季節のお便り

 定時になって、会社を出た。家に帰る最中、どこからか、かすかにコーヒーの匂いがした。とても素敵な匂いだった。その匂いがする方向をみると、お店の看板が見えた。「珈琲コーヒーサムラ」と書いてあった。一瞬、「サムライ」に見えてしまった。お店は地下にあるみたいで、その地下からは、やはりコーヒーの匂いがした。しかも、さっきよりも濃くなっていた。その匂いにつられて階段を下っていった。

 カランと音がなった。開けた隙間すきまから、中をのぞく。

「いらっしゃい」

 中からは、甘さとちょっぴりほろ苦さのある声が聞こえた。それと、やはりビターな大人の匂いがした。甘くてほろ苦い声に安心し、ゆっくりと中に入った。

 店内は広くない。カウンター席四つとテーブル席が二組。

 この店を経営しているマスターは、若い人だった。声からしてそうなのだが、しかもその上、すごく美しい顔をしていた。顔だけでなく、身なりも整っていて、優れた品格があった。胸元の名札には、佐村さむらと書かれていた。甘みのあるクールな顔。その視線は、コーヒーミルにそそいでいる。一定のリズムでゆっくりとハンドルを回していた。コーヒー豆をいているのだ。それによって、馥郁ふくいくたる匂いが店内に充満し、外にまで流れ出たのだ。そして、このコーヒー豆の砕ける音も心地よい。店内に広がる音と匂いで、私の中に溜まる悪いものがいつのまにか消えていた。夢見心地ごこちだった。

 私は、カウンター席に座った。

「コーヒー飲みますか」

「はい。コーヒーひとつ」

「かしこまりました」

 マスターは、豆を挽いてできた粉でコーヒーをいれた。いれるときも慣れた手つきで、手際てぎわよく作業をしていた。

「ミルクやお砂糖はいりますか」

「両方いれてください」

「お砂糖はいくついれますか」

「二つ入れてください」

「はい、かしこまりました」

 できあがったコーヒーに、銀色の容器に入った角砂糖をひとつ、ふたつコーヒーに投入。そして、ポットを両手で持ち、ミルクを入れた。この工程も見ていて心地よい。

「はいどうぞ」

 カップを皿の上にのせ、小型のスプーンをえて、私の手前にコーヒーが置かれた。私は軽く会釈えしゃくをし、スプーンで数回かき混ぜてから、口にふくんだ。甘みのある大人の味が、疲れた心に染み渡る。

「お仕事の帰りですか」

 マスターは、聞いた。

「はい。そうですけど」

「ずいぶんとお疲れのようですね」

「はい」

 そうだ。私は、ずいぶんと疲れていた。ずいぶんというか、かなりひどく疲れていた。それは昨日からだ。昨日からずっと疲れ続けていた。そう思うと、今まで忘れていた倦怠けんたい感がドッとのしかかった。その重みにえられず、マスターのいる前で頭をせた。マスターに申し訳ないと思った。

「ごめんなさい、こんなになって」

 しかし、到底とうてい起き上がれる気がしない。

「かまいませんよ。しかし、相当そうとうぐったりとされていますね。私で良ければ、お話聞きますよ。ひとりで抱えこまれるよりは気が楽になると思います」

 彼のこの甘くてほろ苦い声のせいなのか、みょうに安心する。何の確信もないが、この人なら大丈夫だと感覚的に思った。私は口を開く。昼間、同僚の日波ひなみちゃんにも言えなかったのに。

「昨日、彼氏に振られまして。『女として見れない』って」

 微動する唇を必死に抑え込む。

「そうですか。それはさぞお辛いでしょう。気の毒です」

 マスターは言った。そこには感情というものがなかった。まるで、にごりの一切ない清水せいすい。それが良かった。変に感情を込める必要はない。この言葉に含まれる感情といえば、同情心。それだけだ。同情心というのは、見下しの感情だ。「可哀想かわいそう」なんて言葉は、良心で言ったものであろうと、ズタズタの心をさらにえぐる。そんな同情という感情をたっぷり込めて言われたら、明日を乗り越えようとする気持ちも瞬時しゅんじにして消え失せるだろう。マスターはそれをちゃんと理解していたのだろう。

「そもそも、私は女として見てもらいたいって思っていないというか、もともと私は女ではないというか」

 私って女の魅力の要素が何ひとつなくて、男の人みたいな感じなんです。でも、私は男ではない。本当に中途半端な生き物なんです。

 酒にったみたいにぐだぐだと話していた。話せば話すほど、どんどん、どんどん悲しくなっていく。すると口がみにくくゆがんでしまう。それを隠すようにコーヒーをすする。

 ふと思い出した。じゅんと出会ったのは、コーヒーがきっかけだ。六年前、ちょうど大学生の頃だ。私は酒に目覚めるよりも早いうちから、コーヒーに目覚めていた。甘くない大人の味に、甘味を入れて飲むのが好きだった。当時いきつけだったカフェに足を運ぶと、大体そこには準がいて、いつも話しかけてきた。授業を受ける教室が同じで、よく見る顔だったから、あまり緊張などはしなかった。大人な感じに少し甘みを入れたような、私の好きなコーヒーのような人で、いやじゃなかった。私に付き合ってと言ったのは彼だった。そして、私に縁を切ると言ったのも彼だった。私はただ、一緒に過ごしただけだった。そして、私に女らしさを求めていた彼は、女ではない私の真の姿を見て、いら立ちをつのらせた。

 そんなことを思っていると、この甘くて苦くて温かい飲み物が、余計よけいに私を悲しくさせた。そしてさらに口は、みにくく歪んだ。このあまりにもみじめであわれな顔は、絶対に見せられるものではなかったから、顔まで伏せた。私って、本当に間抜まぬけで、惨めな生き物だ。悲しくて悲しくて、そでがじんわりとれた。

「何で私は生きてるの」

 ぽつりと弱々しい声でつぶやいた。 

「お客さん」

 突然聞こえてきた優しい声に、水溜りの目で見上げた。そういや、自分のことばかり考えていて、マスターのことなんて、全く頭の中にはなかった。

「あなた様は悪くないと、私は思います。当然、私にはお二方のことは存じ上げませんが、それだけは言えます。それに、あなた様は、しっかりとご自身と向き合うことができていて、魅力的に感じます」

 えっ。それは、本当だろうか。多分、マスターは、失恋して明日を見失っている人に何度も出会っただろうから、そういう人をなぐさめるのは、慣れたものなのだろう。そういうときにかけるべき言葉を知っていて、それを私にも言ったのだろう。どちらにしろどうでもよかった。ただ、うれしかった。準に振られて以来、初めて優しい言葉をかけてもらった。何だかぽかぽかする。これを求めていたんだな。実際に手に入れることができて、初めて判明した。やっぱり私って間抜けだな。

 伏せていた頭を起こす。のしかかった倦怠感や重さはうんと薄くなった気がする。身が軽くなった。そんな私に、マスターは淡い笑みを浮かべていた。今まで見たことのない、新しいものだった。

「ありがとうございます。あなたのおかげでちょっと軽くなった気がします」

「それは光栄です。少しでもお客様のお力になれたのなら、それに越したことはありません」

 素敵な人だなって、純粋に思った。私の胸の中心のところで角砂糖が溶けているような、そんな感覚におちいった。それも、ひとつじゃない。数えるのが困難なほどの量が一斉に溶けていた。そんな量が入ったコーヒーなど、前代未聞だ。たった一滴口に入れただけで顔の形が変わってしまうほどの甘さになると思う。実際に顔を歪ませたくなるようなそんな甘さになっていた。こんな感覚は初めてだった。苦みが全くなく、強烈な甘みに支配されていた。ちょっとぐらいは大人な苦みがあっても良いが。

 この強烈な甘みは一生忘れられないなぁ。ここにはまた来るしかない。



「ありがとうございました。また来ますね」

「はい。またいつでもいらしてください」

 ビターな匂いに誘われて入り、激甘な心で出るなんて、おかしなことだ。

 ただ、顔を上げ、上を向いたときのほうが、新しい季節のお便りは届きやすい。


 

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移り変わりの 桜野 叶う @kanacarp

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