【第2章・レミングどもの心中】『野良犬の履歴書』
翌日だ。憎らしいほどよく晴れた、小春日和。
現在『レミング・プロ』の会社にいる。
会社といっても、所謂オフィスを想像してはいけない。ここは、埼玉の川越市の駅から少し外れた場所にある、ラブホテルの一室なのだ。外観は、悪趣味に輝く青い城を模した形の建物。五階建て。駐車場の入り口にかかった紫のカーテンが、なんとも前時代的。
よっぽど何かの間違いなのだろうと思ったが、電話で確認しても、「ホテル・レミングの二〇五号室よ」としか言わなかったのだ。
恐々と中に入ると、古ぼけたラブホテルのフロント。部屋の写真のモニターと、その下にボタンがあった。それを通り抜け、二〇五号室へ。部屋に鍵は掛かっていなかった。
遠慮気味にノックをして、部屋に入る。
目に飛び込んできたのは、埃を被ったブラウン管のテレビに、深い紺色のビロードのシーツがかかった丸いベッド。臙脂色の絨毯は、毛玉が目立つ。入って左手側にあるシャワールームだけが妙に近代的で、透明のガラス張り、ジャグジーなんかもついているようだ。
部屋は、冷蔵庫の不機嫌そうな唸りが支配していた。
ポンコツめ。
しかし、何よりおれの目をひいたのは、不可解な非日常。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お……」
女が両手両足を地に突っ張り、胸を突き出し、ブリッジをして発声練習をしていた。薄暗い照明が、彼女の顔に深い陰影を作りだしていた。女は脚の付け根で切られたカットオフジーンズに包まれた腰を震えさせていた。
「あのー」
おれは、声をかける。このシチュエーションでは、「あのー」以外に吐ける言葉もない。
「は? え?」
彼女はこちらの声に気付くと、焦ったようにばたん、と地面に仰向けになる。頭をぐいと捻り、寝転がったままおれを凝視する。
ただ、彼女の美しさと、なぜブリッジをしていたのかという疑問とのアンバランスさに目眩を感じていた。体のラインが強調されるシンプルな白のTシャツ。赤いヒールはその服装に不釣り合いで、頭を揺さぶられるような違和感を刷り込まれているよう。
スレンダーで、身体の凹凸は少ないが、美しい女。
目が合うと、女はゆっくりと軟体動物のように起き上り、ベッドに腰を据える。不機嫌そうな顔つきのまま、長い脚を貧乏ゆすりして見せた。
人気のない夜道、上機嫌で鼻歌を歌っているところに、お巡りさんとすれ違ったかのような、そんな類の表情。あらま、照れてんの?
「あんた? 今日面接に来るってのは?」
電話越しではわからなかったが、若い女にしては低い、色気のある声だ。紫煙くゆる、異国の酒場が似合う声である。発声練習の効果ですかね、そりゃ。
「そうです。トラ」
軽く自己紹介をする。さっきのことには、触れないでおくのがマナーだろう。
「虎? 虎っていうよりネズミ男って感じね」
女はおれの余剰な言葉を疎ましがり、口先をぴくりとさせる。
カラスのように鋭い目つきだ。そのくせ瞳がスカイブルーなもんで、そのギャップにまた足場が揺らぐ快感。
「そうですかね?」
「そうよ」
女は話を特に面白がるようでもなく、足を組み直し、おれを顎でしゃくる。そして、何の前触れもなく、ポケットから小ぶりなマヨネーズのボトルを取り出し、吸い始めた。そこにはマジックで、「きせがわ」と名前が書かれていた。
あー、やっぱり知ってる顔だ。最近じゃない、もう十年以上前、見たような。
「……あのー」
おれはおずおずと切り出す。
「なに?」
「おれたち、幼なじみじゃないですよねぇ?」
おれの質問に「きせがわ」は不機嫌そうにしかめた眉を、さらに歪める。
「いや、なんでもない。どこかで会ったような気がして」
「ないわ。あんたみたいなのと会ったら、絶対覚えているもの。顔色が悪すぎるわ」
「こう見えても、十代のころは水蜜桃のごとくぴかぴかの肌だったんですがね」
「あのね、くだらないナンパはやめてちょうだい。履歴書。見せなさいな」
そうだ。気のせいかもしれない。こんな棘のある女に会ったら、嫌でも忘れはしない。
彼女は脇のテーブルをコンコン、と細い指先で叩く。鞄から履歴書を取り出し、彼女に手渡す。女は退屈そうな眼差しで履歴書に目を通した。
なんだかんだで、意外と普通に面接が始まった。
「ふぅん。ちゃんと大学出てるんだ?」
「おかげさまで」
「教育学部? どうして、タクシードライバーなんかに?」
――おれの母親は教師をしていた。おれもそのレールに乗っかろうと、浪人こそしたが教育学部のある大学に入った。
しかし大学になじめず、しばらくは引きこもり。
それでも、母親の懸命な説得もあり、どうにか七年かけて教育実習まではこぎつけたわけだが、そこからがいけなかった。
おれは当時、激しい社会不安症、もっと言ってしまえばコミュ障というやつだった。伸ばした前髪の隙間から、すだれ状の薄暗い世界をずっと眺めていた。
人前に立つと赤面、頭は完全に真っ白。おめでたい紅白まんじゅう状態。
教壇に立つたび、本当に息の吸い方さえ忘れてしまいそうな始末。授業どころではない。
当時のおれにとって、教育実習は大統領になって演説するのと同じだった。
そこで、酒に頼ってしまった。前後不覚の酩酊状態で実習をし、翌日のことを考えると動悸が止まらなくなるからまた飲む。一瞬の安堵のために。
酒がエスカレートして、アル中になっていた。ちいさな大名行列や、ピンクの象が見えてしまう、一歩手前まで来ていたのだ。その頃はひどく精神的に衰弱していて、常にまわりの人間が自分の悪口を言っているように見えた。
最終的には、教壇で嘔吐をし、ブラックアウト。
後に、心配して駆け寄ってきた担当教師を殴りつけたのだと聞かされた。
おれはその後、三カ月入院して、断酒会への出席を勧められたが通わなかった。退院後も酒に手を出しかけたが、妹のあかりの「治療」によって酒を辞めることができた。
その「治療」は、例の「軟禁」であったわけだが。
結果として、アル中自体は完治していた。あとは就職するだけ……といっても、大学を中退し、社会から長らく離れていたおれに、改めて教師を目指すのも、普通のサラリーマンもハードルが高すぎた。
おれは、過去に付き合っていた女の家に厄介になりながら二種免を取り、タクシードライバーと、相成ったわけで。
しかし現実、今、三十一歳でその場しのぎのアルバイトの面接を受けている。
おれは、何をしているんだ?
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