第5話 生霊
障子とともに蹴り倒された
「……ぐ……ぐ……」
と呻きながらぎこちなく身体をくねらせ、その場に立てずにいた。
障子が倒れたため、部屋の中から外に続く
冷たい夜気が
百足女を蹴り飛ばした小顔の女は、先程の嬉しそうな表情から一転し、突如眉をひそめた。
「……ん……?
蒼頡様、もしかして……。
その言葉を聞き、小顔の女の後ろにいた蒼頡が、
「その通りです。
まだ喰い殺してはいけませんよ」
と、優しく言った。
蒼頡の言葉を聞くや、朽葉の顔は一気に青ざめた。
「うわーっやっぱり!
……てことは、そのまま喰えないじゃないですか!
一番厄介な……」
朽葉が言いかけた時、倒れていた百足女が突然むくりと起き上がり、佐兵衛の方を、その
佐兵衛は裸のまま
佐兵衛の
食いちぎられることは無かったが、毒を持つ歯であったため傷口から毒が入り、魔羅は赤黒く腫れ上がっていた。
佐兵衛は背中を丸め、ぐぅっ……、と声にならない声を出し、激痛に耐えていた。
佐兵衛の横には若い
「佐兵衛様! 佐兵衛様!」
と声を掛けていた。
佐兵衛と女中を見た百足女の目が、怪しくぎらりと光った。
直後、強烈な“
女中がその百足女の様子に気づき、がくがくと震えながら
その小柄な身体で、佐兵衛達に向いていた百足女の視界を遮った。
百足女と目が合うと、朽葉はもう一度小さく、ぺろりと唇を舐めた。
朽葉の全身が、じんわりと、淡く金色に光る気に包まれ始めた。
「……蒼頡様。
早くしてくださいね」
朽葉が、蒼頡に言った。
蒼頡は、朽葉に向かってにこ、と笑みを返した。
そしてすぐに、全てを見透かすような大きな瞳を佐兵衛に向け、
すると百足女が、全身に黒い靄を纏いながら、朽葉に向かって、
"……ぐわっ!"
と、勢いよく襲い掛かってきた。
同時に、朽葉もまるでそれに合わせるように、百足女の懐に向かって、びゅんっと飛び込んで行った。
"……どかんっ……ばきっ"
朽葉が、百足女を再び蹴り飛ばした。
百足女は、外の庭に植えられている木の幹に身体をだんっ、と打ちつけ、木の根元にどさり、と倒れ込み、そのまま動かなくなった。
朽葉は百足女を蹴り飛ばした後、倒れた百足女から視線を逸らさないまま、外に続く
朽葉が百足女の相手をしている間、蒼頡は佐兵衛の横に立ち、すっ、と腰を落とした。
そして佐兵衛を見つめたまま懐から和紙を取り出し、既に右手に持っていた筆をとり、その和紙に『
書き終えたあと、蒼頡が口の中で小さく呪文を唱えると、和紙は淡く光った。
和紙が光るのを確認すると、蒼頡は佐兵衛に、
「佐兵衛殿。
この和紙で、その傷口を覆ってくだされ。
一時的ですが、楽になるはずです」
と、優しく声を掛け、痛みで顔を歪ませている佐兵衛に向かって、その和紙をすっと渡した。
佐兵衛は、汗をかきながら震える手で和紙を受け取ると、その和紙で、自分の腫れ上がった
和紙が、淡く光った。
やがて佐兵衛の呼吸が少しづつ、落ち着きだした。
佐兵衛の呼吸が整ってきた様子を見計らい、蒼頡は佐兵衛に、
「佐兵衛殿。
落ち着かれましたら、この場にそのまま仰向けに、寝ていただけますかな」
と言った。
魔羅の痛みが徐々に引いていった佐兵衛は、次第に意識がはっきりとし、真っ裸で和紙を股間に張り付けている自分の
その自分の姿を大いに恥じ、佐兵衛は目を泳がせ、急に態度がよそよそしくなった。
しかし今のこの状況では、ただ黙って、蒼頡の言う事を素直に聞くしかなかった。
佐兵衛は蒼頡に言われるがまま、その場に仰向けに寝転んだ。
「……ん!?」
朽葉が、突然声を上げた。
同時に、
"……ざわり……"
と、周囲の空気が変わった。
……ぞろぞろぞろ……。
……ぞろぞろぞろぞろ……。
……ぞろぞろぞろぞろぞろぞろ……。
不気味な音がした。
やがて、雲に隠れていた満月が顔を出し、中庭を照らした。
蒼頡の後ろで事の成り行きを見守っていた与次郎が、異様な空気に辺りの様子を警戒した後、月明りに照らされた不気味な音のする中庭の方に目をやり、ぎょっとした。
月明りの中、何百、何千という
……ぞろぞろぞろ……。
……ぞろぞろぞろぞろ……。
……ぞろぞろぞろぞろぞろぞろ……。
と、何十本もある足を小刻みに動かし、とめどなく這い出てきていた。
筆の長さほどの無数の百足が、次第に百足女の身体を覆い尽くし、庭を埋め尽くし、凄まじい速さで、佐兵衛の部屋に這い上がってきた。
百足の大群はあっという間に朽葉の足元にまとわりつき、朽葉の身体に上り始めた。
朽葉は百足を振り払いながら、
「ええっ!
こんなには喰えないよお、もおっ!」
と叫んだ。
すると徐々に、朽葉の身体が淡く光り始めた。
やがて、眩しい光に包まれた朽葉の身体が、
“────カッ!”
と閃光を放った。
その衝撃で、部屋の中にいた何百という百足が全て散り散りになり、部屋の外へ勢いよく飛び散った。
光が収まると、その場にいた朽葉の姿が、消えた。
与次郎は一瞬目を疑い、朽葉の姿を探しかけた。
するとそこに、一羽の光る鳥が現れた。
黒い大きな瞳で、
与次郎は、その鳥を見たことがあった。
────
晴れた日の海岸沿いの岩の上でこの鳥がよく歌っているのを、与次郎は見たことがあった。
その姿から、目の前にいる鳥は、
しかし通常の磯鵯とは少し違い、目の前の磯鵯の体長は赤子ほどの大きさがあり、与次郎が知る通常の小さい磯鵯よりも、ずっと大きな身体であった。
「……朽葉殿」
与次郎が、ぽつりと呟いた。
目の前にいる大きな雌の磯鵯は、与次郎の言葉に答えるように、
「ぴーい」
と綺麗な声で一声鳴くと、軽やかにふわりと飛び回りながら大きな羽をばさりと動かし、
一度閃光で散らされ、新たに部屋の中にぞろぞろと入り込んできていた百足の大群が、"ごうっ……"という音と風と共に、またしても庭の外へ大量に吹き飛ばされた。
部屋に入り込んできていた百足は、朽葉が起こしたその突風によって、全て吹き飛ばされてしまった。
ところが、新たな百足がとめどなくわらわらと百足女の口から這い出していた。
一度吹き飛ばされた百足も再び次々に起き上がり、合わせて数を倍に増やして、部屋の中へ大群となって侵入してきた。
それをまた、朽葉が吹き飛ばす。
三度目、朽葉が起こす風を一部の百足の群がすり抜けて行き、与次郎と佐兵衛の方へ、
……ぞろぞろぞろぞろ……
と、向かって行き始めた。
百足が女中の被っている布団に這い上がり、布団を
佐兵衛と与次郎の身体にも、二匹、四匹、六匹……と、上りだした。
やがて佐兵衛と与次郎の皮膚を、百足が
「……ぐっ!」
「……がっ!」
佐兵衛と与次郎は、痛みで呻いた。
(……こ、このままでは……)
与次郎が、無数の百足を見ながら険しい顔で思考を巡らせ、何か対策は無いかと考えた、その時。
何千という百足の動きが、一斉にぴたっ、と、止まった。
「……む!?」
与次郎は、一体何が起こったのか、わからなかった。
すると突然、木の側に倒れていた百足女が、
「……ぎ……」
と、小刻みに震え出した。
口から、百足を出していない。
百足女はぶるぶると震えながら、突如、
「「……ぎ……ぎ……。
…………ぎきぃあああああ!!……」」
と、なんとも恐ろしい声で叫んだ。
与次郎、佐兵衛、女中が一斉に驚き、三人とも一瞬びくりと身体を震わせた。
その叫び声は、弥貴子の声と百足の
◆
蒼頡は、自分の懐から一枚の白い和紙を取り出していた。
その紙は手の平ほどの大きさで、頭、両手、両足があり、人の形をしていた。
蒼頡は、筆をとった。
その
そして、蒼頡は仰向けに寝ている佐兵衛の左手、右手、左足、右足の順にその和紙で佐兵衛を撫でていき、次に頭、そして顔を撫で、最後に、胴体を撫でた。
それを、丁寧に三回繰り返した。
それが終わると、今度はその紙を、佐兵衛の口元に当てた。
佐兵衛の息がかかり、佐兵衛が呼吸するたびに、その白い和紙が、呼吸に合わせて揺れた。
息が三回かかると、
佐兵衛の息で動いたのではない。
和紙の右手の部分だけが、ほんの少しだけ、ぴくりと上に上がったのである。
やがて
蒼頡はそれを見届けると、
「
清めたまえ。
と、その白い和紙に向かって三回唱えた。
三回目を唱え終わった直後、白い和紙がじんわりと、先程より少しだけ強く発光した。
それは、与次郎と佐兵衛が百足にちょうど
◆
奇声を発した後、百足女はぶるぶると震え出した。
百足の大群は、まるで時が止まったかのように、どの百足もその場から全くぴくりとも動かないでいた。
蒼頡が、
「……ぎ……ぎ……」
百足女は、蒼頡が持つその白い人形の和紙を見ながら、ぎこちなく奇妙な動きをした。
「さあ。
そろそろ、その御方から離れなさい」
蒼頡がそう口にした瞬間。
「「……ぎ……ぎいいいあああああ!!」」
と、またしても弥貴子ともののけの声が入り交じったつんざくような叫び声とともに、
”……べりべりべり……っ!”
と、百足女の身体が突然、真っ二つに引き裂かれた。
その真っ二つに引き裂かれた百足女の片割れから、
その弥貴子の姿は薄く、足が消え入ってしまったかのように、透けて見えない。
弥貴子の
そのまま、弥貴子の生霊はものも言わず、無表情で、蒼頡に向かって凄まじい速度で飛んできた。
そして、佐兵衛と書かれたその光る
真っ二つに分かれた百足女のもう一つの片割れは、人間の大きさの、紫色に光る百足の姿に変わった。
その胴体は透けていた。
びゅんっと、巨大な
そして、逃げようとした大百足をいとも簡単にその足で捕らえると、自分の身体の五倍はあるそのぎちぎちと動く大百足を、地面にどうっと、思い切り抑えつけた。
もぞもぞと自分の足の下で動く獲物を見据えると、その小さいくちばしを思い切り広げ、朽葉は大百足の頭を躊躇なく、ばくりと喰らい込んだ。
そのまま大百足の頭を胴体からぶちんっ、と引きちぎって、
磯鵯の姿をした朽葉は、百足のご馳走をそのままゆっくりと味わいながら腹を満たし、念願の味を、じっくりと、堪能したのであった────。
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