6−2 認識の復活

「……ただいまァ……」


 なんとか終電前の電車に飛び乗って部屋に帰って来る。疲れた頭で扉を開くと玄関にはちゃんと女の子の靴が置いてあるのが見えた。


――よかった、まだちゃんといる。


 疲労困憊の体で部屋に入っていくとテーブルの上にはラップの掛かった皿が見える。レタスに炒り卵、ベーコンの他にウインナーが並んでいる。一緒に玉ねぎと肉を炒めた物まで盛り付けてある。ウインナーはタコの形に切られていて思わず笑ってしまった。


 女の子ならこういう料理は好きそうだ。うちは僕だけの一人っ子だったから精々ウインナーだって切り目を入れた程度の物しか見た事が無い。

 取り敢えず食べるのは後にしてざっとシャワーだけを浴びて汗を流す。

 そうして風呂から出ると皿の上のおかずを二、三摘みだけ口に放り込むが眠くて仕方が無い。画面と印刷した文字を見続けた所為で目がしょぼしょぼする。明日さえ何とか乗り切ればその次は休みだから兎に角今は明日の事だけ考えるしかない。


 僕は疲労の溜まった身体を引きずってよろよろとソファーへ向かった。今日は兎に角忙しい一日だった。サイトの担当者を拝み倒して、足立真由と会って話を聞いて、彼女の名前が判明して、そこから更に残業――流石に忙し過ぎて体力が限界だ。

 ソファーの上に横たわると携帯端末を確認しようとするが画面がまともに見られない。風呂に入った所為で疲れが一気に吹き出してしまったんだろう。


「……お休み、小夜子ちゃん……」


 それだけ言うと僕の意識はそのままストンと落ちた。



 翌朝――僕は空腹で目を覚ました。まだ窓の外は薄暗い。いつの間にかソファーから転げ落ちてしまったらしく身体の節々が痛む。それでもカーペットが敷いてある分マシだ。


 いつの間にか身体に毛布が掛けられている。薄暗い中で微睡みながらそれ以外の感触があってふと疑問に思った。何だか大きな犬がくっついて寝ている様な。熱を持った柔らかい固まりが僕の身体にへばりついている気がする。これは、一体何だろう――。


「……んん……」


 そんな時突然僕の身体のすぐ脇からか細い声が聞こえた。それまでぼんやりと微睡んでいた頭が一瞬で目覚める。それで心地よい熱に気付いて僕は愕然とした。


――何かが、いや、誰かが僕に、くっついてる!?


 慌てて身体に掛かっている毛布をめくってみると、そこには女の子がいた。僕の身体にしがみつく様にしっかりと抱きついて髪の長い女の子が眠っていたのだ。


 これが僕の人生で初めてのパニックだった。小夜子ちゃんがシャツだけの姿で僕にくっついて眠っているのだ。それもまるで抱き枕の様に素足を僕の太ももに絡ませている。


 いや――それよりも見えなかった、分からなかった筈なのにこの子が小夜子ちゃんだと分かる。憶えていなかった筈なのに全部思い出せる。満員電車で痴漢にあっていて助けた女の子。そのまま僕に相談してきて『グリード・ディクリプション』の存在を教えてくれた子だ。

 その翌日渡辺夫妻の死体を発見して電話してきてくれた。倒れて病院に担ぎ込まれた後も鋭い観察眼で一緒に渡辺由美子を探してその最中に更新された中に彼女が投稿する事が書かれてあった。その通り彼女は投稿してしまって、それから――いやいやそうじゃない! てかベッドで寝てるんじゃ無かったのか!?


 なんで、こんな処で……こんな事になってるんだ!?


 脳裏で『事案発生』と『懲戒免職』の四文字が交互に浮かぶ。人間は本当にパニックを起こすと身体も動かせないし声も出ない。そんな嫌な経験則だけが刻まれていく。

 そうして固まっていると彼女が身動ぎしてゆっくりと顔を上げた。

「……おはよ、ごじゃいましゅ……」


 まだ寝ぼけているのか彼女は微睡んだ声で可愛らしく挨拶してくる。それで僕も頭だけを動かすと顔を引きつらせながら何とか答えた。

「……お、おはよう……小夜子ちゃん……?」


 僕の声にニヘッと笑うと彼女は再び僕の身体に頬を擦り寄せてくる。そして再び寝てしまうかと思った瞬間彼女の身体がビクリと強張った。そのまま恐る恐る顔を上げて僕の顔をじっと見つめてくる。どうしようもなくて顔を引きつらせながら僕は何とか声を掛けた。


「……いや、流石にこれは……小夜子ちゃん、ちょっと不味いんだけど――」

 だけど彼女は僕が言い終わる前に抱きついてきた。さっきとは違ってしっかりとしがみつきながら身体が小さく震えている。一瞬どうしようかと思ったけどそのまま彼女がしゃくりあげる声が聞こえてきて僕はやっと冷静になった。

 泣いている子を引き剥がす訳にも行かず仕方なく僕は彼女の髪を慰める様に撫でる。


「……その、おかえり?」

 それで彼女は『ただいま』と言おうとしたんだろう。顔を上げて口を開くけれど言葉にならなかった。そうやってしばらくの間震えて泣いている彼女の頭を黙って撫で続けた。


 それからどれくらいが過ぎた頃だろうか。小夜子ちゃんも起きて顔を洗いに行っている内に僕は携帯端末の画面を見た。時間はまだ朝の五時二七分。時計表示の上には新着通知のバナーが表示されている。投稿されたのは昨晩の〇時前――多分僕が倒れる様に眠ってしまった後だ。その内容を見て何故いきなり彼女が認識出来る様になったのか理解出来た。




◇◇ 不思議な願い事 五 ◇◇


 あの人が、最初にあった時と同じ様に私の名前を呼んでくれました!

 こんな神様の奇跡みたいな不思議な事を、あの人は自分で何とかしちゃった!

 お父さんやお母さんですら私の事を思い出せなかったのに、凄い!

 きっとこの人はどんな願い事があっても、自分で叶えようと努力する人です。

 何かに願ったり、何かに頼ったりすがりついたりしない、とても強い人。

 だからこの人は自力で私の事を見られる様に、すぐ思い出してしまうに違いありません。

 私は今まで、名前を呼んで貰える事がこんな嬉しい事だって知りませんでした。

 誰かが呼んでくれる私の名前は、私がいてもいいって言ってくれてるんですね。

 もし望んでもいいのなら、私はこの人とずっと一緒にいたいな。この人みたいに、誰かに叶えて欲しい願い事じゃなくて。

 これは私が決めた、私だけの願い事だから。自分で叶えなきゃ。


◆◆




 そう言えば昨晩寝てしまう直前に小夜子ちゃんの名前を呼んだ気がする。それを聞いて彼女は『僕が自力で記憶を取り戻した』と思い込んだ。それをそのまま書いてしまった為にそれが現実になってしまったと言う事だった。


 そして同時に僕は重大な事実に気が付いた。小夜子ちゃんが書いている『不思議な願い事』は彼女の視点で書かれている。つまり小夜子ちゃんが主人公と言う体裁を取っている為に彼女がそうだと思い込んだ事が全て真実と言う扱いになるのだ。それが事実かどうか一切関係が無い。彼女の主観的な視点が問答無用で客観的な事実となってしまう。


 彼女は僕が昨日投稿した物を読んだ。恐らくそれだけでは説得力が無かった。だけど僕は帰るなり彼女の名前を口にしてそのまま倒れる様に寝てしまった。その発言が僕の書いた内容を後押しする形となって彼女は『真実だった』と本心から信じてしまったのだ。


 僕はグリード・ディスクリプションで言う処の『語り手』じゃない。だけど書いた事で主人公である小夜子ちゃんがそれを読んで僕自身がキャスティングされる事になった。


 考えてみればそれはかなり恐ろしい事でもある。彼女が信じてしまえばその通り僕も影響を受けるからだ。例えば昨晩倒れたのは疲れて眠気に勝てなかっただけだが『意識を失った』と思われてそう書かれていれば重体患者の様になっていた可能性だって否めない。


 書き手の主観で全ての真実が捻じ曲げられる。現実がその形に書き換えられる。それはもう願い事がどうこう言う話じゃない。もはや『神様』と変わらない。

 現実世界のウイザード。スクリプトを駆使する魔術師にはまさしくその名が相応しい。だけど可愛らしい中学生の女神様は優しい性格で力の行使を拒んでいるのが何よりも救いだった。

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