【第1章・野良犬の独り言】『三十一歳、バイトデビュー』
「はふぁー」
おれは大学を守る壁に背を預け、間抜けな息をつき、鞄からチョコレートを取り出す。それを口に含んだ瞬間、幸せがおとずれる。
あまい。あまい。脳に栄養、心に笑顔。
ここは大きくて大層立派な建物ではあるが、果たしてここに通う生徒の中身は伴っているのやら。数年前は大学生だった自分を棚にあげて、嘲笑的に笑った。
――そろそろ、あのおっさんをかいくぐって仕事するのも難しいか。
そもそも、この商売がもうじき畳み時かもしれない。十一月で、この寒さだ。冬になればなるほど、足を止める人間が少なくなる分、不利になるのだ。
実際、さっきのババァだって久々の客だったわけだしな。
あー、なにかいい仕事、ねーかな。
せめて冬の間だけでも稼げる仕事。日雇いのアルバイトでもなんでもいいんだ。ただ、上から締めつけのない仕事ならさ。サラリーマンなんてのは、息苦しくておれには無理だ。
周囲に十分警戒しながら、学校をそっと脱出して、近くのコンビニに入る。風呂には一昨日入ったけど、眩しい店内で、おれの薄汚れた顔つきはどこかしなびて映る。そんな自意識、とっくにどこかに置いてきたと思ったのに。
雑誌コーナー。そこの見出しの一つで、件の世界の終末が囁かれていた。
またか。
おれはカゴに安い菓子パンや、一リットルのみかん味のジュースなどを入れて持っていくが、会計のとき、とんでもないことに気付く。さっきの五千円を、どこかに落としたらしい。全財産に近い、一葉様。
まったく、おちゃめなんだから、おれって。
店員の奇異なものを見る目が少し痛いが、おれは「すんません、財布が風邪ひいちゃって」とにやにやと言い、店を出る。ばいちゃ。
もう、札がない。残りは明日の朝のパンの耳のために、残しておきましょう。
逆恨みに、店を出るときに求人誌をむしるように持っていく。
テイクフリー。他の商品も、そうしてくださいよ。
踏切を渡り、大通りに出る。車が夜の街を走り抜ける。おれをミンチにする速度で。おれは、休憩場所にしている神社に向かった。今日は野宿だ。
神さま、こんなわたくしをまもってくださいまし。できれば、鳩目ウロ以外の。
本当は家に帰って眠りたいところだが、今日は木曜で「家」にも帰れない。何故家に帰れないか、これには、少々長い説明が必要だが、おれはもう疲れている。
もう、眠りたい。出来れば、絵本に出てくるみたいな暖かい家で。立身出世なんつう野望は現代では死語になりつつあるが、おれは今でも欲望だらけだ。
うまいもん食っていい女を抱いて、脳味噌緩ませて過ごしたいのさ。
誰彼構わず愛されたいと言うのは、愛するあの子に愛されたいという限定的な願望の、百倍動物的で、まるで畜生のようでもあるが、同時にひどく人間臭い。
パラドキシカルな欲望。
車があれだけ走ってるんだ、その中の一人くらいおれを愛してくれてもいいだろう?
『おにいちゃんはあかりがいないといきていけないよ』
あかりのメールが頭を過った。あいつだけは、おれを愛している?
……色々と考えるのにも、腹が減って駄目だ。貧乏人は哲学者になれないな。
神社に入り、石段に座る。百円の懐中電灯を頼りに、ぱらぱらと求人誌をめくる。写真とともに、時給、勤務時間、交通費の支給の有無などなど、びっしりと書かれていた。そしてそれぞれのお店から、それは素晴らしいコメントが下に添えてありまして。
それはたとえば、コンビニの求人。
『笑顔の素敵な仲間と一緒に働きましょう!』
いや、右から二番目の女の顔が気持ち悪い。素敵とは程遠いぜ。
たとえば、ファミレスの求人。
『飲食店、初めてだけど大丈夫かなぁ。大丈夫です。温かいスタッフが一から教えますよ!』
世の中そんなに温かいなら、おれはこんなところにいない。
たとえば、ガソリンスタンドの求人。
『店長、チャック開いてます! 「あっはっは、すまんすまん」こんな職場です!』
どんな職場だ。
ファーストフードの求人。
『バイトデビューなら……』
デビュー遅すぎるよ。おれ、三十一だよ。
パラパラとめくるうちに、ようやくめぼしい求人を見つけた。埼玉の川越市で、運転手の求人。元タクシードライバーという経歴は、有利に違いない。しかも時給千八百円。ステキやん。
募集しているのは、どうやら小さなアイドル事務所らしい。
『レミング・プロ』か。
群れで行動をするネズミで、崖から集団自殺をすることでも有名だ。
なんとも不吉だが、別に構いやしない。
何より、求人の写真に惹かれた。
『車の運転が上手な男の人って、素敵……♡』
そんなお寒い煽りに加え写真には二人の女。一人は大人しそうだが、もう一人の洗いざらしのロングストレ―トの金髪の女は大層なかわいこちゃん。
つうか、美人。ハーフかな?
水色の涼しげな瞳。下まつ毛にまでたっぷりとぬられたマスカラが、おれの性欲を齧り取るように刺激した。
たまんねーぜ、つまらなさそうな無表情も、いーね。
半開きの薄いピンク色の唇。その下の小さな黒はこちらを誘っているようだ。
車の運転が上手な男の人って素敵、か。そんなことで騒ぐ馬鹿な女にゃ見えないが、でもそうあって欲しいもんだ。
……しかし、どこかで見た顔だな。他人の空似か?
まぁ美人ってのは、自然と個性がなくなるもんだ。ここしかないね。
おれは携帯を握り、電話をしようとして思いとどまる。
そうか、十二時を過ぎたか。携帯ご臨終。文明の利器が、物言わぬパカパカ開いたり閉じたりするプラスチックへと変わる。(誠実な男はガラケーを使うもんなんですよ)
本格的な孤独に苛まれると同時に、誰よりも自由だ。そうか、あかりもこれでメールは送れまい。つか受信できない。ざまあみろ。
深く嘆息して、茂みの中から自分用の段ボールを取り出し、賽銭箱を風よけに、寝転がる。物珍しそうに、白い猫が寄ってくる。
よぉ、にゃー。
【第1章・了】
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