第5話 戸隠村
気がつくと、蒼頡と与次郎は鳥居の前で倒れていた。
辺りはまだ夜が明けたばかりの夏の陽射しに包まれ、
二人は同時に目を覚まし、ゆっくりと地面から起き上がった。
鳥居を見ると、奥に小さな
天に伸びていた階段はすっかり消え去り、夜明け前に漂っていた妖しく幽寂であった山の様子も、今は全く感じられなくなっていた。
与次郎が蒼頡に目をやると、蒼頡は身体に何やら違和感を感じ、ごそごそと、
与次郎が、意識が戻ったばかりのまだ冴えない頭でその様子をぼんやりと眺めていると、やがて蒼頡が懐に入っていた
与次郎は、蒼頡が懐から取り出したものを思わず目で追い、凝視した。
その手には、蒼頡の右手より一回り大きい、実がぱんぱんに熟した立派な梨が握られていた。
気を失う前、蒼頡が
与次郎が、
「……それは……」
と、思わず声を漏らした。
蒼頡は、
そして、
「……
さあ、参りましょう!
鬼女が現れる、
と、与次郎に向かって爽やかな笑顔で、そう言ったのであった。
◆◆◆
────────そこは、
一寸先も見えない。
────光が無い。
その
女の寝息である。
岩窟の奥にある
その女が、鋭い感覚で遥か遠くにある気配に気づき、暗闇の中で突如、"はっ"と、目を覚ました。
「……来た」
闇の中の女が、ぼそりと呟いた。
女の心臓が、どくん、と大きく跳ね上がった。
「……来た……来た、来た、来た……!
あの男が、来た……!!」
女は打ち震え、興奮し、声を上げた。
暗闇の中、女は自分の顔が熱く紅潮しているのがわかった。
「……ふ……ふふふふ…………。
────……あっはっはっはっは!!
……来た……あの男が来た……!
あぁ……。
嬉しや……!!」
女は一人、歓喜した。
「すぐ支度をして、迎えに行こうぞ」
女は闇の中でむくりと起き上がり、全身からぞわぞわと沸き立つような熱い高揚を抑えきれないまま、待ち焦がれていた男の元へ向かうための準備に、急いで取りかかったのであった────。
◆◆◆
蒼頡と与次郎は、
蒼頡と与次郎が村の中に足を踏み入れると、村内は しん……、と不気味に静まり返り、外には誰一人いなかった。
村の中に建っている家々には全て大きな分厚い木の板が何枚も打ち付けてあり、外部からの侵入を
「…………外には誰もおりませんね」
与次郎が、辺りをしっかりと警戒しながら言った。
「……うむ。無理もない。
昼でも鬼が出るのだからな」
蒼頡がそう言うと、やがて村の奥の方から、
「……おぎゃあ……おぎゃあ……」
という、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
蒼頡と与次郎は二人揃ってその声に"はっ"と気づき、赤ん坊の泣き声のする村の奥の方に向かって、脇目も振らず急いで村の中を駆けて行った。
村の奥にずんずんと進んでいくと、二人はやがて村の中央に位置する集会所の広場に辿り着いた。
その広場の真ん中に、蒼頡の身長ほどの高さの箱型の木の台があり、その上に、白い布で包まれたひとりの赤ん坊が、寝かされていた。
赤ん坊以外、広場やその周辺には、村人は一人もいなかった。
台の上の赤ん坊は、
「……おぎゃあ……おぎゃあ……」
と、泣き続けていた。
蒼頡と与次郎は、赤ん坊を見るやすぐさま台の
まだ生まれてひと月ほどの、真っ白い肌をした、女の赤子であった。
与次郎が、赤子を抱き上げた。
「…………これは…………」
蒼頡が赤子を見つめ、直後、なんともいえないほどの、悲しい顔をした。
与次郎は、顔をぱっと上げ蒼頡の表情を見ると、周囲をぐるりと見回し、
「……誰か! 誰かおりませぬか!
この赤子をお返しいたします!!
この子を、鬼の犠牲にはいたしませぬ!!」
と叫んだ。
この赤子が、鬼女の生贄として
辺りは、しん……、と、静まり返ったままであった。
「……誰かおりませぬか! 鬼女を退治しに参りました!
江戸からやってまいりました陰陽師でござります!
これ以上、犠牲者は誰一人増やしませぬ!
誰か! 赤子をお返しいたします!」
蒼頡も、周囲をぐるりと見回しながら叫んだ。
すると、全く人の気配が感じられなかった家と家の間にあった木の陰から、突如一人の女が、震えながら現れた。直後、女は広場中央にいる蒼頡と与次郎の元へ、真っ直ぐに駆け寄ってきた。
蒼頡と与次郎は、突然現れたその女の姿に驚き、二人同時に女の顔をぐっ、と見つめた。
身なりから、女はこの村の村人であろうと、与次郎は思った。
女は途中でぴたりと足を止め、蒼頡、与次郎、赤子から少し離れた位置に立ち、打ち震え出した。
その
与次郎は目を見開き、泣いているその女の顔をふと、思わず優しい眼差しで見つめた
「……この赤子の母親でござりますか……」
と問いかけた。
────────直後であった。
「……与次郎。
────違います」
蒼頡が全身から鋭い気を放出し、警戒心を
蒼頡の様子を見た直後、与次郎は、“はっ”と気がついた。
女は、赤子を一切、見ていない。
異常なほど、女は蒼頡を凝視し続けている。
「……私を呼んでいたのは、お前だな」
蒼頡が女に問うた。
すると、その言葉を聞いた女の顔が徐々に青白くなり、同時に女の全身から、血生臭く吐き気がするほどの湯気のような陰湿な気が、じわじわと漏れ
蒼頡の顔を見つめたまま、涙を流していた女がやがてにんまりと、不気味に笑った。
その笑った唇が、頬の
目は血走り、瞳がみるみる縮まり、女は
「……ふふふ……ふっふふふ……。
あっはっはっはっはっは……!!
……あぁ……嬉しや。
想像以上の……。
────
裂けた口から長い舌をでろりと出し、蒼頡から一切目を離さないまま、鬼女は満足そうな声で、ぼそりと、そう呟いたのであった。
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