九章 最後の、願い事。
9−1 小夜子の決意
タクシーを捕まえて飛び乗った後も小夜子ちゃんはずっと自分の携帯端末を弄っている。
友達の事が余程心配なのか青白い顔のままでしきりに操作を続けている。僕はタクシーが進む先をじっと睨んでいた。渋滞も無く道が空いているのは今日が平日だからだろう。
そうやって商業地区から離れて閑静なエリアに差し掛かった時だった。不意に隣で小夜子ちゃんが小さく呟く声が聞こえてきた。
「――だけど……実は私、そんなに心配はしてないんですよね……」
そんな言葉に僕は驚いて顔を向ける。それが一体どういう意味なのか分からない。大丈夫だと確信しているのか、それとも別の意味があるのか。それを問い質す様に僕は彼女の顔をじっと見つめた。けれどそれに気付いた小夜子ちゃんは困った様に笑う。
「私、渡辺さんの事は実は殆ど何も知らないんです」
「それは……余り事情を教えて貰っていない、って意味?」
「いいえ。言葉そのままの意味です。多分彼女も私の事なんて殆ど知らない筈です」
「……それは、どういう事?」
「前も言いましたよね。私は単なるクラスメートでお話もした事がありません。名前すら知りませんでした。同じ教室にいるだけでお互いを意識した事だって無い筈です」
その一言に僕は呆気にとられた。そう言えばそんな事を言っていた気がする。確かあの時、渡辺夫妻の遺体を発見して倒れた後に病室で言っていた筈だ。
だけど僕はそれを言葉通りに受け止めては居なかった。きっとクラスでそれ程仲が良い訳ではないがあの人懐こい足立真由を中心に知り合った友人だと思っていたのだ。
呆然としたまま固まる僕に向かって小夜子ちゃんは少し寂しそうに笑って見せる。
「そうです。私と渡辺さんは知り合いですらありません。あの学校に入ってからお話した事も無いし顔も良く憶えていません。ですから可哀想だとは思っても心配はしてません」
「……いや……じゃあなんで、小夜子ちゃんはあんな事したの!? どうして助けたの!?」
自分を危機に陥れて、自分の存在を消してまで助けようとした動機が分からない。
この子は優しい子の筈だ。それは彼女の行動が示している。それに僕が記憶を取り戻して渡辺由美子の無事を伝えた時だって彼女は心からホッとした様に見えた。行方不明になった時だって真剣に憔悴していた。けれど小夜子ちゃんはそんな予想とは違う事を答えた。
「私が助けようとしたのは、真由さん――足立さんが悲しむからです。それに太一さんも一生懸命に探してたから。その役に立ちたいって思ったから……それだけです」
その答えに僕はまるで頭をハンマーで殴られた様な衝撃を受けた。足立真由の為だけに、いや、僕の為に……僕が望んでいたからあんな事をしたと言うのがとても信じられない。
「じゃあ……じゃあ君は、渡辺由美子がどうなっても構わない……そう言うのか?」
「そこまでは言いません。でももし渡辺さんが本心から死にたいのなら誰にも止められないと思います。でも太一さんは何とかしたいって……そう思うのはどうしてですか?」
そんな風に質問に質問で返されて僕は返答に窮した。
僕は渡辺由美子に対して特に何も思っていない。可哀想かも知れないとは思うけれどそれ以上は思わなかった。だけど小夜子ちゃんや足立真由の友人だからと言うのも違う。
それに僕は警察が正義の味方じゃない事を知っている。警察に出来るのは護る事じゃなくて次に起きない様に後始末をするだけだ。きっと僕は小夜子ちゃんじゃなくても同じ事をしている。大人が子供を護るのは当然の事だし僕自身がその形を望んでいるからだ。
自殺しようとする人間は救えない。諭しはしてもそれ以上は出来ない。じゃあどうして僕は今、渡辺由美子を保護しなければいけないと思っているのか。
それを思った途端、自然と僕の口は開いていた。
「――僕は小夜子ちゃんや皆が好きだ。だから僕の手が届く範囲なら手を伸ばす。僕は正義の味方になりたいんじゃなくて、子供に誇れる大人になりたいから――」
――そうか。だから親父や田所さんみたいに刑事じゃなくても良かったのか……。
そう告げた時、僕はこれまで気付いていなかった事をやっと理解出来た気がした。人間は愚かで汚い。だけど賢くて綺麗だ。本当は優しい事だってちゃんと知っている。それは僕が理想とした親父や田所さんだけでなく子供の頃の近所の小母さんも同じだ。あの時一緒に泣こうとしてくれたのは僕が子供だったからだ。それが大人なりの優しさだと気付く事が出来なかった。きっと近所の小母さんは泣けない僕を慮って泣いたのだ。
「――子供だった僕を大人は助けてくれた。だから僕も同じ事をする。僕は正義の味方にならない。僕は……大人として守れる物を当然の様に守りたい。それが僕の願いだよ」
僕がそう答えると小夜子ちゃんは少し驚いた顔になった。だけど目を伏せると嬉しそうに小さな声で呟く。両手を合わせながら口元に沿わせる様に動かす。
「……やっぱり。太一さんは格好良いです。私も太一さんみたいになりたいな……」
そして上目遣いに僕を見ると彼女はじっと僕を見つめて尋ねた。
「……太一さん。渡辺さんが何とかなったら……私のお願い、聞いてくれますか?」
「僕は他人の命をお願いの代償にはしない」
「……ふふ、ならやっぱり、隣にいる為には私が何とかしなくちゃ……」
彼女の合わせた手が膝の上へと降りて開かれる。そこには彼女の携帯端末があった。そのまま画面を撫でる様に指を滑らせる。一体何を言って、何をしようとしているのか分からなくて見ていると小夜子ちゃんの指先が小さく震えている事に気付いた。その瞬間、以前に味わった様な悪寒が背筋に走る。
――これは確か、以前……渡辺由美子を探していた時に感じた――。
そう思った瞬間、僕は考えるより先に彼女の手から携帯端末を取り上げていた。そして画面を見て思わず息を詰まらせる。そこにはただ一行だけ、文字が表示されていたのだ。
《――投稿が完了しました――》
あんなに軽率な事はするなと言っていたのに彼女はまた約束を破ったのだ。特に今は渡辺由美子の投稿がある上で彼女が別の願い事を書いてしまえばどうなるか分からない。下手をすれば渡辺由美子だけでなく小夜子ちゃん自身、どうなるか分からないのだ。
「……小夜子ちゃんッ……君はまた、なんて事を……ッ!」
だけど呻く僕の前で小夜子ちゃんは何も答えようとはしない。ただ指を組み合わせて何かに祈るようにじっと目を閉じている。
「……大丈夫です……私、渡辺さんに同情してません……太一さんが言った通り、彼女を可哀想だとは思っても……同じ気持ちになりたいと、思ってませんから……」
それで黙り込む僕と彼女。車内は静かなままで走り続けた。
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