アフォリズム

愚かな人だと思われたところで、自分が余計愚かになるわけではない。

賢い人だと思われたところで、自分の愚かさが消えてなくなることもない。

重要なのは、自分愚かさと賢さ自体に注目し、それを改善していくことだ。



歴史とは敗者の慰み事ではないのか?


哲学とは敗者の慰み事ではないのか?


勝者にはそもそも考える必要などないのではないか? 喜びに包まれていて、すぐにまた新たな戦いに向かうのだから。


敗者だから、次の戦いに挑むかまず悩まなくてはならないのではないか?


敗者だから、次の戦いにどうやって勝つか悩まなくてはならないのではないか?



勝敗とは。

これは動物に起源を求めていいと思われる。単純な生存競争。


一時的な敗北を受けた個体の中で、その後、子孫を残すことができた個体。その先に我々人類があるのではないか?


海から追い出され、森から追い出され、島から追い出された。


それでも生き残った。それが「知恵」の起源ではないのか?


逃げることはひとつの選択肢であった。しかし逃げることをベースに、逃げないことも選択肢として残した。


人類は生き残りをかけた戦いを繰り返してきた種族である。


生き残るために手段を選び続けた種族だった。どの手段を用いるのが一番いいか、考え続けた種族だった。


人類は狡猾であった。狡猾もまたひとつの徳であった。



「狡猾であってはならない!」というのもまた、狡猾に起源をもつ言葉であった。そう命令することによって、狡猾という生存に有利な徳を他者が獲得できないように仕向けたのである。


哲学が隠され続けた理由。生存競争。かつての人類の目的。


精神にも毒がある。味のいい果実に毒を混ぜることによって、ライバルを死に至らしめる。


本来であれば体にとって好都合であるような作用を悪用し、自滅を促す。


国家。それは偶然が産んだ、新しき生物。国家は人間と共存関係にあるのではなく、どちらかというと国家が人間に寄生している。


寄生の定義。共生関係とは、共依存、あるいは互いに独立しており、結びつくことによってより互いの生存にとって有利となるような関係のことだ。


たとえ両方にとって利益があったとしても、それが片方のみの依存関係によって成り立っている場合、それは寄生というのに近くなる。


国家は人間とは独立して存在しえない。それは巨大なウイルスに似ている。


人間に利益を与えるように見せかけて、実際はその身体を大きくし、その存在を盤石にすることだけを目的にする。


国家が人間の体を守ろうとする理由は、それが己の維持に役立つからであって、もし国家が人間たちによって破壊されそうになるのならば、国家は総力をあげて人間を滅ぼす。

国家において常に法律>国民である。


法治国家とは、法律に最大の権力を置くものであるから。



国家は人間が産み出したものであるが、国家は人間がコントロールできるものではなかった。


国家は賢明な人間より愚鈍な人間の方を好む。賢明な人間は国家から独立し、愚鈍な人間は国家に依存するからだ。

国家が賢明な人間を愛する場合においても、規格外と呼べるほどの国家への貢献がなければ、それを認めようとしない。

国家は自分に損害を与えた賢者を誰よりも強く憎み、処刑しようとする。



この世から全ての病気、イデオロギーとナショナリズムが消えてなくなればいい。



ナショナリズムなき国家とは、そもそも国家とは呼べないのではないか?



国家だけが共同体ではない。



勘違いしないでいただきたい。私はアナーキストではない。

私は国家を憎んでいるが、法律、議会、社会福祉を尊重している。

私は国家が存在することに反対しているのではなく、国家が強大な権力を持つことに反対しているのである。

あらゆるイデオロギー、ナショナリズムは国家に権力を与えすぎる。イデオロギー、ナショナリズムが消失すれば、国家とは「公的組織」でしかなくなり、そもそも国家と呼ぶ必要がなくなるのではないか、とそう主張しているのである。


私は天皇に同情する。彼らはもっとも厄介な役目を与えられた個人である。

しかし同時に、生まれながらにして大きな責任を負うことができるという特権を、羨ましく思う。



ポリスと国家は本来違ったものであったはずだ。都市国家などと呼ぶべきではない。独立都市と呼ぶべきだ。そこに住んでいる人々は、国民ではなく市民であった。




どこからどこまでを自分が所属する共同体として定義するか。それは定義、規定の問題であって真実の問題ではないのだ。



あなたは日本国民か。それとも大阪府民か。堺市民か。北三国ヶ丘町民か。二丁目自治会民か。それとも、世界市民か? 地球の塵か?

どれも正しいのだから、どれを重く認識するか、という問題だ。どれを優先するか、という問題だ。


それぞれの共同体が、対立することがある。自分の行動によって利益を得たり損失をこうむったりする共同体が違う場合もある。

自分の行動が大阪府にとって利益でも、国家にとっては損失になることもある。その行動をあなた自身がどう評価するかは、選択であり、判断なのである。そこに「真実」「正しさ」はない。あえていうならば、あなたのとった行動が、あなたにとっての正しさとなる。



正しさを定義するのは「過去の行動と結果」と「未来への希望(願望)」のどちらかである。その両者の間には大きな溝がある。



「過去の正しさ」を否定するのには勇気がいる。それは、病気を引き起こすからだ。それは、別の国の空気を吸うようなことだからだ。それは、アレルギーを誘発するからだ。



人間の嫌悪感のほとんどは忌避反応である。それが危険であることを、肉体が感知しているのである。




人間は平等ではないし、平等であるべきでもないから、死んだほうがいい人間がいたとしても、この世界そのものが死んだほうがいいことにはならない。


平等主義者は、死んだほうがいいような人間を見ると、自分まで死んだほうがいいような気持になってしまう。それが病気なのである。


平等主義者は、平等という毒を飲まされた善人である。善人とは本来、「人を助けるか、助けないか」という判断状況において、「助ける」というのを選ぶ人間のことである。

平等主義の毒は、善人に対してもっとも強い力を持ち、致死性の病気に罹患させる。



善人を治療するには、こういってやるしかない。

「人間は平等ではないし、平等であるべきでもない!」

「何にでも同情し、助けようとするのはやめろ! 誰を助けるかは、お前が選べ! お前が責任をもって、お前が選んだ人間を助けるべきだ!」

平等主義者は誰も助けられない。だから、善人が真に善人であるためには、不平等主義者でなくてはならない!



引用するくらいなら、剽窃していた方がマシだ。引用文は権威を持ち、その言葉自体の強さを押しのけていく。


引用文とは本質的に虎の威である。学問の本質。


権威を尊重することは悪い事ではないが、権威のないものを無視するのは悪徳であり、愚鈍の証明である。


権威を用いることで、愚鈍な人間と賢明な人間の判断を一致させることができる。しかしそれは、両者に対する過保護というものだ。

権威を用いることで、判断力を甘やかすべきではない。今までそうしてきたせいで、考えることのできない人間が量産されたのではないか。



幸福と不幸は対になっている。

この世から全ての不幸が消えてなくなれば、「生きていること」以外の幸福も全てなくなってしまうのではないか?



強すぎる快楽は痛みを強くし、強すぎる痛みは快楽を強くする。

快楽と痛みの間には、小さな相乗作用がある。



アフォリズムはその人間の本質をあらわす。

君の炯眼に映るのが、仮面の下の素顔であることを望む。

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