献呈

増田朋美

献呈

献呈

今日も寒い日が続いているパリ市内であった。朝晩は日本以上に冷え込んで、雪が降ることもしょっちゅうあった。住んでいれば、慣れているので平気であるはずなんだけど、外部から来たら、この寒さには、負けてしまうかもしれなかった。こんな寒い日は、みんなでかけないで、部屋の中にいたのであった。

「はい、今日もよく食べてくれた。食べてくれてよかったわ。全く食べてないよりも、半分以上は食べてくれるのなら、其れでよかった事にしよう。」

トラーは、水穂さんの食べてくれたお皿を片付けながら、そんなことを言った。

「ああ、どうもすみません。」

水穂さんは、申し訳なさそうな顔をした。

「そうかあ。すみませんってことは、ごめんなさいってことよね。」

トラーは、一寸いやそうな顔をする。

「本当は、ごめんなさいなんて言わないでほしいんだけどなあ。だって、ご飯食べることは、私にとっても、水穂にとっても、必要なことじゃないの。それに対して、謝罪をするなんて、おかしいじゃないの。なんで、ごめんなさいなんて言わなきゃいけないのかな。」

「いえ、だって誰かに手伝ってもらって食事をしているんですから、其れで申し訳ないと思って。」

水穂さんが申し訳なさそうに言うと、

「日本人って、変なところにこだわって、肝心なところに気が付いてもらえないのよね。」

トラーは、はあとため息をついた。

「別に人にしてもらうことなんて、何も気にすることじゃないじゃない。水穂は、必要だから食べさせてもらってるの。其れは、必要だから、気にすることも何でもないの。其れが人手を使っていたことであっても、生きていけるんだからそっちの方に目を向けて頂戴よ。其れなのに、日本人というのは、人にしてもらっているとか、誰かに手を貸してもらってるとか、そういうことを悪いというばかりで、あたしたちから見たら、全然気にしなくていいことばっかり気にしてる。車いすの人は、車いすがなければ、移動できないでしょ。でも、車いすがあれば、移動ができるということでしょう。そっちを考えれば、何も悪いことなんてないじゃない。其れと同じことよ。其れなのに、なんで日本人は、車いすに乗っていることを、悪いとか、ごめんなさいとか、そういうこと言うんだろう。」

「ど、どうもすみません。」

「すみませんじゃないの。気にしないでいてくれるのが一番なのに、それをなんでわかってくれないんだろう。」

「日本では、昔から人手を使わないのが、格好いいとされていますからね。どうしてもそれができないと、白い目でにらまれますから、どうしてもごめんなさいという言葉が出てしまうんですよ。」

水穂さんがそういうと、

「窮屈そうな国家ねえ。そんな細かいことまで気にしてたら、羽を伸ばすどころか、気持ちを楽にして休むこともできないじゃない。そんなことまで許されない国家なんて、良く住めるわね。」

と、トラーは、ため息をついた。

「まあ、日本では、休むということは、あまり認められていませんね。」

水穂さんが言うと、

「まあ、ここは少なくとも、日本の街じゃないし、そういう事をいうひとも誰もいないから大丈夫。ゆっくり羽を伸ばして、病気を治すことに専念してね。あたしたちは、其れで全然大丈夫だから。日本と違ってここでは、休むことも許されないことは絶対にないわ。」

と、トラーはにこやかに笑った。

「じゃあ、デザート。焼リンゴを食べて。」

トラーが別のお皿を出すと、

「え?あるんですか?」

と、水穂さんは、驚いた顔をする。

「そうよ。ほら、早く食べて。リンゴをはちみつで煮たのよ。あたしが、料理の本を借りてやっと覚えたお菓子。」

と、トラーは、にこやかな顔をした。

「いや、とてもこんなたくさんは食べられませんよ。」

水穂さんがそういうと、

「ひとつでいいから、食べてもらえないかな。へたくそな料理だと思うけど、味見をしたら、間違いなくおいしかった。」

トラーは、リンゴをフォークで刺して、水穂さんに見せた。

「じゃあ、一切れだけ。」

と、水穂さんは、それを受け取って、口に入れたが、何か引っかかってしまったようで、ひどくせき込んでしまったのである。

「あーあ、すぐこうなるんだから。なんでこういう風に、せき込んじゃうんだろう。ほら、薬よ。」

と、トラーは、水穂さんに吸い飲みを渡した。水穂さんはせき込みながら、中身を飲み込んだ。

「このまま、眠っちゃうのか。」

トラーは、もっと水穂さんと話をしたいなという顔をして、つまり一寸寂しそうな顔をして、そういった。

「もしも、願いが叶うなら、水穂は何が欲しいかな?」

トラーは、思わずそういうと、水穂さんは、咳がやっと止まって、でもまだ肩で大きな息をしながら、

「そうですね。できることなら、何も言われないで、ゆったりと暮らしたい。」

と、一言だけ言った。

「其れって、もしかしたら、、、。」

とトラーは考える。

「水穂、もしかしたら、そうなりたいってことは、死にたいってことかしら?ねえ、それだけは、絶対に言わないでもらえないかな。あたしたちは、水穂の世話をすることで、生きがいを持てるってことも忘れないでもらいたい。」

と、彼女がつぶやくが、水穂さんは、もう薬が回っていて、静かに眠ってしまっていた。トラーは、仕方なく、水穂さんの体に、布団をかけてやった。

トラーが、水穂さんの世話を焼いているとき、杉ちゃんは、一階の居間で、チボー君に通訳をしてもらいながら、シズさんと話していた。

「へえ、シズさん、学校に行ってなかったんですか。」

杉ちゃんは思わず言った。

「ええ、初めは、何の事を書いてあるのか、分からなくて、言われるままに契約書にサインして、其れで女郎屋に下働きに言ってたのよ。」

シズさんは、一寸恥ずかしそうに言った。

「女郎屋ですか?」

チボー君の通訳を聞いて、杉ちゃんは、思わず言う。

「そうなのよ。あたしたちが、一番稼げる方法と言えばそれしかなかった。其れに私は、容姿だけが取り柄のようなもので、親も其れで生活していたから、ガ―ジョの愛人になるしか、生きる手段もなかったの。」

「はああ、そうですか。ガ―ジョの愛人ね。いわゆる売春業か。日本でもたまにいるけどさ、そういう何とか族とかそういう言い方はしなかったけどね。」

チボー君は、シズさんに通訳しながら、一寸変な顔をする。

「ああ、日本では、シズさんみたいな少数民族がいるような所じゃないからね。」

杉ちゃんがそういうと、チボー君の通訳を通じてそれを理解した彼女は、

「あら、そうではなかったの?」

と聞いた。

「そうではなかったって?日本は、大和民族の国家だよ。まあ、たまに違う人が居る程度で、こっちみたいに、別の民族が、しょっちゅう顔を出すということはほとんどない。」

と、杉ちゃんが説明すると、チボー君の通訳を通してそれを聞いた彼女は、

「おかしいわね。じゃあ、水穂のような人は、どういうことになるのかしら?あたし、トラーから聞いたけど、ひどい人種差別があって、なんでも、特定の地区に住まわされて、差別的に扱われたと言われたけど?」

と、聞いた。

「いやあ。日本は、お前さんたちみたいな、言葉も違って、生活習慣も違う民族がゴロゴロいるというわけではないんだよ。まあねえ、そこらへんの違いを理解してもらうのは、難しいんだけどねえ。水穂さんの事を説明すると、日本の歴史を説明しなくちゃいけないので、さらにややこしくなるんだよな。」

通訳している、チボー君も大変そうだ。ただでさえ、日本の歴史を説明することは難しい。其れに、日本の社会で、細かい身分制度があった時代の事なんて、日本人でも説明が難しいのに、学校にも行っていないシズさんに理解してもらうのは、大変なことだろう。

「そうなのね。わかったわ。あたしも、なぜ、ロマなのか、考えてもわからないしね。もう説明はしなくてもいいわよ。そういうことは、仕方ないことだから。」

と、シズさんは、チボー君の通訳をとめて、にこやかに笑った。

「説明はしなくてもいいと言っているよ。」

チボー君が通訳すると、

「はあ、わかってくれましたか。まあ、似たような事経験してるから、よくわかってくれたんだろう。経験は、なんでも理解に変えてくれるよなあ。」

と、杉ちゃんは言った。

チボー君が通訳すると、

「ええ。似たような経験というか、私は学校にも行けなかったし、アルファベットも知らなかったわ。そういうことはみんな、ひとりで覚えたの。生きていくには必要だったから。きっと、水穂という人も、生きていくために、必死になって、ピアノをさらったんでしょうね。其れで、ああして、体を壊すしかなかったということね。」

と、シズさんは言った。チボー君がまた通訳すると、

「おう!それそれ!よくわかってくれましたね!日本人でもわかってくれない同和問題のトリック、わかってくれてありがとうね!ああやっぱり、すごい経験をしたやつは、違うなあ。」

と、杉ちゃんは涙を半分こぼして、シズさんの手を握った。

「ええ。分かるわよ。あたしの勤めてた、女郎屋でも、いたから。そういう風に、働きすぎて病気になった子がね。其れに、あたしたちは、治療費も払えなかったから、ガ―ジョだったら簡単に治せるような病気でどんどん死んでいったのよ。」

チボー君は、シズさんの言葉を聞いてなるほどと思った。

「すごいですね。シズさん、そういう事知ってるんだったら、」

と、チボー君が言いかけると、

「ちょっと、一寸来て!」

と客用寝室から、トラーの声がした。

「はれ、又やったな。」

と、杉ちゃんがつぶやくと、

「僕、一寸行ってきます。」

と、チボー君は立ち上がる。

「私も行きます。」

シズさんも、そういうが、杉ちゃんにはそれが理解できなかったようだ。とにかく二人は、急いで客用寝室にすっ飛んでいく。

「おい大丈夫かい、水穂さん。」

と、チボー君が、急いでドアを開けると、

「ちょっと体を支えてて。」

と、トラーがチボー君に頼んだので、急いでチボー君は、激しくせき込んでいる水穂さんの体を押さえた。トラーが急いで、ベーカー先生からもらった、頓服の薬を急いで飲ませる。すると同時に、シズさんが、何か言った。

「え?何?」

トラーが聞き返すと、

「いやあ、先日お渡しした、薬草のお茶を飲めば、少し吐き出しやすくなるからと。」

と、チボー君が通訳した。

「あれはだって、ただの民間薬でしょ。」

トラーは信じてはいない様子だったが、チボー君は先ほど杉ちゃんに通訳したことを思い出して、

「いや、飲ませた方が良いかもしれない。」

と言った。急いでケトルからお湯を出して、急須に入れてあるシズさんがくれたお茶を煎じて抽出し、水穂さんに飲ませてあげた。これが、効果を出すかどうかは不明だが、いずれにしても、シズさんのような境遇の女性であれば、こういう民間療法を使うかもしれなかった。水穂さんは、シズさんにもらった薬を飲むと、ひどくせき込んで、中身をはきだすことができた。トラーがそれをふき取ったので、大ごとにはならなかった。

「良かった。無事に中身を吐き出してくれた。」

トラーは大きなため息をついた。すると、シズさんがまた何か言った。トラーたちが、何を言ったんだという顔で、シズさんのほうを向くと、

「いや、彼と二人だけにしてくださいと言っている。」

チボー君がそう通訳した。

「な、なにを話すのよ。」

トラーが急いでそういうと、チボー君は、二人だけにしてあげようと言った。そして、トラーを、部屋から出して、シズさんを水穂さんと文字通り二人だけにしてあげた。

その翌日。チボー君は、夕方まで仕事があって、帰宅するのが夜遅くになってしまったが、自宅に入ると、いきなり電話が鳴ったので、彼はすぐに受話器をとった。

「もしもし。」

というと、電話の相手はトラーであった。

「どうしたんだよ。何かあったの?」

と聞くと、

「水穂が、電子ピアノを貸してくれっていうのよ。持っているのでいいから、貸してやってくれない?」

と、トラーはいうのだった。チボー君はわかったよ、と言って、自宅にあった、今は使用していない、ポータブルの電子ピアノを、トラーの家までもっていった。直ぐ近所なので、そのままもっていくことができる距離だった。わざわざ宅急便を使う必要もない。トラーに言われるがままに、客用寝室の中にスタンドを置いて、ピアノを設置した。水穂さんは、数分前に薬で眠っていて、何も言わなかったけれど、それはおかしなことだとは思わなかった。トラーもチボーも不思議なことだとは思わなかったのであるが。

その翌日。チボー君は、又気になって、トラーたちの家に行った。気になることが在ると、気持ちの中だけでとどめておかないのも、西洋人ならではでもあった。日本人は気になっても行動を起こすことは、よほどのことがないかぎりないが、西洋人はそういうことはなくすぐ行動に起こしてしまう。

「今晩は、水穂さんどうしてる?」

チボー君は、インターフォンも押さずにモーム家の玄関ドアを開けてしまった。応答したのはトラーで、

「ああ、水穂なら、何だかわけのわからない音楽やってるわよ。あたし、クラシックの事は詳しくないからよくわからないんだけど。」

と、答えた。杉ちゃんのほうは、涼しい顔をして、又着物を縫っている。心配そうな顔をしているのはトラーだけである。

「わけのわからない音楽なんかじゃないよ、これは。これは、間違いなくリストの献呈じゃないか。あの、シューマンが原曲で、それをリストがピアノ曲に編曲した。」

チボー君は一応音楽家らしく、そう解説した。

「はあ?なによそれ。よくわからないわね。あたしが幾ら言っても止めないから、どうしようか困っているところなのよ。」

トラーがそういうことを言うので、チボー君は、ちゃんと解説した方が良いとおもった。

「水穂さんらしいじゃないか。きっと、何か伝えたいからこの曲弾くんじゃないの?そういう意味の曲だよ。シューマンの歌曲、君に捧ぐという曲を、フランツ・リストという作曲家が書き直した曲なんだよ。水穂さんが弾いたって何もおかしなことじゃない。止めないで弾かせてあげればいいじゃない。元々は、音楽家なんだし。其れでいいでしょうが。」

「でもとめなきゃ。水穂、体を壊しでもしたら、大変なことになるわ。」

トラーはそういうが、チボー君は、止めないほうがいいと思った。水穂さんがせっかくよくなろうと動き出してくれているのであれば、それは止めないほうがいい。変に止めると、かえって、悪化させてしまうかもしれない。

「大丈夫だよ。この曲は、そんなに体力使う曲でもないから。それに、良いことじゃないか。水穂さんが、そうやってちょっとでもピアノを弾いてくれるようなら、やっと復活しようと思ってくれたのかもしれないよ。」

「そうだけど、あたしは、水穂には、音楽というのに戻ってほしくないわ。だって、そのせいでいろい色傷ついてきたこともあるだろうし。それをもう一度するようなことはしてほしくないの。」

トラーはそういうが、いきなり二人の後ろで、献呈が鳴り響いた。とても電子ピアノで弾いているとは思えない、素敵な演奏だ。チボー君でも、こんな演奏はできないだろうなと思われた。

「水穂、いきなりどうしてこんな難しい曲を弾くようになったのかな。」

トラーは、思わずそういってしまう。

「まあ、そんなことは追及しないようにしようよ。其れよりも、水穂さんが、献呈を弾けるようになったのを喜んであげる方が、大事なんじゃないのかな。日本人は、どうしても、人の手を借りるということは我慢できない人が多いから、水穂さんも、そう思っているのかもしれないよ。一度覚えたことは、なかなか消せないし、どうしても行動に出るのは仕方ないことだよ。其れでよかったって、喜んであげるのが、僕たちの務めなんじゃないの?」

チボー君は、やっきになるトラーを、一生懸命慰めた。

「それに、君も言ってたじゃないか。こっちに来たんだから、日本とは違う環境で羽を伸ばしてほしいって。水穂さんもやっとそれができたかもしれないじゃないか。其れなら、水穂さんの邪魔をしないようにしてあげようよ。」

「でも、疲れてまたせき込んだりでもしたらどうするの?あたしはそれが心配でたまらないのよ。」

「いや、それは大丈夫だ。そうなったらそうなったで、また対処してあげればいい。それだけの事だ。其れにたいして、善悪付けたりするのが一番いけない。」

チボー君はトラーに言い聞かせるように言った。その間にも、水穂さんの「献呈」は、音を立ててなっている。

「やっぱりさすが水穂さんだよ。日本では、ゴドフスキーを弾きこなしたというから、リスト何て軽々だ。僕も見習わなきゃ。」

「その話はもうやめて!」

トラーは、そんな話聞きたくないという顔で言った。確かに、水穂さんが生活のためにゴドフスキーの弾き手にならなければならなかったことは、杉ちゃんから聞かされていた。チボー君は、あんな難し曲を弾くなんてすごいなと単純に思っていただけだけど、トラーには、それがものすごく悲しいことに見えるようだった。

「でも、やっぱり水穂さんには敵わないな。こんな演奏、僕にはできないよ。」

チボー君は、音楽家らしく感動してしまった。

「きっと、昨日シズさんが、何かそそのかしたのよ。あの時とめればよかったのよ。彼女、働かざる者とか、そういう事言ったんじゃないかしら。まったく、ああいうひとは、余計なことをいうものだから。」

トラーがそういうが、この演奏にはそういうものは含まれていないのではないかとチボー君は思った。其れだったら、まず初めに、ゴドフスキーの曲を演奏するはずだろう。

「いや、そんなことはないさ。ただシズさんは、水穂さんを励ましてくれただけだよ。」

と、チボー君はそういってトラーをなだめたが、その間にも水穂さんは何回も繰り返して、献呈を弾き続けるのであった。

さて、ここで問題。

シズさんは何を、水穂さんに言ったのだろうか?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

献呈 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る