第9話 不調
「東堂、東堂、なあって、……とーうーどーー」
俺は坂崎の呼びかけに勢いよく、文字通り飛び起きた。
「…………っ!!!」
「おぉわっ」
坂崎は俺を避けようとしたせいで尻もちをついたが、俺は構っていられない。心臓がバクバクと走り続け、額には汗がにじむ。
「東堂さん? 大丈夫ですか……すごい汗」
水汲んできて、と木戸さんの声が聞こえるが、おそらく鈴木さんに向けたものだろう。時を置かず、水がたっぷり入ったガラスのコップが視界に横入りしてきた。ここでようやく俺の意識は正常に覚醒した。
「……ごめん、ありがとう」
水を一気に飲み干し、空になったコップをのぞき込む。残った雫がガラス越しの掌を屈折させながら底に落ちていく。
「東堂、お前すっげーうなされてたぞ。大丈夫か?」
「おかわり汲んできますか?」
「いや、ありがとう、大丈夫。……そんなにうなされてました?」
鈴木さんに軽く礼を言って坂崎に質問で返すと、これには木戸さんが答えてくれた。
「三人で囲むくらいにはね」
そう言えば女子組は和室の方で寝てもらったはずだが、全開の戸の向こうに既にたたまれた布団の塊が見える。ついさっきまでソファベッドで呻いていた俺を、三人でのぞき込んでいたようだ。
「怖い夢?」
木戸さんが俺の手からコップを受け取りながら尋ねてきたので、そうだと答えようとしてはたと止まった。さっきまで確かに恐怖で頭が塗りつぶされていたはずなのに、思い返すと既に何を見たのかが
「そうだと思うけど、どんなんだったかもう忘れたかも」
「女出てきた?」
坂崎がちらりと背後のフローリングを見遣る。
「いやー……どうだろ」
息を整えて目をつむり、改めて思い出そうとする。ぎゅっと目蓋に力を込めていたらグレーの幕にでたらめに星が散りだしたので、諦めて目を開けた。
「やっぱ思い出せないや、すみません」
そうこうしてるうちに汗もひき、呼吸も心音もようやく落ち着いた。起きた時点で既に昼前だったこともあり、そのまま解散することになった。
俺と木戸さんは午後からシフトに入っていたが、軽い二日酔いと睡眠不足気味のコンディションではなかなか本領発揮とはいかず、俺は凡ミスを連発してしまった。坂崎がいないため俺と三浦さんで回すはずのシフトを、見かねた店長が厨房に入ってくれてどうにか一日を乗り切った体たらくだった。
「体調悪いんなら最初から相談してくれ」
「本当にすみません……」
仕事が終わってから、
「まだ入って三か月だろ。そういう時は周りに泣きついて全然いいんだよ」
三浦さんはいつもより少しだけ粗い手つきで制服を脱いでいく。
「前は坂崎と店長の三人でずっと回してたんだから実際なんとかなるんだよ。それじゃ余裕がなさ過ぎるからっつってお前さんに入ってもらったんだ」
「……はい」
「お前がミスって開き直るような奴なら言わねえよ。そうじゃなくて一人で溜め込みそうだから言ってんだわ。フルタイムで来てくれてるしやる気もある。まだ段取り悪いところもあるけど、真面目に一個ずつ仕事覚えてってんだろ」
「…………そう、ですかね」
「そうだよ。この手の仕事もここが初なんだし、真面目なのはありがたいけどちっとは手抜きも覚えてくれ。坂崎の真似しろ。じゃないと後々しんどくなるぞ。一日休んだくらいで態度変えねえよ」
態度と口調は厳しいが、そこには気遣いが含まれている。そのため体調不良の原因が酒であることは最後まで言い出せなかった。風邪や腰痛、その他の病気などであれば俺も三浦さんの言う通り素直に泣きついただろうが、はしゃいで飲んだ結果である。二重三重の申し訳なさに背中を丸めたまま車に乗り込んだ。
意気消沈して家に帰るとバスタブになみなみと湯を溜めた。風呂は心の洗濯とばかりに、心が荒む度に長湯するようになったのは前職の置き土産と言えよう。頭を空にしてリラックスしようとたっぷりの湯に身を沈めた、のだが。
……ぁーう、おぁー…ん
さっきからどこかで猫が鳴いている。甲高いような独特の鳴き声で気が散って微妙に
このアパートがペットOKかは知らならないが、猫なら少し飼ってみたい気が昔からある。なんとなく手がかからなそうで、犬のように毎日の散歩を必要としないのもいい。
それでつられて、実家で飼っていた犬の
それほど父の怒りはすさまじかった。俺自身はベストを尽くしていたし、日夜身も心も擦り潰して仕事していただけなのにどうして俺ばっか……。
そんな自己弁護に耽る自分に気が付いて、どぷん、と湯船に一気に身を落とした。
心の洗濯なんじゃないのか──。ぎゅっと目をつぶり、潜ったまま適当に大声を出した。くぐもった自分の声より、吐き出される空気のごポごポとした音が大きく聞こえる。息を吐き出しきると水面から頭を出した。
(あれは俺が悪い。俺が悪い。俺が悪いんだ)
俺は地元で人を殴って、逃げるようにこの土地に来ていた。息子の暴力話が広まった地元に居続けなきゃいけない両親のことを考えれば、恨み言など言える立場にはない。相手方にも問題があったことから被害届を出されずに示談で済ませてもらえたが、その示談金を立て替えてくれたのだって両親だ。毎月少額でも返済のため父の口座に送金をしているが、それも当初は拒否された。
はあと息を吐き、胸にこびりついた汚れが一つも落ちないまま俺は余計に重くなった身体をどうにか湯船から引き上げる。猫の声はもう聞こえなくなっていた。
《なんか今日厨房荒れたって木戸さんから聞いたんだけど、どした?》
風呂から上がり少しすると、LINEに坂崎からメッセージが届いた。フロアに気付かれないとは自分も思っていなかったが、木戸さんはなぜ坂崎に話してしまうのかともんにゃりとした気分になる。“もんにゃり”がどんな気分かは形容しがたいが、愉快ではなく、かといって不愉快まではいかない中途半端な心持ちだ。
《二日酔いと寝不足が祟ってポカしまくって三浦さんがキレました》
《ああ》
その一言の返信から少しだけ間が空いた後にこう続いた。
《二人の時だと休みにくいよな。理由が飲みだし》
《そうなんですよ。三浦さんにめちゃくちゃ説教されたんですけど気遣いもすごかったんで、申し訳なくて言い出せませんでした》
《じゃあ俺も言わんとこ。まあ明日からまた頑張れや》
最後に頑張りますというスタンプを送ってやり取りは終わらせた。
それからスマホを置いて両手でパンと顔を叩き、無理やり気分が入れ替わったことにする。窓の近くに敷いた布団に腰を落ち着け、蛍光灯のプルスイッチの紐を引き下げようとした時になんとはなしに視線が呼ばれた。押し入れの襖だ。隙間が空いている。
「……んっとに薄気味悪いな」
舌打ちをして閉じれば、たん、と軽い音がする。きっとまた勢いをつけて閉めでもした反動だろうと決めつけて、嫌な
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