、そうでもないけど」

 適当すぎる。中身なさすぎる。

 おれらがしているのは会話ではなくて、もはや空気振動大会ですね。

「じゃ、雄太さん」

「呼び捨てでいいって。で、俺もトラって呼ぶから」

「別にかまわないですよ」

「丁寧語もやめてくれ。おれより年上なんでしょ?」

 丁寧語を辞めてくれと言われると、ちょいと困る。タメ口より、喋りやすいのだけども。

 ま、とりあえず従おう。ここは、そういうやり方なのだ。

 時計を眺め、雄太に尋ねる。今は、夕方の五時前。

「今日、おれの仕事って他にあるのか? なければ今日はこれで帰りたいんだけどな」

 世界を薄皮が覆っているような感覚だ。睡魔で、何もかもの感触が鈍い。

「なんだよ、女か? おねだりネコちゃんが、お待ちかねかぁ?」

「……おねだりネコちゃんはともかく、まぁそういう感じかな」

 冗談めかして応えると、信じられないという顔で喜瀬川が立ち上がった。顔面蒼白、世界の終末と言わんばかりだ。

「あんたに……おねだりネコちゃんなんて……破廉恥極まりない……おねだりネコちゃん……」

 いや、おねだりネコちゃんに拘るな。

「閉経とかさらっと言えるお前に言われたくないって」

 喜瀬川はおれを睨み、口を歪めて唾を飛ばし、抗議をする。

「どーせエロ本かなんかに名前つけて、彼女として認定してるんでしょ?」

「しねーよ。おれ頭イカれてんのか」

「第一、彼女なんていないって言ってたじゃない。さっきのが嘘なの? それとも、今のが嘘なの? あぁ、ウロボロスみたいだわ、あんた。気持ちの悪いヘビ野郎」

 喜瀬川の罵詈雑言を聞いて、雄太は必死に笑いをこらえている。

 ここまで言われて、黙ってはいられない。

「喜瀬川。いいか、おれは、今すごーく眠い。泥のように眠ってしまいたい。だからな、お前の嫉妬に付き合っている暇はないんだよ」

「誰があんたに嫉妬するのよ」

「してないなら、そんなにひっかかるなよ」

 おれが言うと、喜瀬川は短く舌打ちをして、雄太に向かって「こいつ、セーカク悪いわ。ね、雄太?」と助けを求める。

「いや、どう考えてもトラの方が正しいと思うけど。喜瀬川、お前つっかかりすぎ」

「だって、こいつ、なんかむかつくんだもの!」

 喜瀬川は「おれがいかにムカつく人間か」を説明しようと四苦八苦して、その挙句、「なんかこう、むかつくのよ!」とじれったそうに地団駄を踏む。

 雄太は喜瀬川のヒステリーに慣れっこなのか、ただ苦笑いをした。

「いいよ、トラ。今日はもうあがっていい。明日、朝の十時にここに来れるか?」

「あぁ、いつだって行けるさ」

 なにせ、おれは行く先のないチンピラだ。まともな仕事なら涙を流し、喜んで受ける。

 雄太はスマートフォンをいじりながら言う。

「みるくはもう会ったか?」

「いや」

「明日は、みるくを大宮まで乗せてやって欲しいんだ」

「わかった。朝十時だな」

「遅刻したらただじゃおかないわよ。去勢よ、去勢」

 ぶすくれたまま、拗ねた子どものように付け足す喜瀬川。すまし顔で大人びた顔をする彼女と、ムキになって不平を言う彼女とでは、まるで別人のようだった。

 お前は情緒不安定。

「あとな、家帰ったら、荷物まとめておけよ」

「ん? なんでだよ」

「明日からここに住んでもらうからな」

 そりゃあ、願ったりかなったりだ。

「え? 嘘? 絶対やだ、絶対……」

「じゃあ、明日な」

 騒ぎ立てる喜瀬川を制し、雄太がおれに手を振る。これじゃ保育園だ。

 まぁ、住む場所が決まったのは喜ばしいね。

 好きな四字熟語は、衣食住。

 あとひと文字は募集中ということで。

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