第16話 妹はまだ泣けない

「ううっ、ちょっと寒いですね」

「五月だからな。まだ冷えるって言っただろ」


 春太と雪季ふゆは、こっそりと家を抜け出してきた。

 春太はパーカーに、下はジャージ。

 雪季のほうは長い茶髪を後ろで結び、黒とピンクのジャージの上着にハーフパンツという格好だ。


「どうする、雪季。一度、引き返すか?」

「我慢できないほどじゃありません。行きましょう、お兄ちゃん」

 雪季は、春太の後ろをぽてぽてと歩いてくる。

 いつもなら嬉しそうに腕を絡めてくるが、さすがに今日はそんな気分ではないようだ。


「ちょっと待ってろ」

 春太はコンビニに入り、ホットのコーヒーとココアを買い、ココアのほうを雪季に渡した。

「わ、あったかいです……」

「これで少しはマシだろ。ああ、あそこに行くか」

 コンビニのすぐ近くに児童公園がある。

 春太は雪季と公園のベンチに座った。


「誰もいないな。こんなとこ、ヤンキーとかカップルとかいそうなもんだけどな」

「このあたりは夜は人少ないんですね。あまり気にしたことなかったですけど」

「夜中に出歩かないもんな、俺たち。この公園も、夜に来たのは初めてだ」

 ブランコと滑り台があるだけの小さな公園だ。

 家から徒歩五分ほどなので、春太と雪季も幼い頃はここでよく遊んだものだ。


「覚えてます、お兄ちゃん?」

「ん?」

「小さい頃、ここで私が一人で遊んでたら男の子たちに追い出されそうになったんです。そしたら、お兄ちゃんが呼んでもないのに現れて、その男の子たちを脅かして追い払ってくれたんですよね」

「……そんなことあったか?」

 春太は子供の頃から身体が大きく、ケンカをして負けた覚えがない。

 もっと大きい松風にも負けたことがないくらいだ。

 数人のいじめっ子を追い払う程度は、造作もなかっただろうが。


「私は覚えてますよ。他の女の子と違って、私には本物のヒーローがいるとか、痛いことを思ってたんですから」

「呼んでもないのにとか、痛いこととか、余計な付け足しがなけりゃいい話だな」

「照れ隠しで付け足してるんです、わかってください」

「わかってるよ」


 春太は、ずずーっとコーヒーをすする。

 ミルクも砂糖も入れていないので、ずいぶん苦い。

 ブラックコーヒーなど飲んだことはなかったが、今日はこの苦さを味わいたかった。


「でも、ちょっと腑に落ちたところもあるんです」

「ん……?」

「私とお兄ちゃん、自他共に認める怪しい関係の兄妹でしたけど、実はそうでもなかったってことですよね」

「……ポジティブに考えるならな」


 春太と雪季は血が繋がっていない――

 だったら、二人が普通の兄妹を越えた感情を持っていてもおかしくない。

 ただ――


「俺は物心ついた頃から雪季を妹だと認識してたんだ。血が繋がってないなんて疑ったこともない。それでいて、普通の兄貴じゃありえないほど妹を可愛がってたのは、やっぱり異常ではあったんだろ」

「異常……異常って言うんですね、お兄ちゃんは」

「今さら、取りつくろう必要もないだろ。雪季、悪いけどおまえも普通じゃないぞ」

「ズバズバ言いますね、お兄ちゃん」

 雪季は困った顔をして、こくこくとココアを飲む。


 少しばかり乱暴な物言いだったが、雪季は落ち着いている。

 今朝から呆然とすることはあっても、取り乱す様子はなかった。

 まだ中学生の彼女には大きなショックだっただろうに。


 春太も受けたショックは決して小さくないが、雪季が泣きわめいたりしないからこそ、平静を保っていられるのかもしれない。

 どっちが年上なんだか――と春太は苦笑しそうになる。


「異常……確かに普通じゃないですね、私も。兄に甘えてる妹なんて他にもいますけど、私くらいの甘えっ子はそうはいないですね」

「俺が甘えさせてたっていうのも大きいな」

 春太が少しでも突き放していれば、雪季の懐き方も今とは違っていたかもしれない。


「はぁ……」

 雪季は、大きなため息を吐き出した。


「血が繋がらない兄妹なんて、漫画とかドラマではよくありますけど、まさか自分にそんなドラマがあるなんて想像もしませんでした」

「今の自分に満足してたからじゃないか?」

「え?」


「ありえないことを想像するのは、満たされないからだ。俺も雪季がいなかったら、“自分に可愛い妹がいれば”――なんて妄想をたくましくしてたかも」

「なるほど、お兄ちゃんは頭がいいですね……今の自分に不満がなかったから、変な想像もしなかった……って、あれ? さっきからお兄ちゃんお兄ちゃん言ってますけど、もうこう呼んじゃダメなんですかね……?」

 雪季は、唐突に泣きそうな顔になった。

 大きな目がわずかに潤んでいる。

 今さらそんなことに気づいて、ショックを受けるのが雪季らしいが――


「急に呼び捨てにされても困るな。雪季の好きにすればいいだろ」

「あ……はい。そうします、お兄ちゃん」

 子供の頃から数え切れないほど、兄と呼ばれてきたのだ。

 春太も、雪季に他人行儀な呼び方をするつもりはない。


「そういや、雪季。今朝、おまえ自分を“雪季ちゃん”って呼んでたぞ」

「えっ!」

 雪季は、今度は目を丸くしている。

 やはり、無意識に昔の一人称に戻っていたらしい。


「何年ぶりかな、聞いたのは。もう全然言わなくなってたよな。それこそ、この公園で遊んでた頃以来か」

「わ、忘れてください……油断しました。自分をちゃん付けとか、さすがにこの歳ではイタいです……」

 雪季は頬を赤く染めている。


「でも、そういうお兄ちゃんも――」

「ん? なんだ?」

「あ、いえ。なんでもありません。なんでも……」


 明らかになにかありそうな様子だ。

 春太は一人称が名前だったことはないし、もちろんちゃん付けもしたことはない。

 特に思い当たることはないし、今無理に思い出すことでもないいだろう。

 

「あ、呼び方といえば……」

「今度はなんだ?」

「……“春太”と“雪季”なんて、共通性がある名前なのもまぎらわしかったですね。たまたまでしょうか?」

「生まれた季節を名前に入れるなんて、珍しくもないからな」

 春太は凝っている妹の名前に対して、自分の名前がシンプルなことに疑問を持ちはしなかった。

 実の兄妹でも一方だけが凝ったネーミングになってることもあるだろう。


「……はっ!? ま、まさか……兄妹じゃなかったと見せかけて、実は私、パパとママがダブル不倫して生まれた子だとか!?」

「話が込み入りすぎだろ。さすがに、この期に及んで父さんたちも嘘はつかねぇよ」

「ですよねー……」

 驚いたことに、雪季はまだ実の兄妹だという望みを捨てていなかったらしい。

 両親が前の相手と結婚してた頃から付き合いがあった可能性は――春太は、首を振る。

 親のそんな生々しい話は想像したくなかった。


「でも、パパとママの離婚が吹っ飛びました。親の離婚なんて、人生で一度起きるだけでもレアなイベントなのに」

「ふわっと聞き流しちまったが、二度目なんじゃないか? 父さんも母さんも離婚してから再婚した、みたいな話をしてたよな?」

「……そうでした。私もあまり頭に入ってなかったですけど、そんなこと言ってました」


 春太の父と実の母、雪季の母と実の父は死別ではなく離婚だったと話していた。

 どちらでもいいことだからか、春太は聞き流してしまったし、雪季も同様らしい。

 なんにしても、春太と雪季が物心つく前の話だ。


「まあ、実の親とかも吹っ飛んだ感はあるな、残念ながら」

「パパは二人もいりません」

 短く、きっぱりと宣言するように雪季は言った。

 二人はしばらく黙ったまま飲み物を口にして。

 飲み終わると、春太がコンビニに戻ってカップを捨ててきた。

 妹の前で不法投棄はできない。普段からしないが。


「ん?」

 春太が公園に戻ると、雪季はブランコに座っていた。

 寂しそうにうつむいて、まるで迷子の子供みたいに――


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