4−幕 ハッピーエンドを目指して
翌朝、僕は良い匂いで目が覚めた。ソファーの上に落ちていた携帯端末を見ると朝の六時を少し回った頃だ。テーブルを眺めるとそこには朝食が出来上がっていた。
――ああ、そうか……今は彼女が、『Say』がうちに来てたんだった……。
凝り固まった身体をほぐしながら起き上がる。そのままテーブルに近付くとトーストと目玉焼き、サラダが並んでいる。まさか朝食を準備してくれるとは思ってもいなかった。
「……ええと、有難う。でも……やっぱり見えないと言うのはちょっと寂しいな……」
小さく呟くけれど当然返事なんて返って来ない。僕は椅子に座ると肘を立てて目元を押さえた。今はまだこうして何かをしてくれる限り彼女の存在を強く意識出来る。だけどこれがいつもみたいに何も無ければもう存在を感じる事が出来なくなってしまうだろう。
――なんてあやふやで曖昧なんだ。こんな異常の中に彼女はいる。
それもこんな状況を望んだのは彼女自身だと言うのも恐ろしい事だった。
きっとこれは『恐怖』が近い。自分が受けたり感じたりする恐怖では無く忌避感と呼ばれる類の物だ。僕は他の人間と接する事が出来るからまだいいが彼女は僕以外の誰とも接する事が出来ない。辛うじて繋がれるのは彼女を個人として認識していない相手だけ。
こんな状況が続いていけば必ず精神に変調をきたす。恐らく渡辺由美子を保護した直後からだろう。考えてみればあの事件からもう一〇日以上が経過している。
人間は暗闇の中でいると精神がおかしくなっていくと言う。暗闇の中と言う訳じゃないけど周囲の人間が見えるのに接する事が出来ないのは幻の中にいるのと同じだ。触れようとしても触れられない。触れても気付かれない。それは例えるなら学校のイジメで完全に存在を無視されるのと同じだ。いつか必ず限界が来て耐えられなくなる。
なのに手を差し伸べる事も出来ない自分がもどかしい。すぐ傍にいて手が届きそうなのに届かない。守りたくても守れない。それは純粋な『恐怖』の感情だった。
唯一彼女が他者と接する事が出来るのがあのサイトで、遂に僕も踏み込んでしまった。もう始めてしまった。後は具体的な方法を検討、実行して現状打破する以外に道はない。
僕は顔を上げて手を合わせると『いただきます』と言って彼女の料理に手を付けた。
それから少し早かったけれど僕は職場に向かう事にした。部屋を出る時に玄関で振り返ると独り言を言う様に声を掛ける。
「――仕事に行ってくるよ。何かあれば空メールを二回送ってね。それと普段してたみたいにここで日常生活を続ける事。食事もきちんと摂って……出来ればまた料理してくれると嬉しいな。それだけで僕も君がちゃんと無事でいると安心出来るから……」
勿論返事は返って来ない。静まり返った部屋を見るとまるで自分が精神異常者になった気分だ。けれど僕はそれでも笑顔で『行ってきます』と告げてから自分の部屋を出た。
*
早朝の電車、特にこんなに早いと人の姿も少ない。その中でガラガラの席に腰掛けると僕は考え込んだ。
彼女を一番手っ取り早く元の状態に戻すのは実は簡単だ。あのサイトに『彼女が誰からも認識出来る様になる』と願いを書けばいい。但しそうすれば同時に相当なリスクを背負う事になる。グリード・ディスクリプションに書かれた『物語りの定義』があるからだ。
ここで言う『物語り』とは原則単体で完結する物を差す。彼女が渡辺由美子から簒奪したと言うのはイレギュラーな事態であって本来ならあってはならない事だったのだろう。
だからグリード・ディスクリプションでも意外な展開を楽しんでいる節が見られた。
他人の書いたスクリプトを勝手に処理に含めて結果を出すなんて本来なら排除対象になる筈だ。彼女がやった事はかなり危険だった筈だ。渡辺由美子から引き継いだのだから。
そしてここから先は完全に僕の推測――妄想と言って良いかも知れない。
都市伝説にある『願いが叶う』と言うのはあくまで結果論であって倉田先輩が言う通りこれが『テストラン』だとすれば『願い事』自体は副産物でしか無いと言う事になる。
あのサイトは『願いが叶う』のでは無く単純に『書いた展開が再生される』。その内容は書かれた事だけであって続きを投稿している限りそこから推測される展開は起こらない。
投稿を辞めて続きが書かれなくなった途端にその歪みが反動として返って来る。だから彼女が『見えなくなった』状況を元に戻すには筋が通って説得力のある理屈が必要だ。
問題なのはその規模だ。他の投稿者の『願い』も確かに凄いがどれも現実に即した願い事であって可能性がゼロな訳じゃない。けれど『Say』の願い事は明らかに異常現象でそれを覆す為に何をどうすれば辻褄が合うのか見当もつかない。渡辺由美子の書いた両親が消えると言う願いは結局『両親の事故死』で再現されたが『見えなくなる』なんて下手をすれば本人の死で再現されてもおかしくはなかった。ただそれだと続きが書かれなくなってしまうから今の形を取らざるを得なかったのだと推測出来る。
果たしてこんな『異常現象』を綺麗に納得出来る形でまとめる事が出来るのか。
僕が書いて投稿したのはただ事実を書いただけの物だ。今起きている事に対する僕の行動動機を書いているだけに過ぎない。だからそれが現実に影響する事は無い……筈だ。
しかし彼女が書いた事は違う。彼女が書いたのは『願い事』自体に関する内容だった。
願い事は叶うが不幸が伴う――それは究極の選択と言っていい。周囲に被害を撒き散らさない為に彼女はそう望んで自分自身が不幸の中に巻き込まれて存在を消してしまった。
本来『願い事』とはそう言う物なのかも知れない。何かを犠牲にして願いを叶える。
そしてあのサイトは例えるなら舞台の脚本の様な物だ。書かれた事をなぞる様に現実と言う舞台で進行していく。もし脚本が書かれなくなると成立しなくなって破綻する。アドリブで対処するには願い――展開の重さに耐えられない。放送事故の様にぶつんと途切れて書き手の人生も破綻する。それが倉田先輩の言った『ぶん投げる』と言う事なんだろう。
破綻していた筈の『渡辺由美子』の物語を彼女は導入に使った。だから端役に落とされた渡辺由美子は破滅から免れた。只でさえそんなややこしい事になっている処に更に僕が願いを持ち込めば雪だるま式にバッドエンドが確定するだろう。だからもし彼女を助けたければ割り込んではいけない。今の『脚本家』は『Say』と言う少女なのだから。
だから一番理想的なのは彼女の思考をハッピーエンドに導く事――そんな結論になった。
きっと投稿された物できちんとハッピーエンドまで描かれた物は一つも無い。導入だけで途中の展開が無い。だからインパクトはあってもその回収が一切出来ずに破綻した。
だけど脚本に沿って進む限りはまだバッドエンドとは決まっていない。現実が影響を受けて展開するならハッピーエンドだって充分目指せる筈だ。何しろ今まさにその脚本が書き記されている真っ最中。実際に現実で起きてみると絶望的過ぎてどうすれば良いか分からなくなってしまうが要するに『彼女が主人公の物語』を客観的に見て促すのが一番だ。
彼女が開発者としてスクリプトを書くのであれば僕がそれをサポートする。明らかに不味い方向に進みそうになれば助言して軌道修正する。その為には彼女とやり取り出来ないと不可能だから同じく僕もあのサイトに投稿し続ける。
最悪の場合は彼女が助かる様に投稿すればいい。それが最後の手段だ。
考え事をしているとやがて降りる駅に到着した。僕は決意しながら立ち上がると電車から降りて改札を出ていく。朝の光景は眩しくてとても異常事態が起きているとは思えない。
そんな綺麗な現実の中で僕は職場に向かって歩き出した。
彼女の物語をどうすればハッピーエンドに出来るのか――そんな事を考えながら。
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