季節のお便り
定時になって、会社を出た。家に帰る最中、どこからか、かすかにコーヒーの匂いがした。とても素敵な匂いだった。その匂いがする方向をみると、お店の看板が見えた。「
カランと音がなった。開けた
「いらっしゃい」
中からは、甘さとちょっぴりほろ苦さのある声が聞こえた。それと、やはりビターな大人の匂いがした。甘くてほろ苦い声に安心し、ゆっくりと中に入った。
店内は広くない。カウンター席四つとテーブル席が二組。
この店を経営しているマスターは、若い人だった。声からしてそうなのだが、しかもその上、すごく美しい顔をしていた。顔だけでなく、身なりも整っていて、優れた品格があった。胸元の名札には、
私は、カウンター席に座った。
「コーヒー飲みますか」
「はい。コーヒーひとつ」
「かしこまりました」
マスターは、豆を挽いてできた粉でコーヒーをいれた。いれるときも慣れた手つきで、
「ミルクやお砂糖はいりますか」
「両方いれてください」
「お砂糖はいくついれますか」
「二つ入れてください」
「はい、かしこまりました」
できあがったコーヒーに、銀色の容器に入った角砂糖をひとつ、ふたつコーヒーに投入。そして、ポットを両手で持ち、ミルクを入れた。この工程も見ていて心地よい。
「はいどうぞ」
カップを皿の上にのせ、小型のスプーンを
「お仕事の帰りですか」
マスターは、聞いた。
「はい。そうですけど」
「ずいぶんとお疲れのようですね」
「はい」
そうだ。私は、ずいぶんと疲れていた。ずいぶんというか、かなりひどく疲れていた。それは昨日からだ。昨日からずっと疲れ続けていた。そう思うと、今まで忘れていた
「ごめんなさい、こんなになって」
しかし、
「かまいませんよ。しかし、
彼のこの甘くてほろ苦い声のせいなのか、
「昨日、彼氏に振られまして。『女として見れない』って」
微動する唇を必死に抑え込む。
「そうですか。それはさぞお辛いでしょう。気の毒です」
マスターは言った。そこには感情というものがなかった。まるで、
「そもそも、私は女として見てもらいたいって思っていないというか、もともと私は女ではないというか」
私って女の魅力の要素が何ひとつなくて、男の人みたいな感じなんです。でも、私は男ではない。本当に中途半端な生き物なんです。
酒に
ふと思い出した。
そんなことを思っていると、この甘くて苦くて温かい飲み物が、
「何で私は生きてるの」
ぽつりと弱々しい声でつぶやいた。
「お客さん」
突然聞こえてきた優しい声に、水溜りの目で見上げた。そういや、自分のことばかり考えていて、マスターのことなんて、全く頭の中にはなかった。
「あなた様は悪くないと、私は思います。当然、私にはお二方のことは存じ上げませんが、それだけは言えます。それに、あなた様は、しっかりとご自身と向き合うことができていて、魅力的に感じます」
えっ。それは、本当だろうか。多分、マスターは、失恋して明日を見失っている人に何度も出会っただろうから、そういう人を
伏せていた頭を起こす。のしかかった倦怠感や重さはうんと薄くなった気がする。身が軽くなった。そんな私に、マスターは淡い笑みを浮かべていた。今まで見たことのない、新しいものだった。
「ありがとうございます。あなたのおかげでちょっと軽くなった気がします」
「それは光栄です。少しでもお客様のお力になれたのなら、それに越したことはありません」
素敵な人だなって、純粋に思った。私の胸の中心のところで角砂糖が溶けているような、そんな感覚におちいった。それも、ひとつじゃない。数えるのが困難なほどの量が一斉に溶けていた。そんな量が入ったコーヒーなど、前代未聞だ。たった一滴口に入れただけで顔の形が変わってしまうほどの甘さになると思う。実際に顔を歪ませたくなるようなそんな甘さになっていた。こんな感覚は初めてだった。苦みが全くなく、強烈な甘みに支配されていた。ちょっとぐらいは大人な苦みがあっても良いが。
この強烈な甘みは一生忘れられないなぁ。ここにはまた来るしかない。
「ありがとうございました。また来ますね」
「はい。またいつでもいらしてください」
ビターな匂いに誘われて入り、激甘な心で出るなんて、おかしなことだ。
ただ、顔を上げ、上を向いたときのほうが、新しい季節のお便りは届きやすい。
移り変わりの 桜野 叶う @kanacarp
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