くろなわむすび
富花屋
第1話 入居
俺がその部屋の内見に訪れたのは、三月の半ばのまだ肌寒い季節だった。
転職に合わせてとある地方の
そこで不動産屋が最後の切り札とばかりに紹介してきたのがこの部屋だ。不動産屋の車から降りてコーポ
最寄り駅となる
収納は洋間に備え付けのクロークボックスと、和室の押し入れとがある。築30年強と外観は古めかしいが、これらの条件で周辺の相場と併せて家賃を考えれば、月々8万円前後か、少なくとも5万を下回ることはないだろう。
そう、本来なら。
俺が支払うことになる家賃はたったの3万だと言う話だった。
敷金礼金も夫々一か月分で、もし即入居した場合は半月分の家賃と合わせても7万8千円で済む。それだけで察せられるというものだが、当然普通の部屋ではない。その理由については不動産屋からきちんと告知を受けている。
俺が新居にしようとしている部屋は、事故物件だった。
前の住人の恋人がその部屋で自殺したらしい。隅々までクリーニングされた部屋には陰鬱な出来事の痕跡は一切なく、勧められるままに入居を決めた。人並みに怖がる気持ちが湧かないでもないが、背に腹は代えられない。
三月下旬に慌ただしく引っ越して、二日かけてようやく最低限生活できる程度に荷解きをやっつけた。物がそこまで多くない新居は広々として、年甲斐もなく寂しさを覚える。これが初めての一人暮らしではないが、実家の騒がしさが抜けきっていないのだ。
特にここ最近はバタバタしていて独りなことを気にせずにいられたが、静まり返った我が家でようやく実感がわいてきた。
新居の空気を一杯に吸い込み、吐き出す。今日からここが俺の家だ。フローリングに寝転がって明るい天井を見上げると、目に入る照明や真っ白なクロスは当然に見慣れない。見知らぬ町でひとりきりのスタートだ。
その小匙一杯程度の冒険の響きに、わずかながら希望めいた気持ちも湧いていた。
四月に入り、白い日差しを桜が和らげているような晴れ晴れとした日和だ。
「ああ、東堂君。これから仕事かい?」
出勤のためアパートの向かいにある公園沿いの道を歩いていた時に声を掛けられた。この町で出来た最初の知り合いである亀田翁だ。亀田さんはアパートの近所に住んでいる古老だった。人懐っこいと評したら人生の大先輩相手に失礼な気もするが、気さくなおじいちゃんである。80歳を過ぎたと言うのにそうは見えない快活ぶりで、この周辺をよく散歩していた。
「ええ、初出勤ですよ。前とは全然違う職なので既にもうガチガチで」
「東堂君なら大丈夫だよ。素直さと謙虚ささえあれば、どこでだってなんとかなるもんです」
俺がわざとらしく両手で身体を抱え震えた振りをすると、カラカラと翁が笑って励ましてくれた。半分本気で緊張していたのだが、満天の笑顔で元気よく手を振ってくる亀田翁の姿は、柴犬の尻尾を彷彿とさせ何とも言えない愛嬌がある。
おかげで心なしか足が軽くなった。
そのまま亀田さんと別れ公園内に目を向ければ、木々の向こうにある広場で太極拳を楽しむグループがいたり、遊具の周辺では小さな子供たちとその保護者が楽し気に過ごしていた。石のモニュメント周りのベンチには、腰掛けて鳩に餌を与えてる人がいたりと、平和そのものだ。
(これからこの町で暮らしていくんだ)
大学に通うため地元から離れたこともあったが、まだ地元に近い範囲に収まっていた。この町ほど遠方で生活したことはなく、再び心細さと期待とが胸に入り混じる。
しかしセンチメンタルに浸っている間に電車の発車時間が迫っていることに気づき、駅へと急いだ。
新しい職場は最寄り駅から2駅離れた場所にある飲食店だ。ステーキ
「今日からお世話になります。
最初が肝心と思い、俺は大きめの声でしっかりと挨拶をした。
「と、言うわけで東堂君です。坂崎君、同い年だし、ついて教えてあげて。それじゃあ皆さん、今日もよろしくお願いします」
店長である
「それじゃあ東堂さん、俺が坂崎です。目まぐるしくて最初はいっぱいいっぱいになるかもだけど慣れりゃ大丈夫なんで、最初だけ頑張って」
坂崎は大雑把な男だった。
こちらのミスについて大らかに構えていてくれたのは心底ありがたいが、同時に教え方もざっくりとしていた。同じ厨房スタッフでかなり年上の三浦(みうら)さんは逆に少し神経質なところがあり、坂崎の指導の穴をこまめに塞ぎに来てくれた。
(丁寧に教えてくれること自体はありがたいんだけど、三浦さんの直接指導だったらお互い胃に穴空いてそうだな……)
店長の采配に感謝しかない。坂崎と三浦さんの指導バランスのおかげか、四月の半ばを過ぎるころにはそれなりに仕事が出来るようになっていた。
自分の住む場所がどんなところかを聞かされたのは、そんな風に新生活がうまく回り出した頃だ。
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