第9話 雲外蒼天


 気が付くと、与次郎は寺の本堂前の外の平地に、仰向けになって寝転んでいた。


 与次郎の目の前には、朝のどんよりとした空とは打って変わって、燦々さんさんと照りつける太陽と、澄み渡るほどの青空が広がっていた。


 与次郎が首を少しだけ動かし、寝転んだまま右横を見ると、狡や幽鴳、陸吾、寺の僧侶、小坊主たち、行方不明になっていた夫たちが、寝息を立てながら気持ち良さそうに、りになって同じ平地の上に眠っていた。

 その様子を見た途端、与次郎は瞳をきらりと光らせ、直後、ふー……と、安堵の息を、深く吐いた。


 ふと、左手にある本堂から、護摩を焚くなんともかぐわしきい匂いが、与次郎の鼻腔にふわりと香ってきた。


 与次郎は寝転んだまま、今度は首を反対の方向にころりと転がし、自分の身体の左横にある本堂の方を見やった。


 見ると、本堂に上がっていく五段ほどの短い階段の一番上の段に、白い狩衣姿の蒼頡が、寝ている与次郎達をじっ、と見下ろしながら、胡坐あぐらをかき、そこにしていた。


 蒼頡の顔を見た瞬間、与次郎は頭が次第に冴え渡っていき、全身に新しい血が巡っていくような感覚を、その身に感じ取っていた。



「気分はどうですかな」

 与次郎と目が合うと、蒼頡は与次郎に向かってにこっと微笑み、そう言った。


「……蒼頡様」

 与次郎は蒼頡の笑顔を見て、心がすー……っと軽くなっていくのを感じ、無意識に、蒼頡の名を呟いた。


「────そなたの御陰で、みな無事に帰ってくることができました。

 あのこどもも、無事天に昇ってきました。

 与次郎……。

 感謝します」


 蒼頡が、与次郎の瞳をしっかりと見て言った。


「……あのこどもも無事に……。

 そうでござりましたか……!

 それは良かった」


 与次郎は、蒼頡の言葉に安堵してそう言葉を返すと、寝たまま顔を上に向けて空を仰ぎ、天に向かって再びふー……、と、深い息を吐いた。


 仰向けのまま青空を見つめる与次郎を見ながら、蒼頡がしばらくもくしていると、突如与次郎が、勢いよく、


"むくりっ"


と、上半身を起こした。


 蒼頡は、両瞼りょうまぶたをほんの少し見開くと、与次郎の様子をそのままじっ、と見据えた。


 上半身を起こした与次郎は、蒼頡の顔を再度、ぱっ、と改めて見返し、蒼頡の方に身体を向けると、その場で正座になった。


「……どうなされましたか」

 居直った与次郎に向かって、蒼頡が聞いた。


 与次郎は、ももの上に両手を乗せ、両のこぶしをぐっ、と握り締めると、真剣な表情で、


「……またしても、蒼頡様に助けていただきました。


 蒼頡様の御声が頭に響かなければ、私だけでなく、幽鴳様や狡様、陸吾様や、寺の方々、行方不明の夫たちまで、いよいよ危ないところでございました。


 蒼頡様……。

 かたじけのうござります」


 与次郎はそう言うと、ぎゅっと目をつぶり、下を向き、ももの上の両拳りょうこぶしに“ぐぐっ……!”と力を込めながら、小さく震えた。


「……誠に、己の不甲斐なさに心の底から腹が立ち、悔しい思いでござります……!

 戦乱の世では、己のこの一瞬の甘さが命取りになります。

 己の間違った判断で、仲間だけでなく、無関係の者たちまで“おん”の気に呑まれ、全滅させるところでござりました。

……頭ではわかっておりましたのに、あのこどもの痛ましい過去の記憶を思い起こした瞬間……。

 動けなかったのです。


 わたくしは……。


 わたくしは……」


 与次郎は汗をかき、眉間に皺を寄せ、厳しい表情で目を少しだけ泳がせながら、言葉を探した。



「……ふむ。

────そうして見事、仲間たちを全員無事に救い出し……、

 こどもの魂までも救うて、あるじの元に胸を張って帰ってきたというわけでござりますな」


 与次郎の言葉を黙って聞いていた蒼頡が、与次郎が次の言葉を口にする前に、そう言って、ふふっ、と、爽やかに笑った。


 与次郎が、はっ、と顔を上げ、蒼頡の顔を見た。


「……い、いえ……!

 結果、無事ではありましたが……。

 それは、蒼頡様のおかげでございます。

 蒼頡様のあの御声と、渡してくださったあの木板があったからこそ、私は助けられたのでございます。

 もしまた同じ目にあったなら、蒼頡様がいなければ、わたくしはきっと、今ここにこうしてはおれないでしょう……」



 与次郎がそう言うと、


「……与次郎。

 なぜそんな風に思うのですか」


と、蒼頡が言った。


 蒼頡の言葉に、与次郎は一瞬口を開きかけたが、言葉が見つからず、口を閉じ、黙った。



「あのこどもの魂を、そなたは救ったのですぞ」

 蒼頡が、与次郎の瞳をじっ、と見て言った。


 与次郎は、蒼頡の真剣な眼差しに、思わず、圧倒された。


 

「……あのこどもは……。

 貧しい家庭に生まれ、幼くして父親に日常的に暴行され、つらい思いを遺したまま、この世を去ってしまいました。


 なぜ父親が、そのような仕打ちを自分や自分の母親にするのかが理解できず、そのよどのように溜まっていった心のもやが、知らず知らずのうちに黒い“おん”の気となって、自分が大事に持っていたあの市松人形に、移っていったのです。


 ここからは私の推測になりますが、父親はおそらく、牢人ろうにんだったのではないかと思われます。

 嫁とあのこどもとともに、逼塞ひっそくしていたのでしょう。

 金銭に困窮し、日々の生活に余裕が無くなっただけでなく、武士の誇りをも失ってしまった。

 その心の隙間に潜んでいた苛立ち、不安、心の闇を、家族にぶつけていたのだと思います。

 もしかすると、父親は父親で、どうにもならない現実に葛藤し、苦しんでいたのかもしれません。


 しかし!


 たとえどんな立場にいようと、どんなに苦しいことがあろうと、この父親の行いは決して許されない行為です。

 無抵抗なものや無力なものを、自身の感情の赴くまま一方的に傷つけるなどということは、卑怯で卑劣な、人間として最低の行為です。

 その被害者になってしまった痛ましい、無垢な魂に情を移して、一体何を後悔することがあるのですか。

 戦乱の世は、まさに今、終わりを迎えようとしているところなのです。

 これからは、人情の時代です。

 あの時こうしていたら、こうであったなら、などと悔やんでも、過去はもう変えられません。


 こうして無事にこの場にいる、今この時に、目を向ける。


 それで、良いのです」


 蒼頡がそう言い終わると、与次郎は吸い込まれそうな蒼頡のその大きな瞳から、目が離せなくなった。


 すると、与次郎の背中から声がした。



「……さっきから聞いてりゃあ……。

 俺らの面目丸潰れじゃねえか、与次郎!」


 与次郎が驚いて振り返ると、目を覚まし上体を起こした陸吾が、与次郎と蒼頡の方を見つめていた。




「一人で背負ってんじゃねえ!

 今回は四人揃ってちょいと危ないところだったが……。

 与次郎。


 もっと、頼れ。


 俺達を」



 陸吾のその言葉に、与次郎の心は、まるで今のこの澄み渡る青空と同じであるかのような爽快感に包まれた。



 どこからともなく、


“みーんみーんみーん”

“じーわじーわじーわ”

“ちー”

“じりじりじり”


といった、 蝉の鳴き声が聞こえ始めた。



 燃え盛る、暑い夏の始まりを告げる、大合唱の音色であった。

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