5−2 先輩との共同作戦

 その日の昼休み。いつも絡んでくる筈の倉田先輩が妙に静かな事にやっと気付いた僕は先輩の机を見た。そこには何台もデスクトップマシンが積まれている。確か昨日までは無かった筈だ。そしてその中に埋もれるかの様にひたすら無言でキーを叩く姿があった。よく見ると机に置いてある沢山のPCのアクセスランプがチカチカと点滅を続けている。


「……倉田先輩……どうしたんですか、それ……?」

「――あー、もう昼か……」

 まるでクマが冬眠から覚めた様にのそのそと先輩が顔を上げた。

「……わり、あと一〇分……いや、七分待ってくれ……」


 疲れ果てた声でそう言うと先輩は再び画面を向いてキーを叩き始める。事情を知らない僕が黙って眺めていると作業しながら先輩がぼやき始めた。


「……朝イチで刑事課から押収品が来てなあ……俺しか分かる奴いなくてよう……」

「お、お疲れ様です……」


 どうやら先輩は昨晩から泊まりで作業をしていたらしい。今日は僕も随分早くに来たけれどずっと作業に掛かりきりだった所為で絡んで来なかった様だった。

 机に置かれた紙コップからどす黒い液体――冷めた珈琲を口に含んで顔をしかめている。


 その様子に僕は苦笑するだけで手を出す事が出来なかった。この手の作業は先ず一人が統括してデータの抽出を行う。一斉に作業を開始しようとすると余計な手間ばかりが増えてしまう。それで仕方なく僕は先輩が一区切り付くまで自分の作業を続ける事にした。



 施設内にある食堂は時間がずれた事もあってかなり人が少なくなっている。その中で僕と倉田先輩は向かい合って座っていた。お互いの前には紙コップに淹れた珈琲がある。

 そこで先輩は一口音を立てて啜ると疲れた顔で尋ねた。


「――で、なんだ? そっちの方はあれから進展あったのか?」

「取り敢えず特定の要素が絞れました。榊班長に報告申請している処です。新規投稿が出来ない様に運営者に協力を仰ぐつもりです。後はこの二週間内に起きた事件の関連を照合してますがサービスが稼働中で難しい処です。新規投稿を止められるかどうか、ですね」

「……うへ、公僕名義で民間に依頼要請かよ。一番効果的で上が一番嫌がりそうだ……」

「まあ、かなり難色を示されましたけどね。榊班長も渋々受け取ってくれただけです」

「……サルベージも面倒だけど、そっちもやりたくねぇなぁ……」


 口調こそ嫌そうに聞こえるのに倉田先輩は何処か楽しげに見える。それで僕は少し迷ったものの彼女――『Say』について相談してみる事にした。


「それでですね、先輩。ちょっと相談したい事があるんですが……」


 例えばある処に他の誰からも見る事が出来ないユーザーがいるとする。分かり易く例えるなら学校に見えない生徒がいる。管理者――教師達学校側からもその姿は一切見る事が出来ない。それでも学校には入れるし痕跡も残っている。果たしてそんな生徒――見えないユーザーが何処の誰なのかを特定する方法があるのかどうか。

 僕がそう尋ねると先輩はニヤリと笑みを浮かべた。


「――なんかハッキングやらバックドア臭ェ話だな。それを特定したいってんだな?」

「ええ、そんな感じです」


 彼女は姿が見えないし認識する事も出来ない。僕は知識として彼女と言う存在を認識しているが知覚的に認識出来てはいない。だからせめて彼女が何処の誰か知りたかった。

 僕の問いに先輩はうーんと唸りながら紙コップに口を付ける。


「……そんだけじゃ何とも言えねえな。つか、普通に考えりゃお手上げなんだろうな」

「……やっぱり、そうですか……」


――やっぱり駄目か……倉田先輩なら何か手を思いつきそうだと思ったんだけど……。


 だけど諦めて視線を落とす僕を見ると先輩は珈琲をスプーンでかき混ぜながら続ける。


「流石にな。手間が掛かりすぎて現実的じゃねえ。正規ユーザーの総数が分からんが判明してるユーザーだけ除外すりゃあ残ったアカウントがターゲットだろ? マスクしてる奴をピンポイントで割り出せなくても逆にそいつ以外を除外してやりゃあ良いんじゃね?」

「……は?」

「要するにな。さっきの太一の例えで言やあ、学校の生徒で分かってる奴だけを調査対象から外していくんだよ。三〇人いるクラスで一人正体が分からない、なら分かってる二九人を除外すりゃあ残る一人が誰か分かる。まあその程度なら特定出来るってだけだがな」


 そう言われて僕は空いた口が塞がらなくなった。

 彼女、『Say』はあのミッション・スクールの中学二年生の筈だ。今の学校は一クラス平均二五人程度だからそれで足立真由と渡辺由美子の交友関係や同級生で絞ればそれ程大変な話じゃない。先輩の言う通りすれば簡単だし同学年全部を対象にしても労力は少ない。


「……そうか……そんな方法が、あったのか……」

 そんな方法を思いつきもしなかった事に愕然と呟くと先輩は呆れた顔に変わる。

「何言ってんだ、当然だろ? ターゲットを掘り下げるのか浮き上がらせるのかの違いしかねえよ。現実問題は置いといて理屈の上じゃそう考える方が技術者としては自然だよ」

 それで僕が早速どうやってあの学校の生徒を調べるか方法を考えていると倉田先輩は深い溜息を付きながら嫌そうにスプーンを咥えてぼやき始める。


「……でもなあ。あのサイトだけで概算二万人以上もいるんだろ? それをやろうとすりゃあ個人割り出しの手間も含めると照合するだけでどんだけ時間が掛かる事やら……」

「――え? それって一体、何の話です?」


 突然言い出した先輩に一瞬訳が分からなくなって僕は顔をじっと見つめた。すると先輩は咥えていたスプーンを手に持ってぶらぶらと振りながら逆に尋ねてくる。


「は? つーか……『グリード』なんたらを書いた奴を炙り出す話じゃねぇのか?」

「あ……そ、そうか……そっちもあったんだ……」

「ん? お前、今まで一体何の話をしてたんだ?」

 先輩は訝しげな顔になって僕の顔をじっと見た。


 そちらの特定を全く考えていなかった事に衝撃を受ける。そう言われてみれば確かに状況としてはとても似ているし『グリード・ディスクリプション』の作者を特定する事はかなり重要だ。だがそちらはデータがあるだけでサイト内に文書の所在すら不明だ。

 となれば先ず出来る事は『Say』の身元をはっきりする事だけど知覚認識出来ない問題がある所為で僕一人だけじゃとても無理そうだ。


 眉を潜めながら黙って珈琲を飲んでいる倉田先輩の顔を僕はじっと見つめる。

「……実は折り入って、先輩にお願いしたい事があるんですが……」

「おう何だ? 言ってみろ。金の事以外なら大抵は考えてやるぞ?」


 相変わらずの言い方に僕は苦笑する。だけどもう僕一人じゃ解決出来ない。だから出来るだけ詳細に現在分かっている状況と彼女、『Say』の身元特定に付いて話す事にした。


 例のサイトに投稿して渡辺由美子を救ったらしい事、そして投稿した内容の所為で誰にも認識出来ない状況に陥っている事。そしてそれが僕の知人らしいけれど記憶が無い事。

 そして今回の事件を解決する為にもその少女が一体何処の誰かを判明させたい。


 普通ならこんな話を聞いても絶対に信用して貰えない。余りにも不思議な設定だらけで常識的に考えれば夢や空想物語に近い。流石に今、その少女が自分の家にいる事までは言わなかったけれど分かっている事だけを全て話した後で考えていた先輩が顔を上げた。


「良く分からんが……それ、俺が確認する意味ってあんのか?」

「ええ、さっきも言いましたけど僕も、きっと足立真由もターゲットを認識する事すら出来ないんです。名前も認識出来ないでしょうね。知人では絶対に駄目なんですよ」

「けどよ……その『認識出来ない』ってのは具体的にどういう事なんだ?」

「相手が透明みたいに気付かないんです。うちの部署に森野さん、居ますよね?」

「……あー、あのきっつい子な……」

「一度彼女に手紙を手渡して貰ったんです。それで尋ねると相手の特徴について曖昧に中学生位の女の子だった、としか憶えてませんでした。もう完全にオカルトですね」


 実は僕自身、例の痴漢事件の調書を何度か調べようとした。しかしそれを調べようとするとその事を失念してしまう。まるで調べる事を無意識に拒絶しているかの様に避けてしまうのだ。きっと僕だけで彼女の特定をしようとすると思考を阻害されるんだと思う。


 しかしそこに彼女を知らない人間がいればどうなるか。僕にとってその名前は意味を持つかもしれないが知らない他人から見れば単なる文字列であって個人は認識していない。


「――それで? 俺ァ何すりゃいいんだ? 面倒なのは嫌だからな?」

「簡単ですよ。『Say』は僕だけが知っている訳じゃ無いんです。十中八九、足立真由と渡辺由美子の共通の友人である筈なんです」

「……あん? それが一体何だってんだ?」

「先輩、さっき自分で言ったじゃないですか。正規ユーザーを排除すればいい、って」


「ん? そりゃそう、だけどよ?」

「その為に足立真由に頼んで生徒の連絡先名簿を準備して貰うんですよ」

「は? いや、えっと……何? どういう事……?」

「ですから! 先輩が名簿を見てチェックするんです! 僕は交友関係について全く知りませんから足立真由に協力して貰います。僕と足立真由が認識出来ない人間をピックアップするんですよ! 彼女を知っている人間は存在を認識出来ませんからね!」

 そこまで言ってやっと倉田先輩は理解してくれたみたいだった。


 これは彼女が置かれた状況が余りにも偏って強力過ぎる為に使える方法だ。普通常識的に考えれば『認識出来ない人間』なんて存在しない。そしてその条件は『知っている人間には知覚認識出来ない』点だが『知らない人間は認識出来ないが知覚は出来る』事で情報に差分が生じる。その差分こそが隠蔽された存在を逆に浮き彫りにさせるのだ。

 つまり僕と足立真由が認識出来ない名前でも倉田先輩なら認識出来る、と言う事だ。


「……んーむ……まあ、分かった。訳は分からんが分かる範囲で手伝ってやるよ」

 黙って考え込んだ末に倉田先輩は快く引き受けてくれた。けれど僕は逆に驚く。

「え、先輩……本当に手伝ってくれるんですか?」


 僕自身が確かに第三者の協力が必要だと思っている。実際倉田先輩が手伝ってくれるなら心強い。先輩は同じ部署で働く仲間で『警察』に所属する人間だ。信用出来る上にこれ以上の適任はいない。でもこんな訳の分からない話を信じてくれるとは思っていなかった。

 僕の意外そうな言葉に先輩はがっくりすると睨んでくる。


「……あのなあ。お前、頼んで来たって事はある程度目算があったんだろ? それに乗ってやる、つってんだから素直に感謝しろよ……」

「え、でも……こんな訳の分からない話に付き合って、それでも構わないんですか?」


 頼んでおいて疑えと言うのははっきり言っておかしな話だ。だけど普通の人なら絶対にこんな訳の分からない話に首を突っ込もうとはしない。実際僕だってそんな相談をされたらまず病院に行く事を相手に勧めるだろう。それ位にこれは現実離れした異常な話なのだ。

 驚いていると先輩は少し呆れた顔に変わった。


「――太一、お前な。自分が理解出来なきゃやらないってんなら俺らみたいな解析屋はいらねえんだよ。分からないから調べる。分からなくても調べる。それがプロってもんよ」

「ですけど……余りにも異常でしょう、こんな話。常識で考えれば絶対にありえない事ですし、もしかしたら僕の頭がおかしくなったと言われても変じゃないと思いますよ?」

 僕がそう答えると先輩は紙コップを手に持って中身を回して笑い始めた。

 そしてそのまま愉快そうに僕を指差す。


「太一、お前……自分でも自分の考えを疑ってんだろ?」

「ええ、そりゃまあ。データや実際に起きてる事を見てもまだ信じられませんから」

 そんな僕の返事を聞くと満足そうな顔になって珈琲の残りを一息に呷る。紙コップをテーブルの上にトン、と音を立てて置くと先輩はニヤリと厭らしい笑みを浮かべて言った。


「普通な? 頭がおかしい奴や宗教にのめり込んだ奴は『それが真実』と思ってるから自分の考えが間違ってるとは考えねえんだよ。疑ってるって事はまだ大丈夫って事だ」

「……いや、ですけど……」

「それとな。お前も解析屋なら憶えとけ。疑う事と否定する事は別だ。実際に起きてる事なのに『あり得ない』って思考停止すんのは解決する気の無いバカのやる事だぞ?」


 そう言われて僕はとても言い返せなかった。その通り、ある筈の無い事はあってはならないと思い込んでいるのは僕だ。あり得ないから相手も動いてはくれない――そう考えていたから『Say』の事だってすぐに相談しなかった。本気でなんとかしようと思っているのならその前に相談するべきだったのだ。倉田先輩はどんな事もきちんと聞いてくれる。

 そしてこんな馬鹿げた話でも『手伝ってくれる』と言ってくれているのだ。


「……倉田先輩……僕は先輩を尊敬しますよ……」

 激しく落ち込みながらそう呟くと先輩は少し驚いた顔に変わった。いや、驚くと言うよりも照れていると言うべきだろうか。口元が少し引きつっている様な気がする。

「ま、まあ、俺は先輩だしな? それにちゃんと何か礼はして貰うから気にすんな?」


 口籠りながらそう言ってくれる先輩に僕は頷いた。こんな滅茶苦茶な話を聞いて信じてくれるなんて僕が思っていた以上に凄い先輩だ。きっとこの人は『あり得ない』と言う事自体『あり得ない』と信じている。自分の認識や知識、常識すら疑って掛かる強さを持っている。そんな人が手伝ってくれると言うのは本当にとても有り難い事だった。


 倉田先輩と二人で食堂から戻ると榊班長から呼び出された。例のサイトへの協力依頼の正式な許可が降りたと言う事だった。だけどあくまで『協力依頼』であって捜査の為の要請とは違う。法的拘束力は一切持っていないし強制力も無い。本当に『只のお願い』だ。


 元々データ提出を依頼した事もあって僕が引き続き交渉を行う事になった。その結果渋々ではあったけれど今ある物以外は新規登録出来ない様にしてくれる事となった。但しそれはあくまで『現代舞台』カテゴリのみ。それも一週間程度の制限付きだ。


 そうして僕はそのまま足立真由にも連絡を取って放課後に待ち合わせる事になった。

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