第14話
14 ほどける気持ち
後頭部が実に好ましい感触に包まれていたので、目覚めるのが遅れてしまった。
ときおり顔をチラチラと触れるシルクのような感触も、くすぐったいがなんだか気持ちいい。
ゆっくりと瞼を開けると、空を覆う暗雲のような、曇った顔のどアップがあった。
くすぐったかったのは、垂れた長い髪が俺の顔に触れていたからだ。
水鏡のような瞳はうるうると潤みきっていて、ついには雨のようにぽたぽたと俺の顔に雫を落とし始めた。
「なんで泣いて」
言い終えるより早く、俺をぎゅうっと抱きしめてくるシトロンベル。
後頭部にあった膝の感触ははくなったが、かわりに顔がクッション以上の柔らかさに覆われる。
女の子特有の甘い香りに包まれ、俺は思わず呆けそうになってしまう。
吐息を感じるほどの近さで、彼女はほうっとささやいた。
「よ……よかったぁ、気がついて……! 死んじゃったらどうしようかと思った……!」
「縁起でもないこと言うなよ」
「バカっ! どうしてあんな無茶をしたの!?」
シトロンベルは生き別れた兄弟に会ったみたいに、涙声でさらにきつく抱きしめてくる。
苦しいけど、抵抗する気にはなれなかった。
「お前が殴られるよりはマシだと思ったからな」
「どうして!? 私はヘッドギアをしていたのよ!? でもあなたは何も着けてなくて……! もう、バカバカぁ!」
「そこまでは知るかよ。気がついたら身体が動いてたんだ」
「でも、あんな大勢から木刀で殴られて、この位のケガで済むなんて……保健の先生もびっくりしてたわ。血もあっという間に止まっちゃって……でも意識が戻るまでは、動かしちゃダメだって言われたから」
だから、膝枕までして付き添ってくれてたのか。
まわりには人の気配がないから、みんな次の授業に行ったんだろう。
「でも、不思議だったわ。殴られたセージちゃんよりも、殴った男の子たちのほうがずっとずっと酷かったもの。みんな髪の毛が真っ白になって、『死神が、死神がー』ってうわごとみたいに言ってて、その……ずっとお漏らししてたわ。保健室じゃ手に負えないからって、病院に運ばれていったの」
意識が途絶えたおかげで、殺さずに済んだようだ。
「それにセージちゃんのこと、みんな怖がってたわよ。鬼みたいな顔で、立ったまま気絶してるんだもん……。授業に参加した子たちがみんな剣をほっぽりだして、泣きながら『許してください』って土下座してたわ」
「俺のことはいい。お前はなんともなかったのか?」
「うん。セージちゃんに庇われたときに、転んで膝を擦りむいちゃったくらい」
「悪かったな」と言うと、まるで俺に匂い付けでもするみたいに、シトロンベルの顔がスリスリと左右に動いた。
「ううん。でも、びっくりしたなぁ……。セージちゃんがまさか、『落花流水剣』の使い手だったなんて……。剣術の心得が無いなんて言ってたから、かわりに張り切った私がバカみたいじゃない」
「まあ、成り行き上な」
「太刀筋もそうだったけど、そうやって謙遜するなんて……。セージちゃんて、私のパパそっくりね。口は悪いけど」
「口が悪いのは生まれつきなんだよ」
「あ、あと剣で狙うところもパパと違ってたかな。どうして鼻ばっかり狙ってたの?」
「弱いヤツを手っ取り早く黙らせるには、鼻を折るのが一番なんだよ」
簡単なうえに血がいっぱい出るから、それだけで戦意を喪失させられるんだ。
「ちなみに、二番目にいいのは『足の小指』な。変態に襲われた時にでもやってみるといい」
シトロンベルは「わかった」と素直に頷いたかと思うと、急に残念そうなため息をついた。
「あ~あ、せっかく紹介状を見つけてくれた恩返しをしようと思ってたのに、まさかまた守られちゃうだなんて……」
「なんだ、そんなこと気にしてたのか」
「気にするよー、だって私のほうがお姉さんなんだもん」
「2周目のぶんも加算したら、俺のほうが歳上だけどな」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
「あっ、セージちゃん、おでこの所がまだ切れてるよ」
「そうか?」
胸から顔を上げようとしたら、
「じっとしてて……」
……ちゅっ……。
覚えのある感触が、額にあてがわれた。
その後、シトロンベルは俺の両脇に手を差し入れ、猫みたいに抱き上げると、
「はい、これで大丈夫。人間の唾液には消毒作用があるんだって」
はにかむように舌を出して微笑んだ。
俺はその屈託のない表情に、もしかして、と思う。
「なあ、お前……」
「なあに?」
「もしかして俺のこと、まだ女だと思ってる……?」
「えっ」
豆鉄砲を口で受け止めた鳩みたいな表情で、キョトンとするシトロンベル。
それは女神サマに引けを取らない可愛らしさだった。
しばしの沈黙のあと、
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!?!?」
絹を裂く悲鳴と、掌を返したような拒絶。
俺は思いっきり突き飛ばされ、中庭の芝生の上を転がっていた。
「セージちゃんって男の子だったの!? ひどい、私を騙してたのね!? もう、バカッ! バカバカバカっ! セージちゃんのバカーッ! もう知らないっ!!」
ひとりで勝手に誤解しておきながら、ひとりで勝手に嫌悪。
そのうえひとりで勝手にプリプリと怒りながら、シトロンベルは肩をいからせ去っていった。
しかし俺はこの時、知らなかった。
この理不尽な怒りが可愛いと思えるほどの憎悪が、今まさに向けられていることに。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ふしゅる、ふしゅる、ふしゅるるるる~! なぜ、なぜフシュの未来のペットであるシトロンベルが、あんな
「す、すみません! あの
「ふしゅるしゅる! シトロンベルの荷物から招待状を盗み、シトロンベルをフシュの
「い、いいえ、あれはたしかに成功しました! あなた様のご命令どおりに、シトロンベルさんのカバンから、紹介状を抜き取ったのに……!」
「ふしゅる~!? ではなぜシトロンベルは、
「わ、わかりません! 2枚、紹介状を持っていたとか……?」
「ふしゅる、ふしゅる、ふしゅる……! 面白いことを言いますねぇ。紹介状はたとえ王族であっても、得られるのは1枚まで……! もし紹介状を2枚も持っている者がいたとしたら、その者はきっと神様でしょうねぇ! ふしゅるるる~!」
「も……申し訳ありません!」
「ふしゅるる……今回までは、許してさしあげましょう……! でも決してシトロンベルを、フシュと同じ
「は、はい! それは、心得ております!」
「ふしゅるふしゅ~! 彼女はフシュのペットとなるべく生まれてきた、美しき雌犬なのですからね……! このフシュに飼われる事こそが、彼女にとってのいちばんの幸せなのです……! そしてフシュの幸せは、この首輪を彼女の首に嵌めて、引き綱をして……! この学園を……いいえ、この島じゅうを散歩することなのですから……! ふしゅる、ふしゅる、ふしゅるるる~!」
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