第10話 白縄
その後は大きなやらかしもなく、記憶に残るような出来事もなく、あっという間に冬が来て、翌年の元旦になった。
任される仕事も増え、フロアだけでなく厨房にも後輩が増えている。
余裕はできるが、店の規模を考えると人が多いんじゃないかと店長に聞くと、どうやら二号店の出店を計画していているらしい。こちらでスタッフをある程度育成してから連れていきたいと言うことだ。
二号店が開店した暁には三浦さんに任せる予定で、三浦さんも必要な資格は取得済みらしい。この頃には俺も腹が決まり、飲食店の経営に必要な食品衛生責任者資格と防火管理者資格を取得──については追々考えるとして、手始めに調理士を目指して勉強を始めている。
勘当されたので当然だが、年末年始に帰省することはなかった。店は休まず営業すると言うので渡りに船だとシフトを入れた。坂崎は帰省組で、三浦さんは家族と過ごすようなので、基本的に俺と店長で回すことになった。
二人体制はそれまでにも何回かありはしたが、連日となると多少の不安を覚える。ただ繁華街に近いとは言え年末年始はそこまで客入りも伸びず、直前にあった目の回る忘年会シーズンに比べれば
そんな程よい忙しさと喧騒に守られ仕事中は気にせずに済んでいたが、家に帰れば一人の空間が待っている。
部屋に入れば自分の足音の他、下階のテレビの音声が辛うじて聞こえるだけだ。隣人はここ数日気配を感じないので帰省しているのかもしれない。帰り道にコンビニで買ったおでんをテーブルに置く際のビニール袋のガサガサしたノイズが気に障る。
これまでの年末年始は、夜勤でなければ実家で家族と過ごすか、友人たちと日の出を拝みに夜通し一緒に過ごしてきたので、こんな風に完全に一人で過ごすのはいつぶりだろう。もしかしたら初めてかも知れなかった。
おでんを平らげ、さっさと風呂を済ませることにした。先にやりたいこともなければ、後回しにすればするほど腰が重くなる。
湯船に浸かれば、いつもの野良猫の声が聞こえてくる。この寒空の下、こいつらはどう過ごしているんだろう。何匹か固まって身を寄せ合っているのだろうか。それとも一匹ぽっちで風を避けながら必死に仲間に呼びかけているんだろうか。
(俺に猫語ができれば返事してやるんだけどな)
そんな馬鹿げたことを考えていると、不意に意地の悪い自分が暗闇から顔を出し『犬猫に縋るようになったらお終いだな』と冷や水を浴びせかけてきた。お終いってなにがだよ、と反論するのも馬鹿馬鹿しい。ここ数日はこんな風に自虐的になることが増えている。
気がざわついているせいか、その夜俺は布団に横になっても寝付けない。仕方がないので真っ暗な和室で布団に寝転がりながら適当に動画を眺めて眠気が来るのを待つ。しかし1時間経っても眠れる気がせず、俺は観念して灯りを点けた。
ホットミルクにブランデーでも落として飲もうと腰を浮かせると、押し入れの隙間が目に入ってくる。閉めても閉めても10cmほどの隙間が空くその襖に、もう俺は慣れ切っていた。
一時は本気で心霊現象かと恐ろしくなり、長時間目を離す前に写真を取って勝手に開くか確認までした。その結果、やはり勝手に開いていた。それを知った時の俺の
どうやら敷居がほんの少しだけ
小鹿のように震える俺を見かねて坂崎と木戸さんが探偵役を買って出てくれたのだが、うちに来て10分足らずで解決してくれた。
木戸さん曰く、
「幽霊の正体見たり枯れ尾花って言いますが、ほんと物理で解明できる心霊現象って多いんですよね。共鳴とか電磁波とか。それら通常現象のまやかしの中から本物の超常現象を探り当てるのが我々心霊探偵なのですよ」
だそうだ。
ちなみに木戸さんは元演劇部で、演劇にまつわる怪談話を収集し始めたのがこの趣味の始まりなんだとか。理解できない。
ホラーではないと理解していても、隙間は怖い。俺は隙間に気づく度に律儀に閉め、煩わしい時は棒や定規を立てかけて開かないようにしていた。その時も突っ張り棒をセットして、ホットミルクを飲んでからようやく到着した眠気に喜んで身を預けた。
寝付くのに難儀した割には寝起きは爽やかで、天気も良かったので朝食は外で食べることにした。近所の公園のベンチだ。このモニュメント周りのベンチにはよく鳩に餌をやっている人が座っているが、今は俺以外に座る人間はおろか、鳩一羽いない。
腰を下ろせば冷え切った板に迎えられ、全身を震わせた。
肝心の朝食は、少し足を延ばし駅前のマクドナルドで一式を買い込んで来てある。チェーン店とは言え同じ飲食店だ。正月早々の営業に頭が下がる。メガマフィンにハッシュポテトにナゲットと、さすがに朝から買い過ぎたかもしれない。しかし紙袋の口を開けると湯気と共に肉と油のいい匂いが空にふわりと広がり、その心配も一瞬で散らばってしまった。
がさごそと手探りでポテトを取り出す。さあ食べるかと思ったが日差しが目を突き刺し、背もたれのない両面のベンチで体を反転させた。それで公園の外縁を向くことになり、植えられている裸になった落葉樹や常緑の低木で視界がいっぱいになると、背中が日光でじわじわと温められていく。
ポテトと日差しによって体の内外から熱がのぼり、インナーを一枚減らしてもいいかもしれないと思ったほどだ。
ぬくぬくと木々を眺めながらポテトを口に運んでいると、視界に白い何かが映りこんだ。葉がきれいに落ちた木の枝から細長いものが垂れ下がっている。
白い縄が枝に引っかかって風に揺れているのかと思って目をすがめると、その白縄はぐぐっと浮き上がって中ほどで折れ曲がり、端が枝に着くとその上部を這っていく。そこまで見てようやくそれが一匹の蛇だと言うことに気が付いた。
真っ白な体に陽光がきらきらと反射して鱗まで見えるようだ。きれいだと半ば見惚れている間に、ふとした疑問が鎌首をもたげる。
(冬眠しないのか?)
全ての蛇が冬眠するわけではないのかもしれない、とすぐさまスマホに解を求める。暖冬だと起きてしまうこともあると言うことなので、日の光の温かさにこいつも巣穴から出てきたのかもしれない。
スマホから顔を上げるともう蛇はどこかに去ってしまっていた。
ふと大三輪神社の紋は白蛇だったことを思い出し、三箇日は無理でもそのうち初詣には行こう。もしかしたら神社のお使いだったのかもなどと縁起のいい気持でいると、丁度蛇がいた辺りの木の向こう側を人影が通り過ぎた。
警官の制服だ。向こうは自転車に乗り、こちらには気が付かなかったようだ。以前亀田さんが名前を上げていた警官だろうか。
なんとなく見送っていると、一瞬見えた横顔に既視感を覚え、その刹那真っ赤な閃きが脳裏を駆け抜けた。
あれはあの夏の悪夢で見た男ではなかったか? 完全に忘れ去っていた夢の記憶が蘇った。
赤い部屋、見知らぬ男、聞き覚えのない声。開き切った瞳孔の黒々とした陥穽は、自分を飲み込む隙を窺っているかのよう。
『次はあなたです。ご愁傷様です』
今更ながらに、あれはいったいどういう意味なのか、知る術はない。
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