第32話

32 愛の逃避行

 またしても、俺が咥えていたパイプは、唇のはじっこに追いやられていた。

 ミント味に取って代わって、口いっぱいにレモン味が広がる。


 てのひらには、革の鎧を通してもなお、ふっくらとした弾力……。


 うっすら瞼を開けると、綺麗なまつげがあった。

 夜露に光る松葉のような、キラキラしたそれが、



「ん……」



 鼻にかかった呻きとともに、ゆっくりと開くと……。


 至近距離であるというのに、バッチリ視線がぶつかった。


 音が聴こえてきそうなくらいの、パチパチとした瞬きのあと、


 シュバッ!


 と風のような速さでシトロンベルは離れていった。


 俺が身体を起こすと、なぜか彼女は正座していて、湯気を出しそうなほどに赤くした顔を俯かせている。

 ほとんど間を置かずに、



「あっ……あああああああーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」



 と、批判的な声が割り込んできた。



「の……無宿生ノーランが……!」



「あの問題ばっかり起こしてる無宿生ノーランが……!」



「シトロンベルさんの唇を、無理やり奪ったぞっ!?」



 いきりたった男どもが、群れとなって俺に押し寄せてきたが、シトロンベルが慌てて間に入ってくれた。



「ま……待って! これは無理やりなんかじゃないわ! これは、事故! 事故なの!」



 両手をわたわたと、長い髪をリンリンと振り回し、俺をかばってくれる。

 彼女はだいぶキョドっているようだが、助かった……と思ったのも束の間、



「そ、それに……! それにそれそれに、セージちゃんとこんな風にキスするの、初めてじゃないし!」



 とんでもないことを、口走った……!



「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?!?」



 今日いちばん……いや、今月でもいちばんになるであろう驚愕を、そこにいるほぼ全員が叫びあがる。



「し……シトロンベルさんが……!?」



「我がクラスのマドンナの、シトロンベルさんが……!?」



「我が校の次期、絶対聖母アブソリュート・マドンナといわれた、シトロンベルさんが……!?」



「こ、こんな無宿生ノーランと、いつも……!? こんなダイナミックな口づけを交わしているだなんて……!?」



 男たちは……いや、女たちまでも、今にも気を失いそうなほどに動転していた。


 それはさながら、貢いできた清純派アイドルのスキャンダルをナマで目撃したかのよう。

 もしCDを持っていたら、すぐにでも手刀でたたき割っていたかもしれないほどの。


 シトロンベルも自分が口を滑らせてしまったことに、ようやく気付いたようだ。



「えええっ!? あっ!? ちちち……違うの! えっと……! その! あのあのあのっ……! とにかく違うのっ! 違うのぉーっ!!」



 渦を巻くほど髪の毛を振り乱すシトロンベル。

 頭の鈴は警鐘のようにけたたましく鳴り、髪の間から覗く耳はほむらのよう。


 それは爆発寸前の爆弾のように、カッカカッカと昂ぶっていたが……。

 ついに最後の瞬間が訪れる。


 ……ドーンッ!!


 という擬音がしっくりくるほどに、彼女は飛び上がった。

 感情がバーストしてしまったのであろう、プスプスと白煙が見えそうなほどに、直立不動のまま動かなくなる。


 やおら背を向け、脱兎のごとく群れから抜け出すと、はぐれウサギである俺の手をガシッと掴んだ。

 そして、さらに誤解を招きかねない一言とともに……。



「に……逃げようっ! セージちゃんっ!!」



 愛の逃避行、開始っ……!



「ああっ!? シトロンベルさんが、逃げたぞっ!?」



「誰もいない所で、またあの無宿生ノーランと接吻するつもりだ!」



「シトロンベルさんはあの無宿生ノーランに、たぶらかされているんだ!」



「み、みんな追えっ! 無垢なシトロンベルさんを、汚らわしい無宿生ノーランの魔の手から救いだすんだ!」



 俺は引きずられるように走っていたが、次々と追っ手が来たので、全力疾走に切り替えるほかなかった。

 ふたりして肉食獣に追いかけられるように並走する。


 あ、よく考えたら、鉤爪ロープを回収するのを忘れてた……。

 でも、まーいっか。



 ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 俺とシトロンベルは、逃げ惑った末にたどり着いた小部屋でへたりこみ、ぜいぜいと天を仰いでいた。



「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……なんとか、逃げ切れたね……」



「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ……まったく、なんで俺まで逃げなきゃならないんだよ……」



「はぁ、はぁ……だって、セージちゃんを置いてったら、みんなが意地悪しそうだったから……」



「ふぅ、ふぅ……どのみちアイツらは、もう俺の敵……遅かれ早かれ、意地悪してくるさ……」



「はぁ……ご、ごめんねぇ……また変なことに巻き込んじゃって……」



「ふぅ……いいさ、流れ弾に当たるのは、もう慣れてる」



「ううっ……これ以上、セージちゃんに迷惑かけられないから、みんなには後でちゃんと説明しとく」



「うーん……たぶん、無駄だと思うぞ……。この学園のヤツらは相手が俺だとわかると、異星人ばりに話が通じなくなるからな……」



 ……ポォーーーーーーーーーーーーーーンッ!



 時報の最後に鳴る音みたいなのが、あたり一面に流れた。

 この『天地の塔』では、1時間ごとにこんな音がするんだ。


 水晶の壁にはところどころに雫を落としたような波形が走り、『12』という文字が浮かび上がっている。



「もう昼か」



「そういえば、走ったらお腹空いちゃったね」



 シトロンベルは担いでいたリュックから、紙の包みと革の水筒を取り出した。

 包みを解いた中身はサンドイッチで、「はい、食べる?」と俺に差し出してくる。



「これ、『水の塔』の調理場を借りて、私が作ったの。頼めばお弁当も作ってもらえるんだけど、なんとなく自分で作りたくなっちゃって」



「へぇ、手作りか、ありがとう」



 俺は食べやすいサイズに切り分けられたそれをひとつ受け取って、パクッとひと口。


 美少女の手作りサンドイッチといえば、すごく美味いか、すごく不味いかのどちらかだが……。

 お嬢様の料理の腕前は、果たして……。


 パンはちゃんと焼いてあるし、具のバランスやソースも悪くない。

 時代錯誤かもしれないが、いいお嫁さんになれると太鼓判を押してもいいレベルだろう。


 しかし、いかんせん素材が最悪だ……。

 パンはパサパサでふっくらしてないし、具はシナシナ……。


 逆によくここまでの味に仕上げられたな……と感心するレベル。


 統括すれば、本来ならばものすごく不味いはずのものが、料理人のおかげでギリギリ食べられるようになった感じのサンドイッチだった。



「どう? おいしい?」



「え? あ、うん。……まあまあだな」



「そう、よかった。私もママみたいにお料理が上手になりたくて、練習してるんだ」



 木のカップにお茶を注ぎながら、彼女は続ける。



「パパとママもこうやって、天地の塔でふたりっきりでお弁当を食べてたんだって」



「お前の両親は、この学園のOBだったのか」



「うん。ママって運動があんまり得意じゃなかったから、戦闘になるとよく転んでたんだって。それを助けてくれたのパパだって、ママが言ってた。それである時、転んだ拍子にパパとキスしちゃったって言ってたなぁ」



「なんかどっかで聞いたことのあるような話だな」



 俺の反応を横目で伺いながら、彼女はさらに話し続ける。



「それでその日のお昼ごはんの時に、パパがママにプロポーズしたんだって。事故とはいえ、唇の純潔を奪った責任を取らせてください、って。それでママは思わず『はい』って返事しちゃったんだって」



 チャン兄妹の間接キスのリアクションもそうだったけど、この世界のヤツらは古風というか、純情なのか……?


 なんてことを思っていたら、体育座りをしているシトロンベルと目が合った。

 彼女は抱えた膝の上に頬を載せながら、俺をじっと見つめている。


 なぜか、ほんのり上気した頬と、熱っぽい瞳で。

 潤んだ桜色の唇が、先程の感触を思い出させるかのように、ゆっくりと動き……。



「私も……セージちゃんにそう言われたら……」



 吐息混じりの、切ないような、甘えるような声を、紡ぎ出し……。



「『はい』……って言っちゃうかも……」



 俺はこの世界に来て初めて、運動以外で脈が乱れるのを感じていた。


 2周目のぶんも合わせると、ふたまわり以上も違う、こんな子供に……。

 俺は不覚にも、ドキリとしてしまったんだ……!


 俺の動揺が顔にまで表れていたのか、シトロンベルは急にニヤリと笑った。



「あはははっ! 引っかかった引っかかった! やーいやーい!」



 小悪魔少女は颯爽と立ち上がり、元気いっぱい伸びをする。



「ふふっ、冗談冗談! 8つも歳下の男の子に、責任取れだなんて言わないわよ! セージちゃんって私よりずっと歳下なのに、すっごく落ち着いてるから、ちょっとビックリさせてみたかったの!」



 俺は強ばったままの表情だったが、彼女はおかまいなし。

 俺の脇に手を差し入れてきて、子猫を抱っこするように持ち上げると、



「お腹いっぱいになった? じゃあお姉さんといっしょに、遠足を続けましょうね~! うふふふっ!」



 子供番組の進行役みたいな口調で、俺に向かって太陽のような笑顔を浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る