第6障

第1話 夏の夜


 宵の薄いすだれしに、姫蛍ひめぼたるが庭のあちこちで明滅している。


 夜空には無数の星々が一つ一つ瞬き、特に光の強い三つの星が、昼の暑さが残る宵闇の空に大きな三角の形を作って、燦然と輝いていた。


 蚊遣り火の残り香がふわりと漂う中、団扇をゆったりと扇ぎながら、蒼頡はまるで今、夜空に輝いている星の幾つかがそのままこの山奥の屋敷の庭に落ちてきたかのような光景を、大広間に備え付けられた蚊帳かやうちから、じっと眺めていた。


 静かな蛍火が照らす薄明かりの中、どこからともなく、


“ちりりりりりり”

“りーりー”

“ぴりりりりりり”


という微かな虫のが、心地好く耳に響いてくる。


 蒼頡の横に静かにしていた与次郎は、簾越しに見えるその庭の美しい光景に暑さも忘れて感動し、言葉を失っていた。



 蒼頡と与次郎が特に言葉を交わすこともなく贅沢な夏の夜の時を過ごしていると、大広間にいる蒼頡の後ろに突如、人の気配がした。


 穏やかな夜に似合わぬ突然の空気の変わり様に、与次郎が思わずぱっ、と後ろを振り返りその気配を確かめると、そこに、真夏にも関わらず袖頭巾そでずきん目深まぶかに被った線の細い女が、音を一切立てず、幽鬼のように、蒼頡の真後ろに佇んでいた。

 与次郎はぎょっと驚き、即座に立ち上がって、身構えた。


「────何者だ!」


 与次郎は眉間にぐっ、と皺を寄せてそう叫び、静かな夜の空気を裂いた。


 袖頭巾の女は与次郎の問いに口を固く閉ざし、もくしたままであった。

 頭巾のせいで目が隠れており、女の顔は口元しか見えない。

 星明かりがあるとはいえ、与次郎は夜闇よるやみの中で頭巾を目深まぶかに被る女の表情を、全く窺い知ることができなかった。

 ひっそりと静かに立ち尽くす女の姿がなんとも妖艶で、不気味であった。


「……今宵、現れるだろうと思うておりました」


 蚊帳の内で座したまま左横を向くと、後ろに佇む女に向かって蒼頡が言った。


 与次郎が蒼頡をちらりと見やり、もう一度、女の様子をぐっと窺った。

 頭巾の女は無言のままであった。


 蒼頡は、


「与次郎。警戒しなくても大丈夫です。

 与次郎は、初めて会いますね。

 名は、李阿りあといいます。私の式の一人です。

 易者であり、李阿の占いはよく当たるのですよ」


と、与次郎に向かって言った。


 すると今まで口を固く閉ざしていたその袖頭巾の女が、


「……蒼頡様の方が、よく当たります」


と初めて口を開き、ぽつりとそう呟いた。


 李阿がそう呟いた瞬間、与次郎は先ほどまで険しかった表情をぱっと緩め、


「……そうでござりましたか!

 大声を出してしまい、申し訳ござりません。

 私は、与次郎と申します」 


と、李阿に向かって慇懃に言った。


 李阿は目元が頭巾で隠れており、やはり表情がいまいち読めなかったが、与次郎の方を向き、無言のまま、しばらく動かずにいた。

 与次郎に向かって何かを言いたげな様子にも取れたが、やがて李阿は蒼頡の背中の方にもう一度向き直り、


「……蒼頡様。

 すでに御自身でお気づきかとは思いますが……どうしても気になりましたので、差し出がましくも御忠告だけはと思い、こうして、出て参りました」


と、蒼頡に向かって言った。


 蒼頡がゆっくりと後ろを振り返り、李阿に向かって居直ると、


「うむ。私のために、有難う」


と、にこにこと爽やかな笑顔を向けながら礼を言った。


 李阿は、蛍の光が散らばる幻想的な庭を背にした蒼頡の表情を、目深まぶかに被った頭巾の隙間からしばらくじっ……と見つめた。


「……やはり、蒼頡様。

 御顔おかおを見て、確信致しました。


 蒼頡様に、女難じょなんの相が出ております。

 その女難の相から、さらに死相しそうが、繋がって出ております」


と言った。


 思いがけぬ李阿の言葉に、与次郎は初めうまくその言葉を理解できていなかったが、直後驚きの表情を浮かべ、蒼頡の顔を思い切りぐんっと凝視した。

 蒼頡は暗闇の中笑みを絶やさず、李阿を見つめ、黙したままであった。



「……り、李阿殿……!

 それはどういうことなのでござりますか」

 与次郎が李阿に聞き返した。


 李阿は、与次郎の問いに答えるかのように、


「女難の相でござります。

 このひと月ほどは、蒼頡様……。

 見知らぬ女には一切、うてはなりませぬ。

 その女が蒼頡様を死に至らしめると、御尊顔ごそんがんに出ております」


と言った。


「……うむ」

 蒼頡が、頷いた。



「李阿、有難う。

 危険を報せる為にわざわざ出て来てくれたこと、感謝いたしますぞ」

 蒼頡が、李阿に向かって再び礼を言った。


「……しかし、困りましたな!

 ひと月も女性に逢えぬというのは」


 蒼頡は李阿と与次郎に向かってそう言うと、あははっ!と、爽やかに笑った。


 早鐘のように鳴り響いてくる心臓のどくどくとした嫌な音を、与次郎はそれまでその身に痛いほど感じていたが、蒼頡のそのたのしそうな様子を見て、少しだけ、心が軽くなったのを感じた。


 すると、


「……これはまたなんとも、が悪いところに来てしまったな」


と、中庭に出る広縁ひろえんから声がした。

 蒼頡と与次郎がぱっ、と後ろを振り返ると、蚊帳かや越しの薄いすだれの向こう側に、男が立っていた。

 縹色はなだいろほうを着た、品のある男であった。


「……泰重やすしげ殿!」

 蒼頡が、男を見て声を上げた。


「よう! 蒼頡。夜分やぶんに突然すまぬな。

……い夜だな」

 泰重が、爽やかに言った。


「かような時間に、どうされたのですか」


 蒼頡はすっ、と立ち上がり蚊帳の外に出ると、泰重をすだれの中にいざないながら、そう問うた。


 泰重は蚊帳の内に素早く入り、蒼頡の前に座すと、


「……いや……。

 来て早々急な話で申し訳ないが……。

 実はまたしても、凶事が起こったのだ。


 場所は信州、戸隠村だ」


と言った。



「……しかも今回は、蒼頡。

 おぬしが絡んでおる」


 泰重が、続けて言った。


「……私でございますか」


 蒼頡が、全くぴんときてない様子でそう言った。



「そうだ。

 戸隠山の伝説は知っておるか」

 泰重が、蒼頡に聞いた。


 蒼頡は、


「はい、勿論でござります。

 遥か昔、天之田力雄神あめのたぢからおのかみ天岩戸あめのいわとをその地まで投げ飛ばし、戸隠山という名がついたのでございましたな」


と、そう答えた。




────日本神話である。

 弟である須佐之男命すさのおのみことが暴挙を奮い続けたことで、太陽の神、天照大御神あまてらすおおみかみいかり、その身を隠したとされる洞窟・天岩戸あめのいわとの伝説である。

 太陽神が身を隠したその洞窟を、天之田力雄神あめのたぢからおのかみが、磐戸いわとから天照大御神あまてらすおおみかみの手を取って引きずり出したのち、二度とその磐戸に隠れることが出来ないよう、その洞窟を投げ飛ばしたとされている。

 その磐戸が、戸隠山である。





「────うむ。

 それも一つあるが……。

 他にも、戸隠山には伝説がある」


 泰重が言った。



「……紅葉くれはですか」

 蒼頡が、ぽつりと言った。


 泰重が、ゆっくりと頷いた。




────戸隠山にはもう一つ、鬼女おにおんな紅葉くれはの伝説がある。

 子どもに恵まれなかった会津の夫婦、笹丸と菊世は、第六天魔王だいろくてんまおうに子宝を祈願し、一人の娘を授かった。

 両親はその娘を呉羽くれはと名付け、大切に育てた。


 やがて呉羽くれはは美しく成長し、琴の名手となり、その紅葉くれは」と名を変え、豪農の息子に見初められるなど、評判の美女となった。

 しかし、紅葉くれはは第六天魔王から妖術を会得し、自身の分身を作ってそこに嫁がせ多額の婚礼資金を持って逃げるなど、様々な悪事を働くようになった。

 その後、寵愛を受けた平経基たいらのつねもとの正妻を呪術によって呪い殺そうとしたため、信濃国戸隠に追放された。

 初めは心を入れ替え里の人々の面倒をよくみた紅葉くれはであったが、次第に華やかな生活が恋しくなり、心がすさんでゆき、やがて乱行が酷くなった。

 ついに、華やかな都、京に上るため仲間を率い、軍資金を集めるため、夜な夜な村を襲うようになった。

 そこで、九六九年安和二年七月、平維茂たいらのこれもちが、冷泉帝れいぜいていにより信濃守しなののかみに任命され、鬼女討伐を命じられた。

 第六天魔王の加護を受けている紅葉くれはに苦戦しながらも、最後は降魔ごうまの剣によって、紅葉くれはの首を見事、維茂これもちは討ち取ったのであった。




「────その紅葉くれはが、この時代に、再び蘇ったかもしれぬのだ」


 泰重が言った。



「……どういうことでござりますか」


 蒼頡が、泰重に聞いた。


 泰重は一呼吸置くと、話し始めた。



「……戸隠村に、鬼が出たのだ。

 女の鬼だ。

 四日前から突如、山の中から一日に二度、村に現れるようになったそうだ。

 明るいうちに村の人間を一人さらっていき、攫った人間をその日の内に山で喰い、日が沈んだ後、再び村に下りてきて、その喰った人間の着ていた衣服や骨などの残骸を村の目立つ所にてて、山に帰って行くのだ。

 その山が、鬼女が出てから突如、紅く染まり出したそうだ。

 真夏のこの時期に、だ。

 村の者達は、あの伝説の鬼女、紅葉くれはが蘇ったのだと、騒ぎ立てている。


────その鬼女が、初めて村に現れた次の日。


 三日前の昼に、村人達に向かって、そなたの名を口にしたそうだ」



「……私の名を、でござりますか」

 蒼頡がそう問うと、泰重は頷いた。



「鬼女は、こう言ったそうだ。


「「江戸で名高き陰陽師、ときを、われの元に連れてよ。

 さすれば、村の者達を喰うことはあるまい」」


……とな。


 おぬし、その鬼女に……何か心当たりはあるか」


 泰重に聞かれ、蒼頡は、


「……いえ。心当たりなどは全くござりません」


と返した。


 蒼頡の返事を聞いた途端、泰重はぐっと、真剣な眼差しになった。


「……そうか。

 そなたの名をその鬼に出されてしまっては、もはやおぬしに直接聞くしかあるまいと思いここにやってきたのだが……、知らぬと言うなら、それまでよ。

 着いた早々、まさに今、そなたに女難の相と死相が出ておるというではないか。

 これはなんとも、不穏な空気が漂っている。

 鬼とはいえ、そいつは女だ。

 三晩みばん続けて人を喰ろうている、危険な鬼の女だ。

 そなたにこの一件を任せようかと思うて訪ねてきたが……そのようなそうが出ておるとあらば、ぬしをその地に向かわせるのは、いよいよ危険だ。


 やはり、私が信州に行くとしよう。

 一刻も早く、その鬼女を退治せねばならん。

 すぐ、出立しゅったつするとしよう。


……夜分やぶん遅くに訪ねて、すまなかった」


 泰重はそう言うと、すくっ、と勢い良く立ち上がった。


 泰重がその場を去ろうとすると、


「……お待ちください、泰重殿」


と、蒼頡が泰重を呼び止めた。


 泰重がぴたりと動きを止め、蒼頡の顔を見た。

 蒼頡は、泰重の瞳をじっと見たあと、


「……私が参ります」

と言った。



「なに」

 泰重がそう言うと、


「その鬼がわざわざ私の名を呼ぶということは、きっと何か、過去に私との因果があるはずです。

 人を何人も喰らう鬼とあらば、相当な強さを持っておるでしょう。

 右近将監うこんしょうげんの泰重殿を、危険な目に合わせるわけにはゆきません。

 自分に起きた芽は、自身で摘み取ります。


 私が、その神の山へと、鬼を退治しに行って参ります」

と、大きな瞳をきらりと光らせながら、蒼頡が泰重に向かってそう言った。


 先程から黙って二人の会話を聞いていた与次郎はみるみる顔を顰め、蒼頡の顔をぐっ、と見つめた。


 蒼頡は、与次郎と同じように二人の会話を黙って聞いていた李阿に向かって、


「────李阿。

 すまぬが、せっかくの忠告を聞けぬ私を、どうか許してくれ」


と言った。



「……本当にいのか、蒼頡」

 泰重が問うと、


「勿論でござります。

 急がねば、明日あすまた一人、罪の無い村人が喰われてしまいます。

 早速支度をして、今から出立しゅったつ致しましょう。


……与次郎。すまぬが、私を戸隠まで、連れて行ってもらえるかな」


と、蒼頡が与次郎に向かって訊ねた。


 与次郎は、


「……勿論でござります。……と、普段なら言えるのですが……。

 何やら蒼頡様の身に、不吉な気配が漂っておるように感じます」


と、心配そうに言った。


 すると泰重が、


「……もしや信州に行くと決めた私の顔に、死相が出たか」


と、蒼頡に向かって聞いた。

 蒼頡は微笑んだままそれには答えず、与次郎と泰重に向かって、


「……心配ご無用!

 行くか行かぬかの選択、ここは絶対に行けと、私の勘が、いうております。

 与次郎……。

 私を信州へ連れて行ってくれ」


と、爽やかな笑顔で言った。


 与次郎は不安な表情を浮かべながらも、



「……かしこまりました。

 信州へ、お供致します。

 何があっても、私が全力で、蒼頡様を御守り致します」


と、頭を下げた。



 そうして星降る夏の暑い夜、まだ日が昇らない内に、蒼頡は白狐となった与次郎の背中に乗り、屋敷から飛び出し、鬼女が蘇ったという信州・戸隠村へと、不退転の決意をもって、向かっていったのであった────。


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