第31話 妹は兄を凍えさせたくない

「ま、まさか、バイクで走ってきたなんて……信じられません……」

「俺も、我ながら信じられない」


 冬野家は、畑に囲まれた一軒家だった。

 築五年ほどらしく、建物はまだ新しい。


 母は毎朝、雪季ふゆの登校より先に出勤しているようだ。

 春太は冬野家のリビングでソファに座り、雪季が持ってきてくれた毛布にくるまっている。

 エアコンは暖房全開で、熱いコーヒーを飲んでいるが、このくらいではまるで身体があたたまらない。

 倉庫では興奮していたせいか、寒さを感じなかっただけだ。

 今は、ガタガタと身体が震えてしまっている。


「本当に寒そうですね。レイゼン号って名前が凄く気になりますけど……後回しにしてあげます」

「助かるよ」

 そのレイゼン号は、今は冬野家のガレージに駐輪している。

 中古のマシンなのに、ずいぶんと酷使してしまった。

 あとで、労ってやらなければならないだろう。


「すぐにお風呂にお湯入りますから、待っててください」

「ああ。しかし……いい家だな。なんか落ち着く」

「家具の半分くらいは、あっちから持ってきましたから」

「なるほど、そりゃそうだ」

 よく見ると、見覚えがありすぎるテーブルや棚が置かれている。

 母は節約家なので、心機一転より使えるものは使えることを優先したのだろう。


 ピピピッと電子音が鳴った。

「あ、お風呂入りました」

「ああ、悪いけど風呂借りるよ」

「早くあったまってきてください」

 珍しく、雪季の口調が強めだ。

 さっき、セーラー女子たちに反論していたときよりも、困っているように見える。


 春太は脱衣所に入り、服を脱ぐ。

 着替えなどないから、そのまま今着ていた服を着るしかない。

 雪季にもらってきたペーパータオルを床に敷き、そこに服と下着を置いて浴室に入った。

 風呂場に飛び込むようにして入り、熱いシャワーを浴びる。


「うわぁ……」

 こんなにシャワーが気持ちいいと思ったのは生まれて初めてだ。

 部活で汗だくになったあとのシャワーとも、比べものにならない。


 とにかく、シャワーで身体を洗い流してから、バスタブに浸かる。

「おおっ……いいなあ……」

 湯の温度は、ちょうどいい熱さだった。

 温度高めで入れてくれたのだろうが、これは最高だ。


 雪季は家事は一通りできるが、春太に関することは絶妙に気が利く。

 以前、「私はお兄ちゃんのために生まれてきたのかも」などと言っていた。

 実の兄妹ではないことが判明した今では、意味合いが変わりそうな台詞だ。


「しかし、マジでこれ、身体凍りついてたんだな……」

 まだ十月だからと油断しすぎていたようだ。

 一晩バイクで夜風を突っ切って走った上に、こちらは普通に冷え込んでいる。

 レイゼン号にまたがったまま、一時間も寝落ちしていたのもまずかった。

 これは、人生最大の長風呂になるかもしれない……。


「お兄ちゃん」


「…………」

 ガラッと浴室のドアが開き――真っ白な肌が目に入った。

 雪季は、長い黒髪を後ろでまとめ、タオルを身体の前に当てている。


「ちょっと待っててくださいね」

 それだけ言うと、雪季はシャワーを浴び始めた。

 つるりとした白い背中と、ぷりんとした小ぶりな尻を見せつけつつ、全身に浴び終えると――


「お兄ちゃん、ちょっと後ろを空けてください」

「……雪季」

 雪季は戸惑う春太の後ろから湯船に浸かり――ぎゅっと抱きついてくる。

 二つのふくらみの感触が押しつけられる。

 ほどよいボリュームと、ぷるんとした弾力が春太の背中に伝わって――


「後ろ、見ないでくださいね。久しぶりで……なんだか恥ずかしい……」

「さっき、普通に見えてたけど。おっぱいも乳首も」

「ちく……い、言わないでくださいっ……」

 ぎゅううっ、と雪季はさらに強く抱きついてくる。


「お兄ちゃんの身体をあっために来ただけです。私のために、無茶してくれたんですから、せめてこれくらいは……」

「無茶をしたのは松風だな。普通、追いかけてこないだろ。あいつがいたから、あの女子たちも引き下がったんだろうし。美味しいトコ持って行かれたな」

「いいえ、お兄ちゃんのほうがかっこよかったです」

 きっぱりと言い切る雪季。


「……松風には言うなよ?」

「松風さんには、あとでちゃんとお礼を言います。でも、お兄ちゃんが一番なのは変わりません」

 雪季からは肌の柔らかさだけでなく、あたたかい体温も伝わってくる。

 芯まで凍りついた身体を溶かすかのようだ――


「さっき……“雪季ちゃん”って呼びましたね」

「え?」

「私、自分を雪季ちゃんって呼んでましたけど……昔、お兄ちゃんも私をちゃん付けで呼んでましたよ。忘れました?」

「……いや」

 言われてみれば、そんな呼び方をしていた。

 いつからか、恥ずかしくて呼び捨てにするようになったのだろう。


「そもそも私が自分を雪季ちゃん呼びしてたのも、お兄ちゃんがそう呼んでたからじゃないでしょうか?」

「そんな気もする……」

 父と母に離婚を告げられたあの朝。

 無意識に、雪季は昔の一人称に戻っていた。

 夜になってその話をしたときに、雪季はなにか言いたげだった気がする。

 雪季のほうは、兄からの呼び方を覚えていたからだろう。


「懐かしくて、ちょっと嬉しかったです」

「恥ずかしい。できれば忘れてくれ」

「でも……来てくれたことは、忘れられませんよ? たぶん、一生」

 雪季は、ちゅっと春太の背中に唇をつけてきた。

 その唇の感触はあたたかくて、くすぐったい。


「お兄ちゃん。どうして、急に……来てくれたんですか?」

「ああ、それは……」

 毎日のLINEで気づいた違和感。

 冷泉と氷川が遊びに行ったときのネット回線の状況。

 春太は、雪季の身になにかが起きてると気づいた経緯を説明する。


「で、でも……そんな確証もないのに、一晩バイクを飛ばしてくるなんて……」

「そうだな、違和感に気づいたのもあるが……それを口実に雪季に会いたかったんだろうな、俺は」

 母にでも電話して、状況を確認してもよかったのだ。

 それをせずに飛び出してしまったのは――もう雪季の顔を見られない時間に耐えられなくなっていたのだろう。


「でも、正直なことを言うと……」

「正直なことを言うと?」

 雪季は春太の背中に頬をつけながら、言外に「話して」と促してくる。


「雪季が転校先で孤立してるんじゃないか……ってな」

「あの人たちの言うとおりですよ」

「え?」

「男子たちにはチヤホヤされてたので……孤立、ではないですね。いえ、私は男の子からも逃げていたので、やっぱり孤立していたんでしょうか?」

「雪季は男をあしらうのは上手いからな」

「あはは、そうですね。男の子たちにお願いすれば、女子たちから守ってもらえたかもしれません。まだまだ、修行が足りません」

「雪季には、そんな器用な立ち回りは無理だな」

 確かに、雪季の美貌に魅了されていたであろう男子たちを利用することは有効な手だ。

 だが、雪季はそこまでズル賢くなれないのだろう。


「ああ、でも」

「なんだ?」

「ひょっとすると私も……お兄ちゃんが違和感を持つようなLINEとか送り続けて、気づいてくれるのを待っていたとか……」

「雪季はそこまで賢くもないだろ」

「ひどいです!」

 ぎゅうっと締め上げる勢いで、強く抱きついてくる雪季。


「悪い、悪い。けど、来てよかった。雪季、倉庫のあいつらは……」

「あの人たち、転校してすぐ私に話しかけてくれた人たちなんです。優しくて親切で……向こうの学校の話とかも楽しそうに聞いてくれて……」

「えらく豹変したもんだな、あいつら……」


「みんな親切だったのに、私は引っ越しに納得できなくて、馴染めなくて……私の態度がみんなをイラつかせたのかもしれません」

「だからって、雪季を吊るし上げたり、盗撮していいってことにはならねぇよ」

「イジメ……なんて自分が被害者になるなんて思いもしませんでした」

「…………」

 イジメ、とはっきり言われると春太も辛い。


 小賢しく、セーラー女子たちの所業の“証拠”を握ろうと録音などしていたのが悔やまれる。

 そんなことより、一秒でも早く雪季をかばうべきだった。

 少しでも雪季の傷を浅くするべきだった。


「学校では男の子たちの目もあったので、あの人たちもなにもしてこなくて……学校の行き帰りに、あの倉庫とかに連れて行かれて、さっきみたいに……」

「雪季、もういい」


「いつからか、写真撮られるようになって……や、やめてくださいって言っても、聞いてくれなくて……」

「なんで俺に……」

 言わなかったのか、と言いかけて春太は口をつぐんだ。

 雪季の気持ちは、察しがつく。

 春太にこそ言えなかったのだろう。

 雪季は春太に心配をかけたくなくて、言ってしまえば今のように駆けつけてくるのがわかっていて。

 だからこそ――雪季は黙って耐えてしまった。


「こうなっちゃうの、わかってましたから……お兄ちゃんが来たら、甘えてしまうって。私、お兄ちゃんがいなくても……一人で頑張らなきゃいけないのに……」

「…………」

 雪季は、春太がなにを言いかけたのか正確に察したようだ。

 証拠を掴もうと小賢しいマネをしたり、今日の春太は失敗続きだ。

「よく頑張った。でもな、あんなのは……耐えなくていいことだ。助けを求めてもよかったんだよ、雪季」


「ダメなんです、お兄ちゃん……弱いままの私で……お兄ちゃんのところに帰りたくなかったから」

「帰る……?」

「いつか、必ず……お兄ちゃんのところに帰るつもりでした。高校を出てからになるかもしれませんけど……いつか、絶対に」


「……奇遇だな。俺も、雪季を連れ戻すつもりだった。いつか、必ず、絶対に」

「血が繋がってなくても……同じこと考えちゃうみたいですね、私たち」

「でも、俺は兄貴だからな。俺のほうから迎えに来ないと」

「ええ、来てくれました……まだお兄ちゃんに会えないと思ってましたけど……来てくれて、本当に……」

 雪季は後ろから春太に抱きついたまま、言葉を詰まらせた。


 春太は振り向きたかったが、その誘惑に必死に抗う。

 たぶん、雪季は泣いているだろう。

 安堵か、それとも悔しいのか。

 あるいは、その両方か。


 今は、雪季は泣き顔は見られたくないだろうと――だから、春太は振り向かなかった。

 ただ、しがみつくようにして抱きついてくる雪季の体温を感じていた。

 もう、凍えていた身体はすっかりあたたまっていた。

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