移り変わりの

桜野 叶う

過ぎ去り

 あまりにも突然とつぜんのことだ。それは、それを言われたのは。その時は、正午を過ぎてからちょうど三回目の前、時計の長いはりが12に向かって、ラストスパートをかけているところだった。ちょうどおやつの時間になる。しかし、私の中から、おやつの時間というものが抹殺まっさつされた。そんなのを気にしている余裕よゆうが、たった今なくなった。

 その原因は、彼だ。松村まつむらじゅんだ。彼とは大学のころからの付き合いで、もう六年目になる。その六年は、平凡へいぼんで、だけどほんのりと幸せな日々だったはず。そのささやかな幸せは、これからもずっとずっと続いていく。私は無意識にもそう思っていた。しかし、それは、そう思っていたのは私だけだっだみたいだ。

 私はこの日、めずらしく彼にさそわれて、市内のレストランで軽く飲食をしていた。そこでだ。そこで突然言われた。

「お前、女として見れないんだよ。愛情なんてなくなったわ」

 突然心外しんがいなことを言われ、頭の中にはなぞの空白が生まれた。

 まだ全然理解ができていないうちに、彼は立ち上がった。

「お前とはえんを切る。もう俺の前に現れるな」

 そう言って、店から出ていった。未だに理解が進まない上に、さらに情報量か増えて、私の頭は混乱こんらんしていた。画面は止まって、現れた小さなクルクルは止まらない。新しく入ってきた情報をぽつりと口にだした。

 縁を、切る。

 縁を……切る。

 縁を……きる。

 縁を切る。──破局はきょくした。私は破局した。振られた。彼に、準に、六年一緒にいた彼に振られた。今。ここで。彼は去っていった。

 私は振られた。破局した。

 私はひとり、ここに取り残された。机の上には、料理ののっていない皿、水が入ったグラス。それぞれ二つ。それと手前にある飲みかけのコーヒー。それはもう、飲む気になれない。遅れたショックが今頃やってきて、頭の中の空白は、やがてすぐににごってきた。飲みかけのコーヒーを残して、立ち上がった。そして、私の目は透明とうめいっかにとまった。そこには会計の紙があった。紙を手に取ると、さっさとレジに向かった。


 私は私の部屋にいた。気づけばベッドの上であお向けになっていた。家路いえじをたどる記憶ですら、ぼんやりとしていて、姿・形をとらえることができない。何もわからない。唯一ゆいいつ解るのは、私は準に振られたことだ。破談したのだ。そうだ。私は……。今度こんどは、目の先にある天井てんじょうまでもが、ひどくぼんやりとしていた。と思うと、目尻めじりから耳にかけて、温かいしずくつたった。私は泣いていた。

「お前は女として見れない」と彼は言った。そもそも、私は女としてみてもらおうとしていない。私は、ぞくに言う女性というものとはちがう生き物だからだ。女性というのは、つねに身だしなみに気をくばっていて、食べるのもきれいで、何かをノートとかにまとめるのが上手くて、字もきれいで、ほのぼのとした可愛かわいらしいものこのむらしい。でも、あらっぽいには興味を持たないらしい。

 でも、私はそれらとは違った。常に身だしなみに気を配るのは、面倒めんどうだと思う。服装はオシャレよりも動きやすさを重視じゅうしするし、はねたかみをなんとかするにも少しの時間はくが、それでも治らなけらば、放置ほうちしてしまう。手足などの手入れも、しなきゃいけないと思ったときも、面倒めんどうくさいと放棄ほうきしてしまう。食べるときも、なぜかぽろぽろとこぼして、服をよごしてしまう。ノートにまとめるのも下手へたで、字もきたない。可愛いのは好きだが、どちらかというと、男子が好むようなギャグ漫画やバトル漫画などの方がよく手にする。しかし、少女漫画など手にしたこともない。私は、女性というものではなかった。女でなければ、もちろん男でもなかった。中途ちゅうと半端はんぱな人間になってしまった。だから振られたんだ。こんな中途半端な生き物とずっと一緒にいるくらいなら、男同士で付き合った方がずっと良いはず。私よりも、きちんとした男性の方がずっときれいだからだ。

 

 いっそこのまま、終わってしまえばいいのに。勝手かってに時は流れて、次の日がやってきた。準に冷たく言われ、私を残して帰っていったその後、あとあとおそってきた絶望感からこの世の終わりだと思った。それでも、次の日はやってくる。この世は続いているのだ。

 昨日の絶望感はまだまだあって、そのせいか、布団ふとんから起き上がることができなくなってしまった。今日からまた仕事があるのに。起き上がることができないなら、横にスライドして、ベッドから脱出。ふらふらするもののなんとか立つこたができた。重だるい。この重だるい身体を引きずって、朝の支度したくをした。朝ご飯はなし。食べる時間も欲求もない。その他の支度をして、家を出る。

 やっぱり重だるい。地面に引っ張られて、倒れてしまいそうだった。さらに視界も不安定だった。


「おはよう、響果きょうかちゃん」

 出社してすぐ、同期の日波ひなみちゃんから挨拶あいさつをもらった。たんぽぽのわた毛のように、ほわほわとしていて可愛らしい。私も「おはよう」と返した。彼女とは席がとなりということもあって、新しく入ってすぐに仲良くなった。彼女とは気が合う。

「どうしたの、すごく暗いけど」

 早々そうそうにばれてしまった。ほわほわとしたいやしの声がマイルドにしてくれる。しかし私が彼氏に振られて、絶望のさなかにいるのは誰にも知られたくなかった。気づかれたくなかった。そうなってしまったら、私はみんなから見下されてしまう。彼氏に振られた非常に恰好かっこう悪い女として、ダメダメな女として、そもそも私が女でもないことを知られるのは一番嫌だった。でも、今、やはり人の感情を見抜みぬくのが上手な日波ちゃんにはかなわなかった。

「いや、なんでも」

 でもやっぱり、知られたくない私は、明るくみせようと顔を取りつくろう。上手くできているかは、鏡を見ていないからわからない。私は、デスクのパソコンを立ち上げた。上手うまく取り繕えていないことを考えると、怖くて横を見ることができなかった。おそらく日波ちゃんは、不審ふしんな目を向けているだろう。

 休憩きゅうけい時間になり、私は席を立った。隣の日波ちゃんもついてくる。

 休憩スペースの、人のいない空間にある席に座った。日波ちゃんはその隣に座った。彼女のことを気にめるのをやめて、テーブルに顔をせた。日波ちゃんがなにを言ってくるのか怖かった。でも、しばらくっても話しかけてこなかった。それはそれで、気まずい。怖いのが長引く。これが続くくらいなら、言ってしまった方が楽か。

 しかし、言えない。やっぱり怖くて。何が怖いかと問われると、自分の弱みを、自分の黒星を、人に知られるのが怖かった。日波ちゃんは、私の弱みを知ったからといって、決して馬鹿にするような口は言わないとは思う。……だが、人間というのはいろんなお面を持っていて、時によってかぶるお面を変える。私は昨日、それを否応いやおうなしに痛感させられた。準は、今まで私に対するときには、お面をかぶっていたのだ。あのちょっとだけ優しくて、一緒にいるだけで幸せになれたあの彼は、お面をかぶったときの状態だったのだ。それが、お面を外して本当の彼の顔が現れときに、初めてわかった。それまでは微塵みじんも疑うことすらもしなかった。六年も一緒にいて全くわからなかった。私が間抜けだった。

 きっと、日波ちゃんにもいろんなお面があって、私の前では、ほわほわと可愛いらしいが、それもお面の一種で、本当の顔は別のものなのかな。そんな疑いの目を向けてしまう私は、いややつだ。

 結局、一言も言葉を発することなく休憩きゅうそくの時間が終わった。

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