7−2 小夜子の現状

 昼休みに入って少し経った頃だろうか。昼食も摂らず端末に向かって入力を続けていると不意に課の入り口辺りから声が聞こえてきた。丁度僕の席からは死角になっていて見えないが声だけははっきりと聞こえてくる。それは何処かで聞いた様な女の子の声だった。


「――あの、すいません。ええと、権堂太一さんはいらっしゃいますか?」

「――あ、はい。少々お待ちください……太一くん、お客さんよ?」


 考え事をしていた僕は森野さんに名前を呼ばれて作業の手を止める。扉が見える辺りまで歩いていくと絶句して立ち止まった。そこでは小夜子ちゃんが居て僕の方を見ていた。


 一瞬頭が真っ白になる。森野さんは一度彼女と会っている筈なのにやっぱり全く憶えていない。それよりもその違和感。明らかに異常な状況なのに誰も気にしていなかった。


 平日の日中に学生がこんな場所に来ているのに誰も不審に思っていない。補導された学生はいてもこの部署に来る事は絶対にない。それなのに相手の身柄や要件を尋ねもせずに制服姿の女の子がいるのに学校について言及しようとしない。それは異常な光景だった。

 思わず小走りになって近付くと僕は彼女の耳元で声を押し殺しながら尋ねる。


「さ、小夜子ちゃん!? え、何、どうしたの!?」

「あ、太一さん。実はお弁当をこしらえてきたんです」


 だけど彼女は堂々と普通の声で答えた。良く通る声にビクッとして思わず僕は課の中を見渡す。昼休みでも数人いるし榊班長だっている。なのに誰一人咎めようとしない。

 なんだ、これは――声も出せずにいる僕に小夜子ちゃんは不安そうな声で尋ねてくる。


「あの……ご迷惑でした?」

「あ、いや……と、取り敢えず場所を変えよう! ちょっと待ってて!?」

 僕は慌てて倉田先輩の席に行くと声を掛けた。


「おーなんだ太一、モテモテだな! ったく、なんで俺はモテねぇんだよ!」

「せ、先輩……」

「おう、飯でも喰ってくんのか? さっさと行ってきやがれ、このリア充野郎め!」


 だけど先輩ですら疑問を抱いてはいなかった。茶化す様に軽口を叩くと入り口の小夜子ちゃんに向かって笑顔で手を振り始める。それで僕は逃げる様に部屋を飛び出した。

 小夜子ちゃんの手を掴むとそのまま屋上に続く階段を駆け上がって行った。



 まさか正常な状態で見ると世界がこんな風になっていただなんて予想もしていなかった。これが小夜子ちゃんが置かれている状況――そう思うだけで背筋が冷たくなっていく。

 人から認識されないと言うのは何も『姿が消える』と言う意味じゃなかった。誰からも疑問に思われず興味すら抱かれない。平日の昼間に中学生が制服姿で彷徨いていても警察内部の誰一人気にも留めず咎める事も無い。彼女を知らない人間からは知覚出来るから普通に応対はしているが相手に対して何の疑問も持たないのは見ているだけで衝撃だった。


 良くも悪くも思われない。有っても無いのと変わらない。それが『存在が消える』『認識されない』と言う事なのか。今日の夕方までに足立真由に連絡を取って確認しようと思っていたけれどそんな気分は全くなくなっていた。

 屋上のベンチに座ると小夜子ちゃんはカバンからタッパを取り出し始める。どうやら百均で買ってきたらしい。楽しそうに準備を進める様子を見て僕は尋ねずにいられなかった。


「――その、小夜子ちゃん……君は辛くなかったの?」

 そう言うと彼女の手が止まって僕の方に視線を向ける。だけど何を尋ねられたのか良く分かっていないらしく不思議そうに首を傾げるだけだ。それでもう一度僕は尋ねた。


「いやほら。誰も疑問に思わないとか……そんな中でよく平気でいられたね?」

「……ああ、その事ですか……」

 それでやっと理解出来たらしく彼女は苦笑するとまるで何でもない事の様に言う。


「最初は驚きました。だけど案外平気なんですよ? お店で買い物も出来ますし電車にだって乗れます。だけど私を知ってる人には姿が見えないみたいで。あの時渡辺さんを見つけた後にこのままじゃ危ないと思って投稿したら家に帰っても反応されませんでした」


 それは恐らく渡辺由美子を保護して病院に緊急搬送した直後だ。目立った怪我も無くて激しく疲弊していたから田所さんが車で運んだ時、その時は確かまだ小夜子ちゃんの事を僕は認識出来ていた筈だ。彼女の事を意識しなくなったのはその後待合室にいた辺り。

 そのまま電車で自宅まで帰ったのだろう。その時点では僕だけでなく田所さんや原田さんも彼女の事を知っていたから記憶干渉が起きたんだろう。


「……だけどそれは……辛く無かったの?」

 僕の問いかけに彼女は一瞬言葉に詰まる。だけど少し寂しそうに笑った。

「私、元々こんな感じでしたから。寂しくても辛くは無かったです。真由――足立さん位しか私に話し掛けて来ませんでしたし。余り人付き合いが得意じゃ無かったんですよね」


 だけどそれは嘘だとすぐ分かった。今朝記憶を取り戻した時小夜子ちゃんは必死に僕にしがみつく様にして眠っていた。離れるのが怖くて仕方ない小さな子供みたいに。


 なんて嫌な『願い事』の叶え方だ。こんなのはもう『呪い』と言う方が近い。世界中の人間が一人の女の子の存在を無視する様に気付かない。知らない人は反応する分過酷だ。透明人間になるんじゃなくて学校のイジメの様に一人の人間を『無視』するんだから。


 小夜子ちゃんは膝の上に弁当の包みを乗せる。そして僕の分を手に取るとそのまま僕の方に差し出そうとして動きが止まった。そこで少し慌てた様に笑い混じりに言い始める。


「――あ、でもほら? 私、太一さんがいてくれるだけで良いんです。だって私の事を忘れている筈なのに思い出してくれましたし。それに助けて貰ってばっかりで、こんな神様の力にも負けずに探してくれました。だからその、えっと……私、太一さんの事が……」


 それだけ言うと彼女は恥ずかしそうに俯いてしまった。膝に乗せたタッパの蓋の上を指でなぞりながら頬を赤くしている。

 きっと僕は余程酷い顔をしていたのだろう。でも彼女の現実はまだ何も解決していない。僕は目を強く閉じると目元を押さえながら俯いた。


――駄目だ、これは。放っておくときっととんでもない事になる。


 こんなどう見ても異常な状況に対して常識的な対処をしていればきっと最後は何も出来なくなってしまう。そうなってからでは全てが遅すぎる。彼女の事を思い出して以前の日常に戻った感覚に僕は安心していたのかも知れない。きっとこれはまだ始まったばかりだ。早急に何とかしないと――そう思いながら顔を上げるとじっと見つめる彼女の顔を見た。


「――小夜子ちゃんさ? 良ければ今日、これから……僕とずっと一緒にいる?」


 いきなりの誘いに彼女もすぐに意味が理解出来なかった様で首を傾げている。だけどその意味がやっと把握出来たらしく少し驚いた顔に変わる。それで僕はもう一度尋ねた。


「だからさ。この後も仕事だけど、終わるまで僕とずっと一緒にいる?」

「え、あの……いいんですか?」

「いいよ。逆にそれで誰かに見咎められるならマシだ。それにその方が僕も安心だから」


 多分部屋に一人でいて寂しかったんだろう。今の処世界で唯一僕だけが彼女を正常に認識出来る。だから弁当を口実にしてやって来たに違いない。それに一人にしておくと何かあれば不味いし閉じこもったままで変な考えになられても困る。


「あ……は、はい……一緒が、いいです……」

 彼女は嬉しそうに小さく頷く。それで僕達は早速午後から行動を一緒にする事になった。


 嬉しそうに弁当を広げる小夜子ちゃんから弁当箱を受け取る。雑談しながら食べた卵焼きは塩が効きすぎていて少しだけ辛かった。

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