9−2 僕と、渡辺由美子の結末

 到着した場所は工事現場の前だった。彼女の端末に表示された場所を確認すると全く同じ場所から動いていない。支払いを終えて降りると僕は小夜子ちゃんの手を引っ張った。


「――ともかく話は後だ。先ずは渡辺由美子の身柄を確保する。いいね?」

 僕の硬い声に彼女は何も言わずに黙ったまま一度だけ頷いた。


 工事現場は平日にも関わらず何も行われていない無人の状態だった。普段なら作業をしている筈だけど人の気配が無い。しんと静まり返った現場はまるで廃墟の様にも見える。

 周囲にはしきい板が張り巡らされて中が見えない様になっている。入り口にも蛇腹式の門が取り付けられていてチェーンと錠前がしっかりと掛けられていた。


「……本当に渡辺由美子はこんな処に入ったのか……?」

 そう呟きながら小夜子ちゃんの携帯端末を眺める。地図の上には自分の位置が矢印のマークで表示されている。そこに猫の絵が重なる様にあった。電波状態も良好だしGPSも良好な様で猫の絵は明らかに目の前の工事現場の中で動いている。

 それにこの場所は渡辺由美子が入院していた病院からも歩いて来れる距離だ。二〇分程歩けばきっと子供の足でも来れる。恐らくこの場所で間違いない。


 だけど周囲を見回しても警察車両らしき物は見当たらなかった。どうやら田所さんより先に着いたみたいだ。でも到着を待っている余裕は無い。事は一刻を争うのだから。

 僕は入れそうな場所を探して小夜子ちゃんの手を引きながら外周を歩いて行った。



 丁度入り口の反対側辺りに行くと板ではなくブルーシートが被せられている場所を見つけた。よく見るとカラーコーンが立てられて風で飛ばない様にブロックが乗せてある。

 もしかしたらここから中に入れるかも知れない。そう思って手を伸ばした処で今も小夜子ちゃんの携帯端末を握りしめていた事に気付いた。


 繋いだ手を上に向けると小夜子ちゃんの掌に端末を乗せる。それで俯いていた彼女が恐る恐る顔を上げた。僕は彼女に顔を近付けると真剣な顔になって言った。


「……いいか? もう絶対に勝手な事をするな。前も言っただろ? やるならやる前にちゃんと先に言ってくれ、って。でないといざという時、君を守ってやれなくなるぞ?」

 それで彼女の目が丸く開かれ、やがて嬉しそうな表情へと変わっていく。


「……はい、ごめんなさい……」

「……全く……いつも返事だけはいいんだよな……」

 僕は愚痴を吐き出したがそれでも彼女は嬉しそうなままだった。


 やっと空いた手でブルーシートの裾を掴んでみると抵抗が何もない。めくってみるとそこには土砂の小山が積まれてあった。コンクリートを混ぜるのに使う砂山だろうか。そしてそこにまるで子供の歩いた様な足跡が残っている事に気付いた。

「……ここから入ったのか……よし」


 そう言って僕は足を踏み出そうとして立ち止まる。

 田所さんが来た時、僕が中に入った事を伝えて……いや、ダメだ。彼女はまだ僕にしか認識する事が出来ない。それにさっき下手な事をされたばかりだ。置いていくべきなんだろうけど一人にしておくとまたとんでもない事をしでかしかねない。

 僅かに迷ったが結局、僕は小夜子ちゃんを連れて砂山へ足を踏み出した。田所さんがすぐ分かる様にブルーシートがめくられたままになる様にしておいた。


 中は解体中の古い雑居ビルだった。建物の周囲には外から見えた通り足場が組んである。

 しっかりと頑丈そうで階段まで取り付けられている。四階建てで建物に入る入口は施錠されていて入れそうにない。となると手っ取り早いのはこの足場を上がる事だろう。それにきっと渡辺由美子も昇って行ったに違いない。上を見上げると落下物が落ちない様にネットやシートが取り付けてある。表からは薄暗くて足場に人がいるかどうかは見えない。

 それで小夜子ちゃんを置いて一人で上がろうとした時、彼女が耳元で小さく言った。


「――私も、一緒に行きます」

「いや、でも……流石にこれは危ないだろ?」

「私、一人だけ置いていかれたら……何するか、自信ありません」


 そんな恐ろしい事を言うと彼女は唇を尖らせた。だけど目が笑っている。きっと駄目だと行っても勝手に付いて来るつもりだろう。それなら一緒に連れて行った方がまだマシだ。


「……いや、それ、恐喝だろ……冗談に聞こえないぞ……くそ、分かったよ……」

 そうして僕らは足場の階段を静かに昇って行った。


 昔から良く見かける工事現場の足場とは違う。丸木を組んだ物ではなくて足場用に作られた専用の物だ。かなりしっかりしていて歩いても振動で揺れる事がない。取り付けられた階段も幅が広くて二人が並んでも歩ける位はある。きっと解体した建材を運んだりする為に準備された物だろう。そんな処を僕と小夜子ちゃんは静かに上がって行った。


 やがて三階部分にまで上がるとすぐ上に小さな人影があるのが見えた。歩き方がどう見ても手慣れていないしスカートの様な布地が足元に絡みついてはためいているのが見える。

 僕は振り返るとすぐ後ろに続いていた小夜子ちゃんに人差し指を唇に当てて見せる。


「……ここで、待ってて」

 耳元で囁くと小夜子ちゃんは口を閉じたままで小さく頷いた。それで彼女が足場に取り付けられている手すりの鉄管に掴まったのを確認すると再び上を見上げる。

 渡辺由美子はもしかしたら自殺するつもりで昇ってきたのかも知れない。僕は音を立てない様に四階へ続く階段を静かに昇って行った。


 組まれた足場の最頂部。そこでしゃがみ込んでいる少女の姿が見える。高さで言うと大体一五、六メートル位だろうか。どんなに足場がしっかりしていようと中学生位の女の子から見れば相当怖いだろう。転落防止用のネットが張り巡らされていても表の風景が見えているのは男の僕でも多少恐怖がある。そこを一歩、また一歩と進んで行った。


 出来るだけ音を立てずに気付かれない様にゆっくりと近づいて後三メートルの処までやってきた時、突然少女が僕の方を振り返る。


「――誰? 何、あんた……あんたも私の邪魔をするの……?」

 掠れる様な幼い声が響く。

「え……渡辺、由美子さん……か?」


 そんな姿を見て僕は最初それが渡辺由美子本人だとは思えなかった。以前病院まで搬送した事があるから顔は知っている。だけどその頃に比べて余りにも面変わりしていた。


 元々は少し童顔で如何にも可愛らしい感じだったのに随分やつれている。それでも充分可愛らしくはあるが焦燥と苦悩からか目付きは座っていて憎しみの視線を向けてくる。


 足立真由や小夜子ちゃんとはまた別の意味でとても一四歳には見えない。青白い顔はまるで今にも倒れそうで僕は息を飲んでその場に立ち止まってしまった。

 渡辺由美子はそんな僕を見るなり手元に見える携帯端末に一心不乱に操作し始める。


「――死ね、死ね死ね、私の邪魔する奴なんか、皆消えちゃえ!」

 そして顔を上げるとさっきとは違ってとても幸せそうに微笑んだ。

「……ふふ、もう書いちゃった。私の願い事って叶うの。神様が叶えてくれるの」


 小さな女の子が大切な物を抱く様に渡辺由美子は携帯端末を胸に笑う。あれがきっと足立舞真由の携帯端末だ。そして書いたと言うのはあの投稿サイトに違いない。


 僕は思わず内心悪態を付いていた。全くどいつもこいつも好き放題だ。それもどんな願い事でも再現されるのが厄介だ。普通に凶器を持ち出される方が遥かに性質が良く見える。それで僕が顔をしかめていると渡辺由美子は嬉しそうに、楽しそうに微笑んだ。


「……私のパパもママもね? 私がお願いしただけで消えちゃったの……」

 それはまるで告白だ。すぐに少女の顔が歪み始める。目元から涙が盛り上がって頬を伝ってポロポロと流れ落ちる。けれど泣きながらも笑っている様に見えた。

「……神様が叶えてくれたの。だけど、死んで欲しいなんて、思わなかったのに……」


 きっとそれは本心なのだろう。家庭内暴力で育った子供はどんなに過酷な環境でも親に依存する。言われる通りに生きれば優しさを享受出来るから自然とそうなってしまう。


 そしてそんな風に泣いて笑う少女に僕は声を掛ける事すら出来なかった。何を言っても彼女の救いにはならない。きっともう他人の言葉なんて渡辺由美子に意味が無いだろう。

 少女は涙を流しながらも本心から幸せそうに、楽しそうに笑う。


「――だからね? もうこんな世界、私は要らないの。全部消えちゃえばいいの……」

 それは余りにも可愛らしく無垢で無邪気な笑顔だった。


 人は本心から絶望すると笑う以外出来ないと言う。感情が壊れてしまう。全てが終わる事を待ち侘びて、絶望の果てに訪れる終局に焦がれて笑うのだ。今まさに渡辺由美子は絶望しているのだと思う。僕は慰めるべきか叱るべきか、分からなくなってしまったのだ。

 だけどそんな時――不意に向こう側から別の少女の声が聞こえてきた。


「――渡辺さん。貴女の願い事なんて、絶対に叶いません」


 視線を向けると足場の向こう側から長い髪の少女の顔がせり上がってくる。それは小夜子ちゃんだった。恐らくあちら側にも階段が設置されていたんだろう。こういう規模の現場では作業員が入れ違いになれる様に複数の昇降階段が設置されている。ビルの外周全てに足場が設置してあると言う事は当然安全対策の為に準備されている筈の物だった。

 そして全身が現れた小夜子ちゃんはゆっくりと歩み寄ってきながら再び口を開いた。


「……ねえ、渡辺さん。貴女みたいにお願いするだけだと何一つ叶わないんですよ?」

「……え、誰? あんた一体誰よ?」

 先程が嘘の様に少女は怯え始める。それで僕もやっと何かおかしい事に気付いた。


 おかしい。何故だ。小夜子ちゃんはまだ僕にしか認識出来ない筈だ。彼女が言った通り知り合いでなく本当に面識が無かったとしても小夜子ちゃん個人を認識出来る訳が無い。

 しかし僕のそんな疑問を他所に、彼女は戸惑う渡辺由美子に穏やかな声で告げた。


「……ご両親を死なせたのは貴女です。貴女のお父さんもお母さんも貴女が自分の手で殺しました。願い事を書いただけで人が死ぬだなんてそんな事、ある筈がないでしょう?」

「……あ……私……殺し……ち、違う、私、そんな……」


 いやいやと小さく首を振りながら少女は後ずさる。その様子を薄い笑みを浮かべたまま小夜子ちゃんは歩み寄ってくる。それはもう年相応の、同い年の子にはとても見えない。


「ご両親を殺して貴女は『助かった』って思ったんでしょう? やっと楽になれる、もう虐められない。だけど……自分がやった事が怖くて仕方なくて逃げたんでしょう?」

「……いや……違う……違う、私、そんな事、してない……」


 渡辺由美子はしきりに首を振りながら必死に耳元を両手で押さえている。聞きたく無い、知りたく無い事から逃げる様に。だけど小夜子ちゃんはそんな彼女に容赦しなかった。


「願ったのは貴女。ご両親は神様の所為。罰はご両親の所為――じゃあ願った貴女は何を背負うんですか? まさか自分が手を下さなければ背負わなくて良いと思いましたか?」

「ち、ちが……違う……私は、消えて欲しいって、お願いしただけで……」

「渡辺さん。願いにも責任が伴うんです。神様に願ったなら貴女の所為。背負えないなら願ってはいけないんです。神様を逃げ道にしないで下さい。貴女がそう望んで成ったのだとしたら――それは全部、貴女自身の責任なんですよ」


 その言葉に僕も一緒になって呆然と眺めていた。けれど渡辺由美子の様子がおかしい。これまで以上に真っ白な顔になってその場に座り込んでしまう。もう動きたくないと言う幼い子供の様に。そして同じく小夜子ちゃんもそこで立ち止まった。

 流石は小夜子ちゃん、としか言いようが無い。たった一人であのオカルトを押さえ込もうとした女の子。彼女は普通の子と違って本当に特別な存在なのかも知れない。


 けれどそう思った処で僕は小夜子ちゃんの様子もおかしい事に気がついた。

 いや――違う。よく見ると顔が真っ青だ。膝もガクガクと震えている。微笑みに見えたのは単に高い処が怖くて口元が引きつっていただけだったのだ。


 僕は本当にバカだ。小夜子ちゃんを特別だと、凄い子だと思ってしまった。彼女だってこんな高い足場が怖くない訳がない。だって彼女も中学生の、普通の女の子なんだから!


 その瞬間、僕は渡辺由美子に飛び掛かった。後ずさってあと二メートル。腕を伸ばせばすぐ届きそうな距離。彼女さえ確保すれば小夜子ちゃんももう無理をせずに済む。

 そして僕は呆気なく渡辺由美子を取り押さえる事が出来た――筈、だった。


「いや! やめて! こわい! みんなこわい! やさしいのも、こわいのも、いや!」


 僕の手が渡辺由美子の華奢な肩に触れる。少女は悲鳴をあげて僕を振り返った。怯えた子供の様に泣きじゃくって顔色も真っ青だ。そして抗う様に腕を振り回す。小さく握った左手が勢いよく僕の脇腹にトン、と当たった。


 普通なら大した事のない筈のそれで僕の左脇腹に激痛が走る。ズブリと尖った何かで刺した様な激痛。それでも僕は足場の上に少女を組み伏せた。だけど逃げようと暴れる少女の動きに合わせて意識が飛びそうになる。気が遠く霞んでいく。


 やがて少女――渡辺由美子はぐったり動かなくなった。だけど僕もその上で動けない。


 渡辺由美子の左手には逆手に長い釘が一本握られていたのだ。きっと工事現場の作業に使う物だろう。そこら辺に散らばる五寸釘――直径五ミリ、長さ一五センチの大きな釘だ。


 激痛で動けない。声を上げる事も出来ない。身体から力が抜けていく。

 意識が霞んで途切れる直前、小夜子ちゃんが僕を呼びながら近づいて来るのを感じた。

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