第11話 兆し
その日の客入りは上々だった。時給働きの身としては忙しくない方がありがたかったりするが、二年目からは社員でと言ってもらえているので、そろそろ意識もそっちに合わせておく方がいいだろう。
俺は閉店後の掃除の
「もしかしたら大三輪神社の神様かも知れないね」
「ですよね、いいもの見ましたよ」
返事をしつつ、おや、と引っかかるものがあり続けて質問した。
「神の使いじゃなくて、神様ですか?」
「ああ、大三輪神社でお祀りしているのが蛇神様でね。白い蛇が輪っかになった形の、あの三つ星に似た感じの神紋てそのまんま神様の姿なんだよ」
「へえ。神社には引っ越ししたばっかりの時に一回行ったっきりなんですけど、蛇って珍しいですね?」
「いや、そんなことはないよ。水に関わりが深い地域には多いんじゃないかな」
宗教や歴史や民俗学といった分野にはそこまで興味を持ったことがなかったせいか、神と言ったら人型が基本なんだろうと勝手に考えていた。どうやらそういうわけでもないようだ。
「神様も色々なんですね」
かなり大雑把な返事に、店長から笑い声が漏れ出た。
「東堂君、なんか坂崎君に似てきたね」
「いや、あそこまで大雑把じゃないですよ!」
「えー似てきたと思うけどなあ」
談笑しながらも手を動かしていると、そろそろ清掃も終わりそうだ。そのタイミングで岬さんがフロアの方から顔を出してきた。
「店長、こっち終わりました」
さすがにみんな正月からだらだらと働きたくないのもあってか閉店後の仕事は進みが早く、日付が変わってすぐに家に帰りつけた。
「ってぇ!!」
スマホの充電をしようと帰宅早々和室に入ったのだが、不意に固いものが足の裏にめり込んで情けなく悲鳴を上げる。
「……ったく、なんだよ」
洋間から入りこむ光の中に、ころころと棒が半分姿を見せる。昨夜押し入れの襖に噛ませた突っ張り棒だ。何かの拍子で外れて転がったのを踏んでしまったらしい。左足の土踏まずに残る刺すような痛みに舌打ちしながら、立ち上がって灯りを点ける。やはり押し入れの襖は薄く開いていた。それを閉じて再びしっかりと棒を噛ませる。
『次はあなたです。ご愁傷様です』
不意に今朝思い出した男の声が頭の中に
真っ赤な夕日に照らされたこの和室で、男がぶつぶつとよくわからないことを呟き続けているあの夢は、一度思い出してしまうと強烈に脳裏に焼き付いてしまった。あの夢の中で、この襖はどうなっていただろう。
そんな嫌な予感を抱えながら床に就くと、案の定と言うのか、俺はその夜夢を見た。
赤い。
真っ赤だ。
西日に染まったこの和室は随分と物が多い。物置として使われているのだろうか。
そこに女が一人立っている。若い女だ。肩を少し過ぎる程度の髪の色は赤い。恐らく本来は明るい色の髪だろうに、西日が何もかもを焼き尽くしている。女の目は一心に押し入れの下段を見つめている。
これだけ部屋一杯に荷物があると言うのに、押し入れの中は空だった。いや、もしかしたら押し入れの中身をすべて出したからこうなっているのかもしれない。
浮遊する意識を、その場にいるのかいないのかも定かでない身を動かしてみる。どうやら大きくは動かせないようだが、試行錯誤しているとわずかに視界をずらせた。キャスター付きの収納ラックの上にキレイに並べられた女の所持品らしきものを見つける。
運転免許証、現金、ハンカチ、スマホなどだ。どうしてこんな置き方をするのだろう。まるで見せるために置いているかのようだ。
女に意識を戻すと、彼女の手に包丁が握られていることに気がついた。使い古された家庭用の包丁だ。切れ味が落ちたまま研いだ様子もない。それも
使う前ってなんだ。もっと他に見るべきものはと渾身の力で意識を彷徨わせるがうまくいかない。
観客の都合などはお構いなしに、女はもそもそと押し入れの下段に入って行く。そして上に着ていたシャツの前ボタンをすべて外し、パンツのボタンとファスナーをくつろげると、白い柔らかそうな腹が丸見えになった。
そこでようやく正面から顔を見たが、そこに感情があるのかどうかわからない、全く平常であるかのような表情だった。目が血走っているとか、見開いていることもない。これからやろうとしているはずのことに対して、あまりにも平然とし過ぎていないだろうか。
準備が整うと女はまるで躊躇いと言うものもなしに、包丁の切っ先を逆手に握って自分の右わき腹に突き刺した。ぐいぐいと刃を出し入れしながら、のこぎりを引くように切り開いていく。悲鳴も上げなければ呻きもしない。痛みを感じていないかのようだ。開き切ると女は腹の中に自分の手をうずめていく。何かを探すような手つきだ。
唐突に魚をさばく動画のことを思い出した。三枚に捌く基本的な手順で、魚の腹に切れ込みを入れて、器用に
生きた人間にそんなことが可能なのかわからないが、これは夢だ。これらはすべて夢の産物であって、決して実際に起きたことではない。そんなことがあってたまるか。
あれよあれよという間に止め処なく溢れる血が押し入れ一杯に広がった。枠の段差にせき止められているが、投げ出された左足を伝って血が溝に滲みていく。血液が溝をちろちろと進んでいくが、量が少ないのか向かって右側の一間分も染められなかった。ああ、だから片側だけ削られていたのか。
そうして彼女は動かなくなった。結局最後まで一度も声を漏らさなかった。両手に自身の
どうしようもなくその音を聞いてる俺に、彼女はゆっくりと顔を向けた。
『ここにいないほうがいいよ』
ぎりぎり聞こえるかどうかと言う、か細い声だった。俺はとっさにそれに応じて声を出そうとするが、
(あんたはどうしてそんなことになったんだ?)
虚ろな目は黒々として、瞬き一つしない。もう事切れているのだ。それなのにはくはくと口だけが動いている。どうやら俺の頭の中の言葉は届いていたらしい。
『
彼女の答えを聞くや否や、ばちんとした衝撃とともに身を起こした。寝てる間呼吸を止めていたらしく、音が聞こえるほど急激に酸素を取りこんだせいで盛大にむせた。少しの間息もつけないほど激しく咳き込み、視界は涙で滲んでいく。
それが多少マシになって、ようやくまだ夜が明けて間もないことを知った。夢とは対照的に部屋は
恐々と首をめぐらし、襖を見れば予想に反してきっちりと閉まっていた。反対側には棒が噛まされたままだ。
俺は洋間に行って筆記用具とノートを取り出し、今度はしっかりと頭に残っていた夢の内容を
「
運転免許にあった名前をしっかりと憶えていた。スマホで検索するが、特に出てくるものはない。オンラインで調べられることはなさそうだ。あとは不動産か、気は進まないが大家に聞くしかないだろう。
「聞いてどうすんだよ」
苛立ち任せにボールペンを放る。あれはただの夢で、現実の過去で起きたことではない。そう考えて流した方が常識的で、楽だ。しかし、あんなものを見たら確かめずにはいられない。
「亀田さんなら、知ってるかな」
そう言えば前に話を聞いた時、もっと詳しい事を知っているような口ぶりだった。
もしも夢の内容が現実と結びついているとしたら、やはりこれは超常的な何かで俺は何かしらの対処が必要かもしれない。
『次はあなたです。ご愁傷様です』
『ここにいないほうがいいよ』
二人分の声がまぜこぜに聞こえた。肋骨の下辺りがじわじわと酸に溶かされていくような不安を覚える。そのまま放置したら、下半身ごと逃げるための足をもぎ取られてしまいそうだった。
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