新崎――ある少女との出会い

 ただ寂しくて外を歩いていた。多分、こんなことを言ったら軽い女だと思われるかもしれないけれど、誰でもよかった。でも誰もいなかった。


 私は確かに綺麗な外見をしていたし、色々な人に求められてもきた。何度か体を差し出してみたこともあるし、それだけの価値があったと思えるような経験もしてきた。お金を払って高級なお酒を飲むのと似たような感じで、私は何度かセックスを楽しんだことがある。でもそれが何だろう? 終わった後の罪悪感と虚無感。愛してもいない人と、同じベッドでこんな近い距離にいるということに気づいて、今すぐに家に帰って一人きりになりたくなる。何のために私はこんなに、自分を貶めるようなことをしなくちゃいけないのか。


 生きているのが苦しかった。この空しさを埋めてくれる人ならだれでもよかった。でも私は、ただ体を温めてもらっただけで満足するほど、安い女ではなかった。私は心からの愛情を求めていたけれど、今まで誰からも愛されたことはなかったし、自分から誰かを愛せたことなどなかった。愛しているふりをして、心の裏側で……いや、むしろその小さな愛情自体が心の隅っこで肩身狭そうに嘆いているのだ。私は愛せない。愛していない。ただそのような言葉だけを口にして、呼吸をする。キスをする。愛撫する。それで? あるのは心の奥底から湧き出るどす黒い不愉快。


 私は呵責なく愛せる人が欲しかった。どんな人でも良かった。老人でもよかったし、赤ん坊でもよかった。男でも女でもよかったし、そもそも人間でなくてもよかった。でも動物は阿呆みたいだし、老人も赤ん坊も醜い。人間は皆……私はどうして人間でなくてはならなかったのだろう? 




 そんなことを思いながら、二本並んだ川にかかる橋を渡る。街灯が途切れなく灯っていて、深夜なのに明るい。橋の手すりにも照明がついていて、まるで小さなステージみたいだ。もし大げさにこの世を呪って自殺する場所があるとすると、ここなのだろうと笑った。


 もし私がこれから自殺しようとする人と出会うとしたら、この場所に違いないと思った。でもいつものように誰かとすれ違うこともなく、橋を渡り終えた。別に何もありゃしない。苦しい。息苦しい。でも少しだけ、風が気持ちいい。




 坂を上る途中、嫌な目つきをした人とすれ違った。しかもついてきていることに気が付いた。不愉快だった。私が求めているのは、そういうことではなかった。もし私に興味があるならば、はっきり話しかけてくればいいのに。


 私は逃げることにした。結局……結局、私は誰でもいいと言いつつ、何か、理想的なものを期待してる。こんな夜中にそんな素敵な人が出歩いているわけもなく。


 馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。笑えてくる。何もできない。公園のベンチに腰掛け、頭を抱えて涙を流す。もしあの不審者がここまで追いかけてきていたとしても、こんな状態の私を襲おうという気にはならないだろう。ははは。本当に追い詰められている人間のことを恐ろしいと思わない人がいるだろうか! こんなに苦しんでいる人間は……次の瞬間、自分が何をしてしまうかもわからない。話しかけてきた相手を殺してしまうかもしれない。それくらい、辛い。悲しい。生きているのが辛い。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの? 今までずっと頑張ってきたのに。愛されようと努力してきたのに。それなのにどうして「誰でもいい」と思ってしまうくらいに寂しい想いをしなくちゃいけないの? どうしてこの世には……私を嫌な気持ちにさせるものばかりなの?


 どうして私は満たされないの?


「大丈夫ですか?」


 私が顔を上げると、四十代くらいの犬を連れたおばさんがいた。顔は健康そうで、健康的な小じわが好印象だった。私は何を言ったらいいのかわからなかった。こんな幸福そうな人に、何を言えばいい? 何を求めればいい? 何がある? 私に……私に言うべきことなど何があるだろう? 私は何も言えない。


「大丈夫です」


「本当に? まだ若いのに、こんな時間に出歩いてちゃ危ないわよ。私はもうおばさんだし、この子、昼間には全然外出たがらないから仕方なくなんだけど……えっと、責めてるわけじゃないの。ただどうしても、心配になっちゃって」


 その優しさで、私の心が温まることはなかった。むしろ嫉妬心と劣等感でおかしくなりそうだった。


「ごめんなさい。本当に大丈夫です」


「そう……ごめんなさいね」


 最後まで優しい声色と足音で、おばさんは去っていった。私はため息をついて、立ち上がった。もう家に帰ろう。疲れた。暖かいお風呂にでも浸かって、少し泣こう。そしたらきっと、少しは楽になる。


 でも私は、楽になりたいのだろうか? ううん。私は楽になんてなりたくない。でも、苦しいままは嫌なのだ。




 湧き上がる焦燥感と疎外感。誰からも愛されたことがないというだけで、私はこんなにも苦しい。おかしいじゃないか。おかしいよ。


 昔、高校生のころ、文学が好きな先輩に好かれるためにたくさん名作と呼ばれている本を読んだ。気づいたら私は本そのものに夢中になっていて、その先輩のことがどうでもよくなっていた。だってその先輩は「本を読んでいる自分」が好きなだけで、「本そのもの」が好きだったわけじゃなかったから。先輩は文学を語るのが好きだったけれど、私は文学で泣くのが好きだった。


 別に陰気な性格でもなかった。学生時代はいつでも友達は多かったし、男友達だって常に何人かはいた。小さなことで怒るような短気な性格でもなかったし、自己主張ができない人間でもなかった。時々「どうしたの? 目が死んでるけど」と言われることはあったけど、むしろこんな馬鹿ばっかりの人間に囲まれてずっと目をキラキラさせているのは馬鹿でもない限りできないと私は思う。目に入れたくないものを見てしまったら、目が死んでしまうのは当然じゃないか。


 生きているのが辛い。でもきっと、恋愛とか、愛情とか、そういうのを知ったら、生きる気力が湧くものだと思ってた。人生が一気に楽しくなるものだと思ってた。色んな文学に描かれている女性たちは、皆恋をしているときは楽しげだった。悲しみに打ちひしがれる時でさえ、どこか美しかった。感動的で「自分自身である」ような感じがした。


 私はどうだ? 何にもない。何にもありゃしない。よく「恋ができないのは、ちゃんと探そうと努力してないからだ」と言う人がいるけれど、私はたくさん努力してきたし、出会っても来た。しかし誰にも魅力を感じなかった。鼻息の荒い豚が、綺麗な肌の裏側に隠れているように見えた。だってそうじゃないか。男はみんな「誰でもいい」のだから。セックスを求めている男ならセックスさせてくれるなら誰でもいい。癒しを求めている男なら、癒してくれるなら誰でもいい。


 それで、私を求めてくれる人は? そんな奴はいなかった。私みたいな、ひとりでずっとうだうだうだうだこの世の中の不満を頭の中でぼやくような女を望む人はいなかった。私は私を変えるよう何度か努力したけれど、全て空回りだった。


 頭を使うことをやめることは、頭のいい人間にはできない。私はある意味障碍者だ。現実生活に不自由を感じてる。考えるのをやめたいのに、考えるのをやめることに、言いようのない吐き気を感じる。努力をしないことに、罪を感じる。




 私は、惨めだ。考えていない人間、幸せそうな人間を馬鹿だと見下しているのに、その裏側で羨ましがっている。羨ましがっているのに、欲しいと思えない。私は、心のどこかでこのまま苦しんでいたいと思っている。苦しんでいたら、きっと誰か、本当の意味で素敵な人が迎えてに来てくれると、ティーンエイジャーみたいに考えてる。あぁ。不愉快だ。





 実際に起こっていないことを思い描くならば、朝がいい。頭が少しだけぼんやりしていて、陽気で、太陽がまぶしい。そんなときなら、そんな場面なら、少しくらい現実離れしたことが起こったとしても、違和感なく受け入れることができる。それが「新しい当たり前」であるかのように感じられる。


 そんなことを頭の中で考えながら、私は朝7時、ジャージを着て外に出た。空は透き通るような白い青で、雲はまだらにつぶつぶと点在していた。太陽は楽し気に輝いていた。空気は冷たく、頬を引き締めるようだった。生きているという実感があった。何かが起こりそうな気配があった。自然と頬が緩んだ。こういう朝があるならば、生きている価値があるかもしれないと思ったのだ。


 何も起こらないのは分かってる。それでも、この気配だけで今日一日を乗り切ることが出来そうだと思った。何時から仕事を始めようとか、そういう憂鬱なことは考えないように、気を付けて思考を泳がせる。あぁ、今横を通り過ぎていったのは黒のメルセデス・ベンツ。昔大学の男友達に乗せてもらって、親が持っている普通の日本車より遥かに揺れないことに驚いたのを思い出した。いい思い出だ。


 小学生が登下校の集合場所でつまらないそうに集まっている。ほとんど会話もなく、一人はしゃがみこんで蟻をいじめている。私も忘れてしまってはいるが、きっと十数年前はこういう生活を送っていたのだ。懐かしい。何を思って生きていただろう? 将来に希望はあっただろうか? 今やもう思い出せない。当時、日記でもつけていたら面白かったかもしれない。


 少し走ることにした。私は気が向いたらジョギングをすることにしている。だいたい週に二度くらいは、走っていると思う。距離はまぁ、その日の気分によって違うけれど、だいたい一度走り始めると止まることが億劫になって、2キロくらいは最低でも走る。


 いい天気だったから、いつもよりペースが早かった。少し後ろで、年齢の近い女性が同じように走っているのが分かった。カーブミラーにちらっと映ったのだ。私は小さな親近感と嬉しさを感じた。疎外感を少しだけ忘れられた。


 この気持ちのいい朝に、ひとりきりで走る若い女が二人もいる。しかも偶然、そばを走ってる。その事実がたまらなく嬉しかった。私だけじゃないのだと思った。


 私はその人のことを知りたくなかった。もし知ってしまったら、きっとがっかりする。私が期待しているような、私によく似た人ではなくて、とても明るくて幸せそうな人であるような予感があったからだ。


 でも今私は、明るくて幸せではないのか? こんな気持ちよく走れているのに、自分を不幸だと思うなんて、惨めだと思うなんて、馬鹿げてるじゃないか!


 そう思った瞬間、ふくらはぎに嫌な感じがした。でも立ち止まらなかった。するとすぐに、鋭い痛みが走った。鋭い痛みが走って、私は「ぎゃん」という野太い悲鳴を上げながら、地面にうずくまった。結構なスピードで走って、いきなり膝をついたから、すりむいた。しかし擦りむいたときの痛みなど全く感じないほどに、こむら返りの痛みが激しかった。


 肉離れ? いや肉離れじゃない……ただのこむら返り。でも、痛い! 久々のことだったけれど、元々そういう癖がついていたから、それほど怖くはなかった。でも痛くて、うずくまって「うーうー」とうめいた。


「こむら返りですか?」


 綺麗な声だった。


「は゛い」


 私の声は汚かった。その人の手が、優しく私の痛んでいる方の足を延ばし、つま先を裏側から押してくれた。痛かったけれど、気持ちよかった。


「ちょっと自販機探してきますね」


 女性は私から手を離し、元気よく走っていった。私は近くのベンチに座り、痛みと感謝で茫然としていた。


「持ってきました」


 ペットボトルに入ったスポーツドリンクを受け取った。女性は言わずもがな、お金はいらないと目で言っていた。それについて言うのが社会的な礼儀なのだろうと思うのだけれど、そんな礼儀は野暮だと、その女性の強い目が言っていた。


「ありがとうございます」


 私はそれを遠慮なく飲んだ。体が喜んでいるのを感じた。喉が渇いていたことに気付いて、より嬉しかった。




 呼吸が落ち着いてきて、痛みも楽になってきたので、立ち上がってみようと思ったが、少し足に力を入れると酷い痛みが走った。どうやって帰ろうか、と思った。財布も持ってきていないので、タクシーを呼ぶわけにもいかない。


「ご自宅、どの辺ですか?」


 一キロほど離れていた。


「お節介じゃなければ、肩貸しますよ」


 さすがにそれは申し訳ない気がした。でも申し訳ないと思うこと自体が、この年下の美しい女性に対して失礼な気がした。この人は、誰かの役に立てることを幸せと思うタイプの人だ。だから、そのチャンスを奪うこと自体が、間違ったことなのではないか、とそう感じたのだ。それは私の都合だろうか? いやでも……こんなに綺麗な目をしている人に、そのような疑いを抱くこと自体が……


「これも何かの縁ですし」


 私が迷っていると、柔らかい笑みで私の手を握った。暖かい手だった。もしかして、この人が、ずっと望んでいたような素敵な人なのではないか、と思った。女性だけれど、もはや性別なんてどうでもよかった。こんなに綺麗で、優しくて……




 浅川理知という名前の彼女は、私より7つも年が離れていた。私はまずそれに驚いた。まだ高校三年生! それなのに、こんなに大人びていて、人の痛みがわかるなんて、きっととても辛い思いをしてきたのだろうと思った。実際、その子は時折びっくりするほど冷たい目をする。論理的な性格でありながら、優しい人なんだと思った。


 この気持ちがただの私の願望であるなんてことは、そもそも彼女に対して失礼なのだと思った。これが、この崇拝にも似た気持ちが、恋という気持ちなのだろうか?


「その、お礼がしたいのでもしよければ連絡先とか……」


 私は家に着いたとき、勇気を出してそう言ってみた。彼女は少し悩むそぶりを見せた後、笑顔で言った。


「分かりました」


 その言葉は、私を信用するニュアンスがあった。彼女は口頭で電話番号を教えてくれた。嘘の電話番号なんじゃないかと一瞬疑ったけれど、もしそうならそれでもかまわないと思った。嫌がられてまで、繋がりたいとは思えない。もし縁があるなら、また会うこともあるだろう。別に、私は誤魔化されたくらいで根に持ったりしない。これだけのことをしてもらったのに、まだ欲しがるなんて、そこまで私は強欲じゃない。拒まれたら、素直に手を引く覚悟はある。




 と言いつつも、ひとりになると不安になる。


 焦る気持ちを抑えて、一通り家事をこなして、いつもよりも先に仕事に取り掛かることにした。


 私はフリーのウェブライターをやっている。私はどんな文章でも頼まれれば書くスタイルだったから、はじめのうちは大変だったけれど、顧客から信用を得てからは、むしろ仕事を選ぶだけの余裕ができた。それでも本音でいえば興味もないようなことを魅力的に見せるような文章を書くのは、ストレスが溜まる。本当はもっと、コラムとかそういうのを書きたいけれど、こんな性格のねじ曲がった人間が書くコラムなど誰も読まないというのは、嫌というほど分かっている。大学生のころ二年以上書き続けたが、ほとんど見向きもされなかったのだ。売り込んだりもしてみたが、どうにもならなかった。


「暗いだけで、何の発展性もない。創造性が感じられない」


「論文でも読んでたほうがマシ」


 少々口の悪い友人に読んでもらった時の率直な意見が痛かった。覚悟はしていたが、それでも辛かった。某雑誌の編集者からも似たようなことを言われたし、思い出せるのは首をかしげての苦笑いだけ。


 それから、自分の意見を書くのを諦めて、ただ人が求める文章、需要のある文章を書くことにしたのだ。それはうまくいった。とてもイラつくし、やめられるものならすぐにでもやめてやりたいけれど、私に適性があったのはやはりこの職業なのだろう。なんだかんだ、信用されている。有能だと思われてる。でもそれが何だというのだろう? そんな奴、いくらでもいる。悲しい。




 自分の気持ちとは裏腹に、3時間ほどで二つ頼まれていた記事を書き終えた。まだ午前中。土曜日。誰か友だちと遊びに行きたい気持ちになった。でも、この人と遊びたいという相手はいなかった。


 大学を卒業してからちょっと疎遠になって連絡を取りづらいし、男もなんだか気持ちが悪い。


 高校生……私は高校生のころ、何を考えて生きていただろう? 私はあの子のように、足をつった人が自分の近くで倒れたら、あんなにスムーズに、自然に、まるで元々知り合いだったみたいに助けることができるだろうか? できるわけないじゃん。今だってできないんだから。かわいそうだと思いながら、通り過ぎるに決まっている。


 私なんかがあの子と知り合いになろうとすること自体が馬鹿げてるのだ。たまたま出会えただけでよかった。少しだけ人生が明るくなった。もうそれで十分じゃないか。


 ため息。私は結局のところ、私が私であることに不満なのだ。


 私はなぜまだ生きているのだろう? 悲しい。





 自立。依存。私は依存することが嫌いで、自立した人間でありたいとずっと思ってきた。でも、寂しさは寂しさのまま。希望の光が見えても、それに向かって進むこともできない。


 私がずっと願っていたからか、ちょっとした偶然から素敵な人と出会うことができた。でも出会っただけだった。私はその出会いから、何かを発展させようという気力がなかった。昔から、そんなことができたこともなかった。


 そうだ。私はいつだって、恋愛に消極的だった。自分から動こうという気にならなかった。高校生の時、文学にハマったのだって、本を読むだけなら別に普通のことだから、という言い訳もあった。そんなことばかり考えていたような気もする。私はどこまでも、自分から動くことをしてこなかった人間だ。特に恋愛に関しては。


 仕事だって、結局のところ周りの人たちのアドバイスに従っただけだった。コラムを書きたかったのは自分の意志だったけれど、結局ネットで検索して、普通コラムニストはどのようにしてコラムニストになるのか、みたいな記事を読んで……そして私は今、そのようなネットで検索される、迷える受動的な人間が安心して従えるような記事を書くのを職業としているわけだ。なんて皮肉なことだろう。


 


 馬鹿馬鹿しい。私だって、ちゃんと前を向いて生きてきた。勇気がいる場面で、ちゃんと勇気を出してやってきたことだってある。私はちゃんと自分の能力で稼いでいるんだし、もっと自信を持っていい。やりたくない仕事だけど、でもそれが今の自分に向いているのだから、うだうだ言っても仕方ないじゃないか!


 浅川理知。あの子との出会いだって、無駄にしない。だってそうじゃないか。あの子は、私のことを分かってくれた。分かってくれた目をしていた。理屈じゃなくて、そうだって分かった。見たことのないくらい強い目をしていた。私はあの子のことがもっと知りたい。




 でも出会ったその日のうちに連絡するなんて……なんか「あんまりにも孤独な人」と思われないだろうか? いやでもそれは事実なわけだし。そもそも高校三年の冬といえば、大学受験のシーズンじゃないか。忙しいに決まってる。そんな時期に邪魔してしまっては悪いのではないか? ……大学受験の勉強を教えてあげることとかできないかな? 私はこれでも結構勉強はできる方だったし、いい大学を出てる。いやでも……


 ええい! 電話をかけてしまえばいいことじゃないか! 今更傷ついたって、なんてことはない。最初から何もなかったんだ。だったら投げやりにでも、進んでみるしかない!


……っていうかそもそもつながるかどうかも怪しいし。




 私は電話番号を入力した。かつて、しつこいナンパ師に嘘の電話番号を教えたことを思い出した。悪いことをしたと思った。


「もしもし。浅川です」


「あ! はい。もしもし! 新崎です」


「今朝のお姉さんですね。ふくらはぎ、大丈夫ですか?」


「え、ええ。平気です。あの、それで、迷惑じゃなかったですか? 今……時間とか」


「平気ですよ。これからちょうどお昼ご飯を作ろうかなぁと思ってたところです。勉強もひと段落して」


「受験生ですもんね」


「えぇ」


 会話が途切れて、何を言ったらいいか分からなくなった。頭が真っ白になって……ぼんやりと、この感じ、大学を卒業して以来だなと思った。


「もしよければ、昼食、一緒にどうですか?」


 私は驚いた。向こうから誘いがかかってくるなんて!


「え、ええ! もちろん! でも、いいんですか?」


「たまにはよく知らない方と食事をするのもいいかなぁと思うんです」


「ありがとうございます」


 私は大げさにお辞儀をしながら言った。我ながら馬鹿みたいだと思ったけれど、嬉しくてどうでもよかった。


「大げさですよ」


 まるでそんな姿の私を見ているかのように、呆れて笑いながらそう言った。そして、最寄り駅(おそらく住んでいる場所は近いのだろう)で十一時半ごろに待っている、と告げられた。




 世界が色づいた気がした。とてもワクワクしている自分がいた。こんな気持ちは久しぶりだった。初めて大学に行った日のことを思い出した。こんな風に、不安と期待と喜びがいっぱいだった。


 助けてもらった女子高生とお昼ご飯を食べに行くだけなのに、何をそんなに浮かれているのだろう? それでも嬉しいものは嬉しい。こういうのは理屈じゃないのだ! とても嬉しい……生きていてよかったと思う!





「朝方ぶりですね」


 彼女は私より少し先についたようだった。よく磨かれた白いスニーカー。黒のスキニーにベージュのトレンチコート。スッキリしていて大人っぽく、とても高校生には見えない。少しだけ化粧もしているようだ。


「うん」


 私の方が緊張していて、どちらが年下か分からないような状態だった。


……自分に自信を持ちたいけれど、でもそんな必要もない気がする。それに朝の失態を考えれば、今更虚勢を張ることなんてできもしなかった。


「お店、どこにします?」


 一応、お礼という名目で来たのだから、少し奮発しようと思っていた。近場のホテルレストランの予約でも取ろうかと思ったが、どうやら予約なしでも少人数なら平気そうなので、浅川さんの意見を聞いてからにすることにしたのだ。


「○○ホテルのレストランにしようかなぁと思ってるんだけど、いいかな?」


「えぇ。もちろんです」


 一切ものおじしない態度から、彼女がずいぶん裕福な家庭で育ったのが察せられた。それに、年上の人からご馳走になることも、これが初めてではないのだろう。身のこなしから緊張は一切感じられなかった。


 今日という一日を楽しもうという明るい雰囲気があって、私もそれにあてられて明るい気持ちになった。




「新崎さんは、あぁして外を走るのは日課なんですか?」


「いや、時々気が向いたときだけで……あー恥ずかしいなぁ。あんなに盛大に足吊ることなんて、すごい久しぶりで」


「あはは。ちゃんと準備体操とかしとかないと、危ないですよね」


「うん。これからは気を付けることにします……」


 何気ない会話が楽しかった。


「浅川さんは、どこの大学目指してるの?」


「京大の理学部に入るつもりです」


 入るつもり、という言葉に自信が感じられた。『受ける』とは言わずに、『入る』というのだから落ちることは少しも考えていないようだ。


「浅川さん、やっぱり勉強すごいできるんだね」


「まぁ、得意です。コツコツ積み重ねるのは性に合ってるので」


「朝のジョギングと同じで?」


「はい。勉強もジョグも筋トレも、大体似たような感じですね。慣れるまでは少し辛いけれど、慣れてしまえば習慣です。それで成果が出るんだから、嬉しい」


「なるほどなぁ……いたって正論だぁ」


 やっぱ頭がいい人は違うなぁと思った。そのぼんやりと頭に浮かんだ感想があまりにも凡庸で、自分に苦笑いした。




 もともと私は人との会話にあまり緊張をしない性格だ。大学の同級生の知り合いに、結構偉い人がいたりして、そういう人と二人きりで食事をしたこととかもある。もちろん多少はドキドキするし、怖くなったりもする。でもだからといって声が震えたり、言っちゃいけないことを言ってしまったりはしない。私はなんだかんだ、本番に強い性格で、開き直ってさえしまえば、何事も大体うまくこなせる。はずなんだけど。


 おいしい食事にのんびりとした広い空間。気づいたら、色々なことを口走っていた。


「実は本当にそれで、寂しくて」


 ほとんど浅川さんの方からは何も語られなかったのに、私は勝手に自分の口が、心が喋ってしまっていた。浅川さんは私を真っすぐに見つめ、受け入れてくれる。なぜだろう? この人には、自分が言うはずがなかったことまで、全て口に出してしまう。


「危ないのは分かってても夜中に一人で散歩したりとか……私ちょっと自暴自棄になってるところがあって。でも違うの。別に……別に本当にそんなこと望んでるんじゃなくて、ただ、なんだか、逃げ出したい気持ちになる」


 浅川さんは品よく微笑んでいる。両手をテーブルの上で休ませながら、私の言葉に時々頷いてくれる。


「どうして、浅川さんはこんな私の言葉を、そんな真剣に聞いてくれるの? 今日会ったばかりなのに……」


「性格です。全部を与えることはできませんけれど、自分が損なわれない範囲で、自分が変わらない範囲なら、私はできる限り目の前で起きたことに目をそむけたくない。出会った人に尽くしたい。それが私の喜びなんです。生まれ持った性分なんです。自分でもときどき厄介だと思いますけれど、でも、私はそんな自分が好きなんです」


 私は、嬉しくてため息をついた。首を振って、あぁこの世にはこんな素晴らしい人もいるんだ、と心の中で呟いた。


 しばらくお互い静かに食事をして、食べ終わった後、私は冷静になって尋ねてみた。


「その、私はこれからどうしたらいいのかな。聞かれても困ると思うけど……」


 浅川さんは少しだけ悩むそぶりを見せた後、自信ありげに頷いた。


「新崎さん。人生は辛いことや苦しいことがたくさんあります。私だって、生きるのが嫌になることもしょっちゅうあります。でも、別に生きるのが嫌になったって、生きるのをやめるわけじゃありません。せっかく生きてるなら、少しでも自分の気持ちに忠実でありたいと、私は思ってます。私に分かるのは、新崎さんが素敵な方だということだけです。でも、自信を持って選択するために必要なのは、自分が素敵な人間であるという自覚以上に、役に立つものはないと思います。新崎さんは、自分の気持ちを素直に人に伝える才能があります。自分の言いたいことをはっきりと言うことができる人は、稀です。特に辛かったことや悲しかったことを、落ち着いて話すことができるのは、その人が立派な人生を歩んできた証です」


 私は泣きながら笑ってた。自分よりずっと年下の女の子に、こんな風に慰められて、少しだけ情けなかったけど、でもそれ以上に嬉しかった。ずっと欲しかった言葉だったように思えた。


「私、大学生の時はコラムニストになりたかったんだ。でも、誰にも認めてもらえなかった」


 浅川さんは真っすぐ私を見て頷く。余計なことは何も言わない。


「それで、人に言われたような、人が求めるような文章を書いて、お金を稼ぐことにした。稼いでる。でもそれが嫌で、私はこれからどうすればいいのか分からない。ほんとは、自分の気持ちを正直に書きたい。伝えたいことがたくさんある。でも伝わらない。届かない。私、どうすればいいのかな? また、挑戦すればいいのかな?」


「素直に書き続ければ、きっと誰かには届きます。自分の言葉が誰かひとりの心を慰めることができたなら、それで十分ではないですか?」


「ひとりでも……」


 私はずっと、コラムやエッセイとか、自分のやりたい仕事をして、稼いで……自分の好きなことをして、楽に生きていくために……でも、本当にそうだったのかな? そんなことのために、私は頑張ってきたのかな? それで、私のこの心の空白は埋められるのかな? いいコラムを書いて、人に褒められたくらいで?


「なんだか、分からないや。ひとりで考えないと。あ、でも……その、もし私がコラムを書いたら、浅川さんは読んでくれる?」


「読みます。書けたら、メールか何かで送ってください。でも、あれですよ? 私、お世辞とかあんまり言えないんで、そういうのは期待しないでくださいね」


 心がすっと軽くなったような気がした。涙を拭いた。


「まだわからないけど、でもきっとやると思う。その時は、お願いします」


「はい」





 私はその日、素敵な女の子に出会った。私が前を向いてひとりで歩くための道を示してくれた。私は今日のことを死ぬまで忘れないだろう。いや、忘れてしまわないようにするのだ。


 たとえ挫折してしまったとしても、彼女の優しさだけは本物だ。その誠実さだけは本物だ。だから、私も私に対して本当の意味で、誠実になろう。本当の意味で、優しくなろう。




 夜。静けさが心地よかった。月がまぶしかった。明日を喜んで迎えられる気がした。


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