【第2章・レミングどもの心中】『冷蔵庫の唸り、ストリップ』

「教師ってのは、今もっとも面倒な仕事でね。モンスターペアレントとワルツのステップを踏んでいるうちに、爺さんになるのは嫌だなと」

 おれは意識して軽い調子を心がけた。

「大学入る前に気付かなかったの?」

 女はバカを見る目をする。隠そうともしない。

「頭が悪いもんで」

「ホントね」

 彼女は、鼻をクンクンとひくつかせる。

「なんでしょ?」

「……あんた、におうわ」

「はい?」

 女は、嫌悪感をたっぷりな表情をした。

「におうのよ。野良犬だわ。お風呂、入ってる?」

「今朝、コインシャワーに厄介になりましたけど」

「ちょっといいかしら」

 女は立ち上がり、マヨネーズのボトルを口に咥え、立ち尽くしていたおれの方に近づいてくる。マヨラーの鏡ですね、はい。

「両手挙げて」

 彼女は、強い口調で言う。

「はい?」

「わからないの? 両手よ。おまんま食べて、マスかく、その手」

 両手でマスかくんですか、ぼく。

 彼女にいわれるがまま、両手をあげる。彼女の言葉は力がある。無意識に、命令に従ってしまう、パブロフの犬な気持ち。

「どれどれ」

 彼女は、おれの背中に両腕を回し、恋人のように、抱きついてきた。あぁ、女の子だ。細い腕だね、まったく。

 彼女は、おれの羽織に鼻をうずめる。そして、ぎゅうと裾を掴んだ。

「これね。におうわ。壊滅的だわ。ケルベロスが尻尾巻いて逃げ出すわ。くんくん」

 彼女はボトルを咥えたままで、少し輪郭の曖昧な声で言った。

「あのー。そうクンクンされると、一応健全な男子として」

「何が男子よ。ただの小汚い犬。ちがう?」

 へぇ、もう閉口するしかないね。

「そうね。脱ぎなさい」

 彼女は言う。おれの顎のあたりで、言葉を吐く。

「は?」

「この場で、ストリップなさいと言っているの」

 ――ぶーん。ぶーん。

 頭の中がピンク色の靄に包まれるなか、冷蔵庫がさらに強く唸りをあげる。

 なに、爆発すんの?

「脱ぎなさいな。あー、臭。くっさ。臭くて、おかしくなりそう」

 女はうんざりとした調子で言いながらも、おれの服に頬をうずめたままだ。

 命令口調と、上目遣いのギャップは結構だが、内心怒りも覚えなくはない。

「は、はーい」

 返事をすると、女は首を傾け、不快そうに言う。

「あと、その喋り方。むかつくわ。その丁寧に見えて人のことを見下しきった言葉づかいを辞めなさいな」

「慇懃無礼ということでしょうか」

「なにそれ? ていうか、いいわよ丁寧語なんて使わなくて。気持ちの悪い」

「えーと」

「社訓なの。社長以外には、丁寧語を使っちゃいけないの。練習しときなさいな」

「はぁ」

「第一、年上から丁寧語なんて気味が悪い」

「……」

「あんたの貧相な顔見てるだけで、生理周期ぐちゃぐちゃになりそう。それに……」

 女は手探りでおれの手を握る。瞳はこちらの顔を捕えて離さない。彼女のあまりの言い様に、反論する。

「いや、そりゃあ言い過ぎってもんでしょ」

 思わず声をあげ、女の手を振りほどく。女は驚いたような顔をし、きょとんと目を丸くする。

「ねぇ、お姉さん」

 おれは低いトーンで言う。

 あぁ、久しぶりかもしれない。こうして無駄ではない言葉を吐くのは。気持ちがいい。沸々とした静かな怒りをぶつけるのは気持ちがいい。

 なにせ、おれ、悪くないから。正当性のある怒りでしょーが。

 凄んで見せても、女はたじろぐ様子はない。むしろ、おれの怒りに呼応したのか、より尊大な態度を取る。

「いいから脱ぎなさい」

「聞けよ」

「なによ、急に」

 女は形のいい唇を歪ませる。少しは笑って見せてくれ、まだ不機嫌な顔しか見せてもらってない。

「股の間にちんけな怪獣ぶらさげてる男に、凄まれても怖くもなんともないわ」

「……」

 おれが黙っていると女はわずかに微笑して、「ちんけ」と再び言った。

「わかんないだろ」

 あぁ、浅ましき男のプライド。たしかに、たいしたもんは持ち合わせていない。

「そうよ。だから、脱ぎなさい」

「……本当に脱ぐぞ」

「どうぞ?」

 おれはため息をつく。帯を解いて着物を脱ぎ、白の長襦袢にステテコ姿になる。

「靴も」

「……」

 指示通り、ブーツの靴ひもを解いた。

 一体、何が始まるってんだ?

 甘美な粘膜接触を期待せずにはいられなかった。

「ほら、歩きなさいな」

 女は背後に回り込むと、おれの背中を蹴飛ばした。

「向こう。バスタブに行くのよ」

 女は、ガラス越しの風呂場を指さす。今度は蹴ったことを詫びるように優しく、ゆっくりと背中を押し、風呂場へと誘導する。

 水滴が滴る扉を開ける。ひやりと冷たく、濡れたタイルが、靴下を湿らせた。おれは歩きながら着物を脱ぎ、引きずりながら浴槽の目の前に立たされる。

 なみなみと湯の張られた湯船は、照明でピンクや水色へと、深海生物のように色を次々変えていく。毒々しいコントラスト、極彩色の湖をおれはただ美しいと思った。

「女の子とお風呂入ったことあるかしら?」

「いや、ないな」

 あるけど。あかりに、獣のようにたわしで体を洗われていた記憶がよみがえる。

「ふうん。つまらない、人生だわ」

 女は、冷たく言い放つと「てりゃ」と、おれの背中をドンと突き飛ばすように再び蹴る。ヒールの踵が、おれの背中をえぐった。

 ざぶん。

 押すなよ、押すなよ、というくだりもさせてもらえないうちに、風呂の中に突き落とされたのだ。着衣泳というやつは昔授業でやった記憶があるが、パンツを穿いたまま風呂に入るという経験はない。ぴたぴたと張り付く薄い布は、まるで皮膚の一部のようだ。

 咄嗟のことに驚きの言葉すら吐くこともできず、バスタブの中で運動を繰りかえす。少し水を飲んでしまったようだ。鼻の奥がツンとする。

 おれは浴槽のへりを両脇で挟み、腕を外にだらりと垂らす。女は満足したようで、微笑を浮かべて浴室から出ていった。彼女が笑うと、自然とつられて笑ってしまった。女は浴室の外からおれに話しかけた。音は、クリアに聴こえる。

「このまま、面接しましょうか」

 女は背を向け、ガラスにもたれかかり、上を向いた。ガラスに押しつけられた金色の髪が、おれを笑っているようだった。

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