白痴の空



 気持ちが宇宙に飛んでいった。理由もなく、道理もない。意味ももちろんない。


 ただ大げさに、ただ大げさに。



 暗い夜空を眺める。星は少しも見えない。街灯の明かりのせいだ、と言いたいところだけど、実際はただ曇っているだけ。たとえ街灯がなくても見えないことに変わりはないはずだ。


 川と車道の上にかかる全長五十メートルほどの橋の上に私は立って、誰かの声を探していた。宇宙から、何か声が聞こえてきてほしいと思ったのだ。もちろん、思うだけでそれが現実になることはない。


 思い込みの強い性格ではなかった。妄想をすることは多かったけれど、その妄想が現実だと思い込んだことはなかった。むしろ、思い込もうとしても、うまくできなかった。現実がどれだけ辛くても、私は現実から目を逸らすだけの……意志の力が足りなかった。


 誰だっただろうか、私のような人間を「認識の聖者」と呼んだ者もいた。それは宇宙から聞こえてきた言葉ではなく、紙から聞こえてきた言葉だった。なんて。


 そんな陳腐な表現じゃ、宇宙に住んでいる人にはきっと届かない。もっと美しい言葉じゃないと、未来の人には届かない。もっと……私には理解できないような複雑な言葉じゃないと。


「私たちは生きていない。百年後には、まず間違いなく死んでいる。冷凍保存されてる人とか、電脳化してる人はいるかもしれない。でも私は、電脳化もされないし、冷凍保存もされない。だってそんなのは、生きているとは言えないから。肉の体で、見えない心で、悩んで苦しんで死の恐怖と生の恐怖の間で喜びに震えていないと、私は生きているとは思えない」


 でもそれなら、私の周りにいる友達も家族も同僚も、みんな生きていないんじゃないか?


「苦しんでるのは私だけじゃないよ。でも、みんながみんな苦しんでるわけでもない。私はただ、私はただ、私のままでいたいだけ。でも、私は私のままでいたくなくて、だから、成長したいっていう、欺瞞みたいな願いを、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……」


 何を求めているわけでもなかった。ただ日々のストレスを……抑え込んでいる魂の叫びを、全てを飲み込むような薄暗闇に吐き出してしまいたかったのだ。


「私は今、生きている! 生きているから!」


 ざわ、と風がそよぐ。ビリビリ、と皮膚に電流が走る。頭の中で、恥ずかしさと喜びが争っている。


「人生よ! さらば!」


 なんでそんなことを言ったのか分からなかった。自殺するつもりなんてなかったし、実際自殺なんてするわけない。でも、そう言ったのだ。言ってみたかったのだ。だから。


「人生よ! さらば! また会いましょう!」


 私はまた、そう叫んだ。確かに私は、この時人生をやめていたような気がする。人生に別れを告げたような気持になった。晴れやかで、何の憂いもなく、全てを受け入れて、ただただ愛している。

 あぁ、別れというのは本当に美しいものだ。


「もっと人の気持ちを考えたほうがいいよ」


 その時、あいつに言われた言葉を思い出した。一気に、気持ちが冷たくなるのが分かった。


「あんたに言われたくない」


 私は、そう答えたのだった。


「そういうところだよ。ミキは、自分のことばっかり考えてる。言葉を選ばない。頭いいのに、もったいない」


 俗物! 私の心を汚さないでくれ……私はただ、私はただ……


「そんなんだと、いつかひとりぼっちになるよ」


 人間は皆本質的にひとりぼっちなのだ。ひとりぼっちであるべきなのだ。私はこうして夜に向かって泣いていなければ、私ではないのだ。私はただ、私でありたいのだ。人生は、人生は、人生は……愛すべきものなのだ……


「死んじゃえーーー!」


 叫んで、崩れ落ちた。もう嫌だった。どうしてこう、全てうまくいかないのだろう? 何もかもが自分の思い通りにいけばいいなんて思わないし、そんなのはむしろごめんだけど、でも、何をやってもうまくいかないのは、つらくてつらくて仕方がない。なにひとつ、望みはかなわず、反対に恐れていたことはほとんど現実になる。あぁ。嫌だ。苦しい。悲しい。


「もう、やだよ。ねぇ、ねぇ。聞こえてるなら、返事してよ」


 何も聞こえない。誰もいない。分かってる。誰もいないのだ。私は、嘘を信じる力がない。信じたいものを、そこに在るものとして取り扱う力がない。見えないものは見えない。感じられないものは感じられない。

 あぁ。それが誠実であるということなのだろうか? 神様……そんなものは、私にはいない。


「ねぇ……」


 私はひとりぼっち。暗い空。雲の切れ間から一瞬星が煌めいた。でも、それもどうでもよかった。

 星は私には語りかけてくれなかった。寂しかった。ただ寂しかった。


 声を探していた。私を理解してくれる声を探していた。私を愛してくれる人を探していた。


 私の外見でも性格でも感情でも態度でもなく、ただ私の孤独を愛してくれる孤独そのもののような人を探していた。


 孤独な人は、孤独な人しか愛せない。孤独な人は、孤独ではない人を見ると、嫉妬ではなく、軽蔑の目を向けてしまう。軽蔑している相手を愛することができるのは、男性だけ。


 孤独な女はずっと孤独なのだ。あぁオールドミス。


 いずれ私もそうなっていくのでしょう。それならそれで構わない。ワ。なんて。


 そうよそうよそうよそうよ。そうなのかしら。そうなのだわ。あーあ。私は、ただ私は、私でいたいだけ。痛い。痛くて、苦しいのに、誰も理解してくれない。誰も愛してくれない。


 あぁ。青く深いこの孤独よ。せめてお前だけは私を愛してくれ。



「また会いましょう。また会いましょう。せめてあの、海よりも深く黒い、優しい宇宙の隅で」

「また会いましょう。また会いましょう。せめてこの、小さくて美しい、悲しみの庭で」

「また会いましょう。また会いましょう……」


 またいつか。私の胸が張り裂けて消えてなくなるその時まで、私の認識が、いつか私を騙すことができるようになるまで。私の愛情がいつか、私の身近な人に向けられるようになるまで。私の愛情がいつか、私自身を心の底から愛することができるようになるまで。


 またいつか、会いましょう。白い雲と青い空。ただそれだけでしかない、白痴のように綺麗な空で。

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