【第2章・レミングどもの心中】『はじめての心中』
彼女は喜瀬川と名乗った。
どんな字を書くのかと尋ねると、彼女はご丁寧にも運転免許を見せた。「オートマ限定」と自嘲気味に笑った。免許証の写真も、求人誌と同じく、やはり口が半開きで無愛想な写真だった。
喜瀬川エリカ。
その名字から、『三枚起請』という落語の噺を思い出した。たしか、その話に出てくる女が、喜瀬川という名前だったはずだ。
さて。
「あんた運転手希望よね。免許証は?」
と言いながら、彼女はおれの革の鞄を勝手にあさり、財布を取り出す。
「……ふふ」
そして財布の中身を見て、嘲笑し、免許証をポケットの中にしまいこんでしまった。
「預かっておくわ。あ、あんたオートマじゃないのね。むかつくわ」
「オートマ限定じゃタクシーの運ちゃんは出来ないんだよ」
「そうなの? すごいのね、タクシーの運転手って。今度会ったら、耳でもしゃぶってやろうかしら」
彼女は呟く。こいつなら本気でやりかねない。高速でやったら大事故確定。
「エリカ様は、一体どんなお仕事を?」
嫌みたっぷりに言うが、堪えている様子もない。
「あたしはマネージャー兼、採用担当兼、社長秘書なのよ」
「そりゃ随分と大変そうだ」
「なにせ、この会社四人しか社員がいないから」
「後の三人は?」
そういえば、他の人間を一切見かけていない。会社と言うには、パソコンの一台もないし不自然じゃございません?
「社長と、経理と会計担当の和田。あと、みるくっていう子がいる」
「みるく?」
「そ。うちのお抱えアイドル。唯一の」
そういや、アイドル事務所だったんだよな、ここ。おれはすっかり、こいつがアイドルなのだと思っていたが。
こうして話していると、採用に向けて脈ありに思える。ここで不採用だと、電車賃の甲斐もない。ただ、油断はできないな。込み入った話をされていけると思っていたのに、さらりと落とすと言うこともよくあることだ。大人って、こわいよ。
「あぁ、喋り過ぎちゃった。あんた人間に思えないから、サボテンにでも話しかけてるみたいな気分になっちゃったわ」
棘があるのはお前だろう。これで黙って話を聞こうと言うのだから、おれも人がいい。
「なぁ、そろそろあがってもいいか?」
洗濯がてら着衣泳もいいが、身体がふやけちまう。もうここに突き飛ばされて、三十分近く経っている。
「は? いつまで入ってんのよ、あんた男のくせに長風呂なわけ?」
「お前が入れたんだろ」
「あんたは人に許可取らないと風呂も上がれないの?」
ご明察、かつてはそんな生活を送っておりました。
奥からは、ごうんごうん、と静かな洗濯機の音が聴こえた。ずいぶんと、至れり尽くせりなことで。ただ、紬を洗濯機で回すのはまずいんじゃないの?
おれは、ざぶ、と風呂からあがる。水を吸った布の重たさったらないね。襦袢の裾を持ち、何度も絞る。濁った水が、タイルを妖しくつたう。
「面接はこれで終わりよ。お疲れ様。帰りなさい。連絡は、明日するわ」
「一つ。いいか?」
「ダメよ」
「質問くらいさせろよ。もう二度と会わないかもしれないんだ」
「そうかもしれないわね。わかったわよ、冥土の土産に聞いてあげましょうか」
濡れ鼠のおれは、みすぼらしいだろうか。彼女の目から、どう映るのだろう。
「……お前さ、彼氏いるのか?」
おれは尋ねた。どうしてそんなことを尋ねたのか、自分でもわからない。ただ、ずうっと、気になっていたのだ。
一目ぼれか?
ふん、この年でそりゃあない。それに、五分も話せばうんざりくる高慢な女だ。
「?」
喜瀬川は大きく目を見開き、きょとんとした顔をした。
「なに? そんなこと聞いて、どうするの? どうしたいの? ねぇ?」
彼女は出会ったときと同じような不機嫌な調子で、まくしたてる。座った彼女の脚が、落ち着きなく動く。おれは彼女の急変した態度に、たじろいだ。
「いや、どうもうこうもしないさ」
「下らない好奇心は、野良犬だって殺すわ」
彼女は言った。喜瀬川の様子は、ちょっと尋常じゃない。おれを喰い殺さんばかりの憎悪。何か、地雷を踏んじまったか?
「もう一度訊くわ。そんなこと聞いて、楽しいの?」
「そう怒るなよ。ただの世間話じゃないか」
おれは少したじろぎ、無理やり言葉を紡ぐ。
「……」
「……」
沈黙。沈黙。
ぶーん。
冷蔵庫の唸りだけが、優しく間を埋めようと努めてくれる。一秒にも永遠にも感じられるなんて、そんな有り触れた陳腐な文句が頭に浮かぶ。
調子の狂う女だ。
「……いないわ」
彼女は、その沈黙を重い呟きで切り裂く。僅かに震えている。嵐の前の、静けさ。
「いないわよ」
喜瀬川はその言葉を皮切りに、眉を釣り上げ激昂し、矢継早に言葉を浴びせかける。
「彼氏なんていないわよ! 生まれてこのかた! 納得いかないわ、こんなにかわいくてエロくて清楚で見てるだけで精巣が三割増しで生産体制に入るようなこのあたしに、彼氏がいないなんて!」
「……えーと」
確かにお前は美しい。精巣工場も急ピッチ。清楚はどうかわからないけど。
弱点だって美点に変換できる器量の持ち主だ。綺麗なバラに棘があるのは、どんとウェルカム。お前がはにかめば、ちんけな城なら一晩で傾く。
ただお前のは棘じゃなかった。出刃包丁だ。
「本当に、納得いかない。あたしは、こんなに愛する準備をしているのに!」
彼女は、ジーパンのポケットに手を突っ込み、もどかしそうにくしゃくしゃに畳まれた四つ折りの紙を取り出す。それを、テーブルに叩きつける。
「……なんだよ」
「これは、婚姻届。永遠の幸せへの招待状」
「?」
「あたしを愛する誰かがいたら、その場で判を押させてやるの。あたしの『はじめて』の血で」
「……あー」
想像しただけで、血なまぐさい。役所の人間も、血判状はバージンなのでは。
「あと、これもね」
彼女はおもむろにヒールを脱ぐと、今度は靴の中から薄っぺらな封筒を取り出した。封筒には、禍々しいオーラが漂っている。なんだ、この圧力。
「これなにか、聞きたぁい?」
媚びるような猫なで声。おれを地獄に誘う声。
情緒不安定。お前は、情緒不安定。
「あ、いや」
「はいかイエスで答えなさい、は古典的かしら?」
「遠慮……」
「これはね」
喜瀬川はおれの呻くような声を遮り言った。ふん、喋りたがりだ。だから男の一つ、いねーんじゃねーのか。
「遺書よ」
彼女が言った。彼女の言う「愛」や「幸せ」からは、程遠い気がした。
「この遺書、連名なのよ。婚姻届にサインして、今度はこっちにサインしてもらうの」
「大忙しだな」
「結婚したら、その日に心中するの」
彼女の瞳は、夢見る少女のそれだ。輝き、虹色の未来を夢想し、それを食い物にする。
笑えない冗談だ。
「お互いの純潔を注ぎ合うのよ」
「……心中なら、場所は品川辺りがいいわな」
笑えない冗談に、つまらない冗談で返す。
「嫌よ。あたしはもっと人けもない、しみったれた海で死にたい」
おっと、この冗談は通じないか。
もう掘り下げる必要もない。
喜瀬川がどこで生まれて、どこで死んでいくかは、おれの知るべきことではないんだから。
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