【第1章・野良犬の独り言】『アキレスと亀と落語とチョコレート』
「……では、筆記に入ります。長々と、ありがとうございます」
おれが言うと、女はない顎をさらに竦め、少し緊張の面持ちを見せた。まゆ毛が情けなく下がってしまっている。
女に、十五の質問をした。その交霊する人間――この場合は、彼女の父親についてだ。
1.名前・生年月日などの履歴書程度のプルフィール
2.犯罪歴
3.病歴
4.好きな色
5.酒・タバコを嗜むか
6.寝起きの良さ
7.暑がりか寒がりか
8.眼鏡をかけているか否か
9.声の高低
10.口癖
11.神経質かがさつか
12.性欲の強さ、老人なら、かろうじてでも残っていたか
13.落語を聞くか
14.死後の世界を信じていたか
15.チョコレートが好きか
「落語? チョコレート?」
「これも、必要な質問なんです」
彼女は質問の幾つかを、怪訝に思ったようだ。なるほど、その感覚は間違っていない。必要なのは最初の五つ程度で、その後はどうだっていい。質問が多ければ多いほど、私生活に肉薄し、本質に「迫っている」ような感覚を得るのだ。彼女は、こちらが用意した紙に、質問の答えを連ねていく。
おれはそれをのぞき見する。これで、準備はOKだ。
「……」
おれは、最初は全く意味のない図形を、手元の半紙に筆で描く。○、△、☆、無意味な曲線と直線を書く。ぐちゃぐちゃと、それらを乱暴に塗りつぶしていく。女は興味深そうにこちらの動向を見ていた。見入っている。卑しい目つき。
順調にいっていると思った――そのときだった。
ざ、ざ、と引きずるような足音が、こちらに近づいてきたのだ。
まずい。
おれは、女に向かって唐突に「あんたの親父は、あんたのことを愛していたようだよ。狂おしいほどね」と、いい加減に口早に告げた。女はきょとんとした顔をする。
「どういうことよ、こんなので口寄せなんてインチキだわ」
そんな不平は、ベッドの中で聞いてやる。いや、二度と会わないだろうけど。
「いいから、終わりだ! 行け!」
強い口調で言うと、女は怯えた犬のような情けない息を漏らし、鞄をひっつかんで逃げていった。さっさと終わらせて逃げないと、まずい。
ふう、ドンくさい女だ。
「よぉ、トラ」
こちらに高圧的な眼差しを向けたのは、一人の警官。毛深いもみあげに、浅黒いずんぐりとした体躯。その姿は殻の堅いヤシガニを思わせた。その蟹の後ろには、若々しい素朴な雰囲気の男が、遠巻きに立っている。
「これは、ヤシガニのとっつぁーん」
おれは、とある有名泥棒三世のような、軽い声色で彼に話しかける。彼は首を傾げて、さっきまで女が座っていた椅子に億劫そうに腰かけた。
この男に会うのは、もう何度目だろうね。
おれは映画の『タクシードライバー』に由来して「トラ」と名乗って仕事をしているのだが、どうやら御存じないようで、以前名乗ったときも「虎?」と不思議そうな顔をしていた。
映画ってのは、いいもんですよ。
「許可。今日は、とってんだろうなぁ」
彼は、どん、と乱暴にテーブルに片腕を乗せた。とっつぁん、不快で重たい、熟柿のにおいがたまんねーぜ。酒を飲んでパトロールたぁ、いい御身分で。
捕まってしまっては、仕方ない。どうにか逃げ出す算段をしなくては。
「いやですねぇ、そんな怖い顔しないで」
「べつにしとらん」
「そうだ。ねぇ、警部殿は、ゼノンの『アキレスと亀』という話を御存じで?」
「なんだそれは。知らん」
おれの問いに、彼は素直に答えた。
そういう正直なところは嫌いじゃないですよ。知ったかぶりをしない彼は、相当に自分に自信を持っているのだろう。えらいね、ぱちぱち。
「それはいけません。ぜひ知っておくべき、お話ですよ」
「なんだ。また無駄話か」
おれは何度か、哲学の入門書に載っていそうな話を、自分なりにいじくったものを、彼にしてやった。そのたびに知らないと言うんだから話し甲斐がありますね。
「ま、ま。毎度ですが、触りだけでも」
「お喋りな男だ」
「えぇ、口から先に生まれてきたもんで。……さてさて、昔あるところに、アキレスという青年と、ドンくさい亀がおりまして」
「その亀が俺だっていうんじゃないだろうな」
やだなぁ、怖い顔しないでよ。
「とんでもない」
おれは言った。とっつあんの激しい口臭には、もうお手上げだ。口で浅く呼吸をせざるを得なかった。まったく、奥さんも大変だろうな。
「せっかちなのは、よくないですよ。いいですか。亀とアキレスで、レースをしました。亀にはハンデで、百メートル、あげましょうか。つまりおれがドンくさい亀で、警部殿が颯爽と走るアキレスという事でございます」
「それなら、頷けるな。なにせ、俺は高校時代、陸上部のエースで……」
過去の栄光にすがるのは、堕落の始まりだ。
この男は、出世しないな。
じいっと、とっつあんの顔を見る。深いしわが幾つも刻まれているが、それは味ではなく、たんなる皮膚の衰え。蓄えのない大人のなれの果て。
おれは続ける。
「そんな調子で、アキレスはどんどん差を縮めます。亀はピンチですね」
「それではすぐに追いついてしまうな」
警部殿は、つまらないとばかりに腕を組みなさった。
焦らしていたぶるのが、お好みですか。とんだ間抜けなサディストでござますね。
「アキレスは、ついに亀の寸前まで迫ります。亀がA地点からB地点に移動する。アキレスも続いてAからBへ移動する。その間に亀はBからCへとどうにか移動していきます」
「追いつくのも時間の問題だ」
「そうです。物分かりがよろしくて、話す方も気持ちがいい。そしてCからD、Dから……」
「ちょ、ちょっと待て」
彼は短い寸づまった指を折って、何かを数えている。真面目に考えているようだ。
……ばーか。
おれは荷物をまとめ、椅子を警部殿のおみあしに向かって蹴飛ばし、走り出した。彼は目を白黒させ、急いで駆け出そうとするが、もう遅い。
新米の警官も、出遅れたのだろう。振りかえれども、姿はない。
おれは繁華街のキャバクラの勧誘員やくたびれたサラリーマンをかき分け、近くにある専門学校の塀を乗り越える。外じゃ警部殿が「紺の上着に、緑色の着物を着た男を見なかったか?」と、熱心にご執心。
こりゃあ鶯色ですよ、無粋なお方で。
十分もしないうちに、警部殿のお美しいダミ声も聞こえなくなっていく。
まったく、とんだドン亀だぜ。
こちらの出した前提を飲みこんだ時点で、もうおしまいだ。アキレスが亀のいた場所を目指して走っている限りは、一生追いつくことはない。
どこまでも善良な日本人を肴に、一杯やりたいもんだ。
残念ながら、おれも日本人だけどさ。
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