4−2 見えない存在

 その日の夜、僕は定時で業務を終えるといつもの様に帰宅した。駅を降りてから近所のスーパーで食材を買い込んで自宅のマンションに向かう。食材を買い込んだのは育ち盛りの子がいるなら必要だと思ったからだ。


 そうして部屋の前で緊張しながらドアノブを掴むと鍵が掛かっている。

 まさか来ていないのかと思って鍵を開くと部屋の中は照明が点いたままだった。一瞬家を出る時に消し忘れたのかと思ったけれど玄関には靴が綺麗に並べてある。恐らく学校に履いていく様な女の子向けの靴だ。


 本人が特定出来なければこういった所持品は認識出来ると言う事だ。そして今、彼女は僕の家に来ている――そう確信したのはいいけどこれ、ある意味ホラーだな。


 もし『見えない少女』がいると知らなければそら恐ろしい事になった筈だ。例えば家族から見て存在を忘れた子供の靴が玄関に並んでいれば恐怖以外の何者でもない。そう言う意味でもやはり彼女は自分の家に居場所が無かったのだろう。

 僕は靴を脱ぐとゆっくり部屋に入って行った。キッチンの冷蔵庫に食材を適当に放り込むとリビングのガラステーブルの前に胡座をかいて座る。一緒に買ってきたスケッチブックを取り出して太いマジックで箇条書きに書き始めた。


・食べ物や飲み物は自由。家財は好きに使って構わない。

・外出、病気や怪我、ガスや包丁の扱いは特に注意。電話も出る必要はなし。

・寝る時はベッドを使う事。(床は厳禁)

・二三時から三〇分は風呂に入らせて欲しい。

・必要で足りない物は購入。


 最後の一行を書いてから僕はスケッチブックの上に一万円札を二枚置いた。なにせ女の子だし必要な物は僕には全く分からない。女の子はお金が掛かると森野さん達が話しているのをよく聞くし男の僕が代わりに買いに行けない物だってあるだろう。


 だけどそこまでやってから一人芝居をしている様で微妙な気持ちになってくる。冷静に考えると『見えない少女』なんて冗談みたいだ。考えるだけで気が滅入って来る。どんどん自分が間抜けに思えてきてそこで慌てて頭を振って考えるのを止めた。


「……飯、作るか……」

 気を紛らわせる様にそんな事をわざわざ口にして立ち上がろうとした時だった。テーブルの上、スケッチブックの向こう側に何かが置いてある事に気付いた。幅広の金属でまるで挟み込む様な部品にプラスチック製の花の様な飾りが付いている。


「……何だ、これ……?」

 こんな物、さっきまで無かった筈だ。それで思わず指で摘んで観察するとそれが女の子が使う髪留めである事に気付く。その瞬間考えていたバカな考えが一瞬で吹き飛んだ。慌てて髪留めを元の場所に戻すとテーブルの前に正座してしまう。

 今この部屋に『Say』が居る――僕はそれを強烈に実感したのだ。僕の部屋に女性が訪れる事は無い。そりゃあお袋は来る事は稀にあるけどこんな髪留めなんて使っていない。

 明らかに若い女の子向けで地味だけど可愛らしい物だったのだ。


 彼女が封筒を受け取ったと聞いた時に僕はもっと強く意識するべきだった。

 今、此処に彼女が居る――つまり彼女は居られる場所が他に無いと言う事だ。恐らく自宅にすら居られない。家族すら存在に気付かない。友人達からも見えない。そう言う事だ。


――駄目だ、これは……早く何とかしないと、彼女の命自体が危険になる。


 今はまだ大丈夫かも知れないが時間が過ぎる程リスクが跳ね上がる。見えないと言う事は体調に異常があっても気付けないから対処出来ないのだ。最悪の場合は目の前で死に掛けているのに気付け無い、だなんて事も充分にあり得る。それは恐ろしい事だった。


 それから僕は晩飯を二人分作るとテーブルに置いた。その内自分の分だけを食べると空いた皿を流しに運んですぐに風呂に入る事にした。勿論一言誰もいない場所に向かって宣言してからだ。そして風呂から出てくると流しに置いてあった食器が全て洗ってある。テーブルに置いてあった料理も綺麗になくなっていて二人分の食器が食器棚に干されていた。

 それを見て僕は衝撃を受けながら覚悟を決めた。


 何をどう書けば良いのか分からずに躊躇していたけれどこれはグズグズして居られない。寝る前にソファーで横になりながら薄暗い中で僕は携帯端末の画面を開いた。




◇◇ 君への手紙 一 ◇◇


 僕には記憶がない。とは言っても全く無いと言う訳じゃない。一人の女の子に関する事だけが僕の記憶の中からすっぽりと抜け落ちている。それ処かすぐ隣にいても僕にはそれを見る事すら出来ない。姿どころか声も聞こえないしまともに話をする事も出来ない。

 けれど彼女は今、確実にここにいる事だけは分かっている。

 僕は彼女を何とかしたい。今、まだ手が届く内に何とかして、見えない世界から現実へ取り戻したい。これは願いではなく、僕自身の決意の話だ。

 奪われた僕の記憶と彼女の日常を取り返してみせる、覚悟の表明だ。

 彼女一人だけにこれ以上、背負わせ続ける訳には行かない。

 その事について、これから書いて行こうと思う。


◆◆




 照明を落とした暗い部屋の中で僕はソファーに起き上がっていた。画面には『投稿が完了しました』と言う文字が表示されている。これでもう僕自身引き返せなくなった。


 僕は今までお話なんて書いた事は一度もない。だから彼女と同じく手記にする事にして彼女に宛てた『手紙』の体裁を選んだ。人に読ませる為に書く物はそれ以外に分からない。


 グリード・ディスクリプションによると物語は欲望で進む。例えるならそれは犯罪に於ける『動機』と『行動』、そしてそれらによって引き起こされる『結果』が該当する。

 ならば具体的な結果が現れない様に『動機』だけを書くしか無い。


 どういう『結果』を望むのかを明示しない。あくまで彼女に対して語るだけで手紙の形をした『物語』を書いていく。これは実際に戦時中兵士が家族に宛てた手紙が人の心を揺さぶる事があるしそう言う冊子が売られていたりするから充分通用する筈だ。


 倉田先輩が言う処のプログラミングの処理と同じだけどそこに人の感情が介在する。彼女が望んだ事かも知れないけれどそれを一方的に受け入れる義理は無い。


 兎に角ここからどうやってスクリプトの実行権限を得るのか。如何に処理を無効にして書かれた『願い事』を叶わない様にするのか。問題山積過ぎて今の僕には思いつかない。


 そのままソファーに横たわると僕は疲れた目を閉じた。

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