第2話 噂


「東堂さんて事故物件に住んでるんでしょ?」


 好奇心を隠そうともしないフロア担当の木戸きど綺夏あやかにそう聞かれたのは、閉店後に送ってもらう車中のことだった。俺たちより3つ年下の彼女はこの店7年目の先輩で、三浦さんよりは短いが古株の一人だ。

 なぜ彼女の車に乗り込んでいるかと言うと、シンプルに店からの帰りの足に困って助けてもらっているからになる。


 11時閉店なので余裕だと思っていたのだが、終電の時間が首都圏とはまるで違っていた。地方とは言えそこそこ栄えてる感じの町の様子に騙されたのだ。無論、俺が勝手に思い込んでいただけなのだが。初日は1時間半かけて徒歩で帰宅した。つらかった。

 これは無理だと翌日にはもう安い自転車を買って乗り出したのだが、今日は生憎ひどい雨で電車で通勤していた。

 運のない事に雨は仕事あけまで続き、同僚に送ってもらえないか相談したわけだ。

締め作業を終えてみんな草臥れた様子だったが、何人かが手を挙げてくれる。親切な人たちだった。


 中でも木戸さんが一等、溌溂とした調子で挙手をしてくれたのでお願いすることにした。軽い足取りで車まで案内してくれる背中を見ながら、元気だなあ若さかなあなどと思っていたのだが、先の発言で得心がいった。

ずっと部屋の話を聞きたかったのだろう。


「坂崎さんから聞いたんですか?」

「そう。もしかしてなんだけど、女の子の自殺があったとこ? でしょ?」

「……そうです。でもきれいさっぱりクリーニングしてもらったんで、何もないですよ」


 職場のある駒田こまだ市から見て巳和町みのわ ちょうの先にある九毬くまり市に住む木戸さんにとってこの話題は、近いようで遠いどっちつかずの話だったはずだ。興味はあるが接点はない。接点はないが微妙に近い。刺激的なのに自分とは関わりのなかったその事件が、俺と言うリンクを得てわずかに接近した。興味を惹かれるのも無理はない。


「いや、そういう物の方じゃなくて、……怖いこととか起きないの?」

「……」

「え、なにその沈黙」

「怖い、ってことはないんですけどね。気づいたらこう、何かが視界に横切ることはありますね」


右手を下向きにぶらぶらとさせる。もちろん適当に作った話だ。あんまり期待に満ちた顔をされると応えたくなるのが人情と言うものだろう。しかし木戸さんは横目でその手をちらりと見た後、ああ、と一人納得したような声を漏らした。


「東堂さん、事件のあらましは聞いてないんだ? あそこ首吊りじゃないよ」


思わぬ言葉に「え」と小さく返すと、わざとらしい訳知り顔でにやりとされた。

それから木戸さんは事件について勝手に語り出した。


「噂と言えば噂なんだけどね、結構ひどい死に方だったみたい。それで最初他殺って思われてて彼氏さん取り調べされたらしいね」

「ええ、それちょっと俺聞いて大丈夫? 今日俺それ聞いて寝れるやつ? 勘弁してよ」

「どうかなあ。東堂さんスプラッタとかいける?」

「いけない…いや本当にまじでやめて」

「じゃあ手加減してあげましょう」


 ふっふっふと至極楽しそうな木戸さんに、内心憎々しい気持ちが湧きあがる。自分は人並みに心霊ものが怖い。しかし年上として張りたい見栄もあるので本気で怯えてるとは悟られたくなかった。



「最初に気づいたのは真下の部屋の住人だったんだって。

 夜寝てる時に天井の方から…ぽた、ぽた、としずくが落ちるような音がする。

 でもその日は雨なんか降ってなかったから雨漏りの可能性はない。

 水気のある場所でもなかったし、それじゃあ飲み物でもひっくり返したんだろうと思って一旦はスルーしちゃったんだって。

 でもその後もずっとぽた、ぽた、という音は止まない。

 深夜だから余計耳についたんだろうね」


最早隣の運転席に座っているのは怪談師だった。間の取り方までしっかりしている。


「それでね、布団をかぶってなんとか寝付いて、日が出てから二階に行ったんだって。

 起きてからも水音がしてたから、もし水漏れだったりしたら、自分の部屋まで被害に遭うかもしれないしね」


駅2つ分程度の距離がいやに長く感じる。


「玄関のドアはほんの少し開いていた。

 おや、とその人は思っておずおずと中に声をかけたの。

 『おはようございます、下の階の者ですが…』でも返事はなかった。

 代わりに少し広げた玄関のドアの隙間から、部屋の中の空気がぶわっと顔を撫でて通り過ぎていった。

 生臭い、鉄みたいな臭いがはっきりわかったんだって」


とうとう声色まで変えだした。もうYoutubeで怖い話の朗読をアップするべきだ。

そして今話すのをやめてくれ。しかし俺は真剣な顔で耳を傾けている態度を崩さない。


「その人は恐る恐る、中に入った。

 そしてはっきりと臭いを感じた。

 濃い血の匂いって噎せ返るって表現されたりもするけど、それほんとなんだってね。

 肺に入り込んだ生臭い空気を全部出そうとするみたいに。

 ものすごく咳が出たって言ってた。

 袖をマスクみたいにして呼吸を落ち着けて中に入ると──」


木戸さんは真剣な顔のままずっと前を見続けている。運転中なのだから当然だが、雨粒が反射する対向車のライトや信号機の光が、彼女の固い表情を歪に照らしていた。

彼女は、無言で続きを待つ俺の顔をちらりと見て、さらにたっぷりと間を取ってから語りを再開した。


「……そこは血の海だった。血の海に女の人が突っ伏してる。もう死んでるって一目でわかる状態だった」

「…………」


俺はとっくに内心で茶々を入れる元気をなくしていた。内心の自由を剥奪された気分だ。とにかく想像しないよう、子供の頃の馬鹿な思い出を反芻していた。桜の花びらを連続で何枚掴めるかを競ったあの輝かしい日々。


「その後警察を呼ぶんだけど、ふと、おかしいなって気づくの。……大丈夫?」

「全然大丈夫ですよ。それで?」

「もう着いてるよ」

「え?」

「おうち。ここで合ってるよね? コーポ箕輪」


木戸さんはにっこりとして、すでにアパートに到着していることを告げる。帰路だったことを少し忘れて聞き入っていた。


「え、あ、本当だ。ありがとう。それで、オチは?」

「まあまあ」


木戸さんはにこやかに降車を促し続ける。


「ええ、なんだよそれ。気になるんだけど」


 とりあえず車から降りて運転席の窓に回り込んだ。雨はまだパラついているが大分弱まっている。怪談の最後まで聞かずに済んで内心ほっとした気持ちが半分、結末がわからないでスッキリしない気持ちが半分だ。ただ、食い下がるポーズだけはしっかりと取る。

 そして車は方向転換をして、さあ出て行くぞという所で止まったのでもう一度運転席に近寄った。


「乾いてたんだって」


窓は開けたままだった。その暗い車中で、座席に括り付けられた風船のように木戸さんの顔が浮かび上がっている。


「もう、血は乾いてて、朝まで滴ってたはずがないんだって。

 もしかしたらその亡くなった女性が、醜く腐る前に気づいて欲しくて、なけなしの力で微かな合図を送ってたのかもしれないね」


 それじゃあまた店で、と車は今度こそ発進した。

 力なく手を振りながら赤いテールランプを見送り、思わず自室を見上げた。怪談のオチとしてはそこまで怖いものじゃないな、と虚勢を張ろうとするが無理だ。超怖い。帰りたくない。


 彼女の話が真実なのかは定かでない。

 それでも処理済みの箱に早々にぶち込んでいた“自殺”という書類上の記述が、息を吹き返し、急速に肉と生暖かい血液を纏い出したかのように感じられた。

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