第2話

02 賢者の胆石

 話は昨日、俺が賢者学園に入学する前まで遡る。

 いや、その空間は今日とか昨日とか、そんな時間の概念などほんの些細なものであるかのような場所だった。


 そこは、息を呑むほどに雄大で、何もかもが美しかった。


 あたりは金色の光に満ちている。

 見回してみると、琥珀のなかに閉じ込められた昆虫みたいに、黄金のカプセルの中にいることがわかった。


 外には何もない。

 ただ目の前に、上半分が暗黒、下半分は水平線のような青い光が広がっている。


 顔を上げると、頭上には落ちてきそうなほどに近い天の川。

 世界中の宝石を集めて、清流に放ったかのような流麗さだ。


 眼下には、世界中どころか世界そのものが宝石と化したような、瑰麗かいれいなる惑星が浮いていた。

 この、空と海とを擁する巨大なオパールのようなものが、水平線の正体であり、白く青く輝いている。


 まあるく縁取られた光輪の彼方から、光の球がぽっかりと浮かんでくる。

 それは七色の光輝をフレアのように振りまいており、俺の目に映っていたものすべてが、この世のものとは思えないほどの美しさに昇りつめていった。


 ……ここはもしかして、空の彼方……?

 すなわち、あの世……?


 なんとなくそう思った。


 遠くにあったはずの光は、もう間近に迫ってきていて、ついには直視できないほどの強さになる。

 まばゆさに顔を背けていると、温かい気配が染み込んできた。



『わたしは創世の女神、ディルミルギウア。新たなる世界に、魂を送り出す者です』



 それは福音のような、厳かな響き……。

 しかし母の子守歌のような、安らかさに満ちていた。


 すこし目が慣れてきたので、声のほうを向くと……。

 いつのまにかカプセルの中に、ギリシャ神話のキトンのようなものをまとう少女のシルエットがあった。


 衣服の上からは、全身を絡め取るように金色の鎖が走っている。

 それを鳳凰の尾のようになびかせながら、ゆっくりと俺に近づいてきている。


 真っ白にぼやけているせいで、顔立ちは鼻筋くらいしかわからない。

 金色の長い髪をリボンで緩く編んでいて、肩から垂らしている。


 豊穣なる麦畑を揺らす、風のような光沢が、ゆるやかに流れ続ける髪。

 それを目で追っていくと、異様に盛り上がった胸部に、毛先がかかっていた。


 ふと、襟元から覗く谷間に黒点のようなものを発見する。

 それは筆でちょんと突いたほどのわずかなものであったが、輝きの中でただひとつの色のないものだったので、なんだか目立つ。


 何もかもが幻想的な世界と、自らを女神と名乗る少女の出現。

 俺の予想は当たっていたようだ。


 ……どうやら、俺は死んでしまったらしい。


 あの世というのは感覚というものが希薄で、身体は質量がないかのように浮いていた。


 匂いはなく、見るものすべてがほんのりと霞がかっている。

 まるでゴーグルを通して、バーチャルリアリティの世界を覗いているかのように。


 そして、音といえるものは……彼女の声だけだった。



『死因は……胆石症によるショック死なのね。ああ……。不摂生で、身体の中にいっぱい石さんコロコロできちゃったのね』



 しっとりした声音なのに、どこかお茶目な口調。

 しかし言葉の端々に、憂いを帯びているかのような印象を、俺はなぜか感じた。


 とりあえず、「はあ……」と生返事。

 だって、気になってしょうがなかったんだ。


 こんなに美しい世界にいる女神って、どれほど美しいんだろう。

 そしてなぜ、こんな美しいものばかりに囲まれているというのに、なにを憂いているのか……ってね。


 俺はだんだん、彼女の顔をなんとしても拝んでみたい衝動を抑えられなくなってきた。

 ついにはレンチキュラーを初めて見た子供のように、いろんな角度からチャレンジしてみる。


 もはや心ここにあらずだ。



『メッ、ですよ。あなたは別の世界に、オギャアと生まれ変わることに決まったのだから、次の世界ではキッチリ規則正しい生活を心がけましょうね』



「はあ……(正面がダメなら、右側から見たら顔がわかるか?)」



『普通、転生できるのはトラックさんでナイナイした子だけなんだけど、胆石さんの中にトラックさんみたいな形をした石さんがあったから、トラックさんでナイナイしたことになったみたい』



「はあ……(右も真っ白だ、じゃあ左からならどうだ?)」



『転生にあたり、特別にボーナスをホイホイあげちゃいます。ひとつ目は、前世での記憶の保持。ふたつ目は、年齢の選択権。赤ちゃんからオギャアとやり直すのが面倒だという場合に、好きな年齢から生まれ変わることができるの。お勧めは6歳からだけど、それでいいかしら?』



「はあ……(左もさっぱりだ。じゃあ上からならイケるか?)」



『そしてみっつめのボーナスは、賢者の石さんのプレゼントです。すごいでしょう?』



「はあ……(上も卵みたいに真っ白だ、残るは下からか)」



『前世であなたの身体の中にあった胆石さんは、すべて賢者の石さんとなり、あなたの身体にそのままコロコロと残っています。賢者の石さんは世界の法則をクルリってしちゃうほどのすごい力がありますから、気をつけてくださいね』



「はあ……(下も無理か、小鼻くらいしかわからない)」



『賢者の石さんがあるから、新しい世界では賢者フィロソファーさんになることをお勧めするわ。じゃあシュタッと降り立つ先は、賢者学園さんのある島さんでいいかしら?』



「はあ……(うーん、じゃあ斜めからはどうだろう)」



『あとは、当面暮らすのに必要な荷物さんがギッシリ入ったリュックさんと、賢者学園さんまでの地図さん、賢者学園さんに従者サーバトラー候補生さんとして入学できる紹介状さんを、服さんの中にシュルリと入れておくわね。特に紹介状さんはナイナイしちゃうといけないから、タップリと』



「はあ……(無理か、じゃあ目を細めてみるか)」



『最後に新しい世界での名前だけど、前世での名前を少しモジモジして……セージ・ソウマなんてどうかしら?』



「はあ……(うーん、遠くから見ても全然だ)」



『じゃあそれで決まりね。はい、説明と手続きはこれでぜんぶ終わり、キッチリ完了です。なにか質問はあるかしら? なければ、転生の秘術をスイスイと行うわ』



「はあ……(こうなったら最後の手段、間近で見れば……)」



 俺は神様への無礼セクハラも辞さない覚悟で、顔を近づけ……。

 ようとしたのだが、急に質感のようなものに、全身が包まれた。


 いままでは黄金の中に浮いていた身体が、急に重さを持ったように沈み込んでいく。


 まるで蜂蜜の中に浸かっていくような感覚。

 しかし黄金のカプセルの中から足先が出ると、外のひやりとした大気を感じた。



 ……ずるり……!



 俺の身体が、したたり落ちていく。

 今まさに生み落とされるかのごとく。


 急に現実味を感じ、俺は溺れる者のように暴れた。

 なんたって下は大気圏、このまま落ちたらヤバいことになるんじゃないかと思ったからだ。


 女神は何度か俺に手を差し伸べようとしていたが、自分を律するように引っ込めてしまった。

 そして、息子の旅立ちが心配でしょうがない母親のような、切羽詰まった声で、



『シッカリ、気をつけてね! 夜はヌクヌクして、あったかくしてグッスリ眠るのよ! それに、ジョバーっておねしょさんになっちゃうから、おねんねする前にお水さんをガブガブのんじゃだめよ!』



 宇宙空間に放り出された俺の身体が落下をはじめ、彼女の姿が遠ざかっていく。



『道さんを渡る時はキョロキョロしてね! 右見て左見て、もう1回、右見て左を見てね! いじめられたりしたらワンワン泣いて、ドンドン助けを求めるのよ! それでも悲しい時は……!』



 なおもずっと何かをまくしたてていたようだが、声は尾を引くように小さくなっていき、すぐに見えなくなってしまった。

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