第4話 累次


 志代の過去の記憶は、そこで止まった。


 志代の記憶が頭に流れ込んでいた与次郎は、流れが止まり、はっと我に返った。

 意識を現実に向けると、目の前に、腕が何本も生えている裸の女が、蒼頡の出した五色の縄に縛られ、もがいていた。


「……そうか……。

 そうであったのか……」

 与次郎が、ぽつりと言った。


 百足むかでの顔をしているが、このもののけは志代なのだと、与次郎は思った。


 若く美しい女であった。

 純粋でひたむきな性格であったのだ。


 その志代に、弥貴子やきこは嫉妬した。

 自分の伴侶である男が、他の女を想っていた。


 嫉妬が憎悪に変わり、あのような事態になってしまったのだ。


 志代と弥貴子に思いを巡らせ、与次郎は何とも言えず、ただ、悲しくなった。

 志代の心を思うと、まるで自分に起きた出来事のように感じ、同情した。

 おぞましい姿に変わってしまった目の前にいる女が、どうにも哀れでならなくなった。


 与次郎が縛られている女を見つめると、一瞬、その百足女むかでおんなと目が合った。



 蒼頡が、突然叫んだ。


「────与次郎!!

 もののけに同情してはならん!!」



 与次郎は驚いて、びくりと体を震わせた。

 そして、はっ、と気づいた。


 いつの間にか、与次郎の身体の内側から悲しみの青黒い気が靄となって現れ出し、その靄が、吸い寄せられるように、百足女の方へ流れていた。

 百足女が与次郎のその青黒い気を浴びると、“おん”の黒い闇の気がどんどんと膨れ上がり、みるみるその黒い気が、百足女の周りに立ち込め出した。

 黒い気が煙のように増幅し、百足女の全身を覆い尽くし、やがて姿がすっかり見えなくなったと思った、その瞬間。


"……ばんっ"


と弾ける音とともに、千切れた五色の縄が黒い煙の中から飛び出し、散り散りに飛び散った。


 与次郎が(あっ!)と思った直後、黒い煙の中から、縄から解放された百足女が、与次郎に向かって凄まじい速さで突如、


“────どうっ!”


と飛び出してきた。


 あっという間に与次郎に覆いかぶさった百足女は、与次郎を思い切りだんっ、と仰向けに押し倒すと、その鎌のような鋭い二本の歯を、与次郎の左側の首もとに、ざくっ、と勢いよく、突き立てた。


「────! があっ……!」


 与次郎は、痛みで叫んだ。

 与次郎の首に百足女の歯が食い込み、血が流れ、その食い込んだ部分が赤黒く腫れ上がった。

 その赤黒いあざが、与次郎の首元から顎へ、また、鎖骨から肩にまで、じわりじわりと拡がっていった。


「……与次郎っ!!」


 蒼頡が叫び、筆を手に取ろうとした。


 蒼頡が叫んだと同時に、与次郎は、奥歯を"ぎりり……っ"、と強く噛み締めた。

 すると、与次郎の身体が、淡く金色に光り出した。

 その身体は光りながら、次第にむくりむくりと、大きくなった。

 百足女は与次郎の首もとに噛み付いたままであったが、与次郎が段々と大きくなってゆくにつれ次第に自身も上に伸びていき、やがて女の足が、宙に浮く形になった。


 巨大化し強靭な首に変化していく与次郎に、噛み付いた女の歯は耐えきれなくなり、百足女は突然弾けるように、首もとから離れた。

 直後、女はその場に仰向けになりながら落ち、畳の上に背を思い切り"だんっ"、と打ちつけ、一度弾み、倒れた。

 与次郎は部屋の天井いっぱいまで大きくなり、高さ八尺はあろうかという、巨大な白狐になった。

 仰向けに倒れた百足女が起き上がろうとした瞬間、白狐の左の前脚が、百足女の腹を、思い切りどんっ、と潰した。

 百足女はその衝撃で、口から紫色の液体をごぼり、と吐き出した。

 金色の光を身体から放ちながら、白狐の与次郎は百足女に噛まれた毒の痛みに耐えるように、


「……しゅううう……すううう……」


と、深い呼吸を繰り返していた。

 白狐が呼吸をするたびに、白く光る美しい毛並みの胴体も、上下にゆっくりと動いた。


 百足女は白狐の左足の下で痙攣し、その後、動かなくなった。


 与次郎は、左足で踏んでいる百足女を、上から見下ろした。


 百足女の目から、紫色の液体が流れている。

 涙を、流している。


 それを見た瞬間、白狐の目が一瞬きらりと、優しく光った。


 やがて与次郎は左足をそっと上げ、百足女からすっ、と離れた。


 間もなく呼吸が落ち着きだし、一呼吸置いたのち、与次郎は八尺もある白狐の姿からしゅるしゅると小さくなり、ゆっくりと、元の人間の姿に戻った。


 与次郎が人間の姿に戻ると、あの赤黒いあざは、消えていた。

 白狐となって血がたぎり、それが百足の低い妖力を蹴散らしたためであった。


 倒れている百足女、志代の過去の記憶が、与次郎の頭の中にまた少し、流れてきた。


 幼い頃の記憶。


 父と母と、三人でとる食事の時間が幸せであった日々。 


 貧しい農家の生まれであったが、両親に愛されていたこと。


 農家だけで家族三人が食べていくには厳しくなり、縁あって、万太ばんたの元に奉公することになったこと。


 父と母のために、不安にさせないよう笑顔で家を出発し、その道中に泣きながら、不安を抱えながら、一人で江戸のこの立派な屋敷に足を踏み入れた時の記憶。

 初めは要領がわからず、すでに働いていた女中じょちゅうにいじめられた記憶。

 弥貴子に、女中なぞどうでも良いというような、冷たい態度をされた記憶。


 毎日こっそりと泣いていたこと。




────孤独であった。


 父と母の元に、帰りたかった。


 貧しくても三人で支え合って暮らしていた、あの幸せな日々に、もう一度、戻りたかった。



 そんな中、佐兵衛が現れた。


 佐兵衛が来てから、志代の心は変わった。


 佐兵衛だけが、志代に優しく声を掛ける。


 佐兵衛だけが、会う度に志代を優しく気に掛けてくれる。



 佐兵衛のお陰で、つらい日々も、耐えられるようになっていた。


 佐兵衛の顔を見るだけで心が弾み、身体が少し熱を持ち、元気になる。


 志代の心を、佐兵衛だけが救ってくれていた。


 佐兵衛が、志代が生きるための、一筋の希望の光となっていた。




────百足女は、ぶるぶると小さく震え出した。


 与次郎は百足女のかたわらにそっと腰を落とすと、倒れて動けなくなっている女の身体を、ゆっくりと抱き起こした。


「……愛しておられたのですね」


 与次郎が、百足女に聞いた。

 百足女のおぞましい顔が、ふっ、と、志代に変わった。


 志代は目をつむりながら、透明に変わった綺麗な涙をぼろぼろと流し、


「……愛しておりました」


と、絞り出すような声で言った。



「……佐兵衛様を……愛しておりました」

 志代は、もう一度言った。



 与次郎は、志代に向かって、優しく言った。


「志代様。


 もう、我慢しなくていのです。


 自分の気持ちに、ふたをしなくて良いのです。


 佐兵衛様を愛して良いのです。


……弥貴子様を、怨んでも良いのです。」



 それまで目を閉じていた志代が、目をゆっくりと開け、与次郎を見た。



「もうこれ以上、自分を責めてはいけません」



 与次郎のその言葉を聞き、


(……ああ……そうか……)


と、志代は思った。



────おのれを、責めていたのだ。


 父と母のために、屋敷の中の狭い狭い世界で、つらい気持ちを誰にも打ち明けずに、たった一人で耐えていた。


 佐兵衛を愛してはいけないと自分の心に蓋をし────弥貴子を怨んではいけないと、自分を抑えて────佐兵衛を愛し、弥貴子を怨む気持ちを抱いてしまった自分を、志代は責めた。


 自分の本当の気持ちを、本心を、心の叫びを、全て無視していた。


 無視し続けたものが、心の奥底に、よどのように黒く溜まっていったのだ。


 その溜まった黒い淀の気に、百足の妖気が、重なった。




(弥貴子様がこのようなひどい仕打ちをなさるのは……。

……ああ。そうだ……わたしが悪いのだ……。

 佐兵衛様にこのような気持ちをもってしまったことが……すべて、駄目なのだ……。

 そうやって、自分をずっと……。


 そうか……。


 わたしは、自分の本心を否定して────。


 おのれを、責めていたのか……)




「愛して良いのです。志代様。

 怨んでも良いのです。


 おのれの感情に向き合って、受け入れる。


 自分の本心から目を逸らしてはいけません。


 それ以上自分を否定して────、



 ちてはいけません」




 その言葉を聞いた瞬間、志代の身体にまとわりついていた“おん”の気が、勢いよく、


"ぱんっ"


と弾けて散った。


 直後、志代の身体から、浄化された清い気がすうっ、と溢れ出した。

 その気と共に、身体が透けた志代の魂がふわり、と上に昇った。


"……よかった……。

 もうこれ以上……、己を責めませぬ……。


……まことに……。

 有難う……ござりまする……"



 与次郎の頭の中に、志代の声が響いた。


 与次郎の言葉によって縛られていた己の気持ちが解放され、志代の魂はそのまま白く光りながら上に昇って行き、やがて、霧のようにすっ、と、消えた。


 与次郎が抱きかかえていた志代の身体は、何本も生えていた腕がすーっと消え、女の裸の姿からやがて骸骨がいこつとなって、与次郎の腕からもろくぼろりと、こぼれ落ちた。


 与次郎の腕から落ち、畳の上に転がった髑髏しゃれこうべの目から、一匹の百足が、不気味にぞろり、と姿を現した。

 百足の体は透けており、紫色の靄を纏っていた。

 もはやこの世のものではない。


 あの時、志代とともに志代の口の中で死んだ、あの百足であった。


(これは……あの時の百足か)


 与次郎がそう思った瞬間、百足は虫とは思えぬほどの凄まじい速さでするすると部屋を抜け、その場から逃げ出した……かのように見えた。


 今まで何も言わずただじっ、と様子を見ていた蒼頡は突然、


「む!?」


と声を上げ、百足の異変に気づいた。


 蒼頡は、逃げて行く百足を見失わないよう、素早く追いかけた。

 百足は、今度は本物の弥貴子が寝ている部屋へ、まるで引き寄せられるかのように、隙間からするりと入っていった。


「……まさか!」

 蒼頡はそう叫ぶと、弥貴子の寝ている部屋のふすまをすぱんっ、と開けた。


 弥貴子は、部屋の中央で寝ていた。

 その、寝ている弥貴子の全身から、どす黒い靄が出ている。


 百足が、寝ている弥貴子の耳の中へするすると入っていった。


 次の瞬間────。


 黒い靄の中から、ゆっくり、じわりじわりと、腕が何本も生えた弥貴子のおぞましい身体が、現れ出した。


 後から追いかけてきた与次郎が、蒼頡の後ろでそのさまを見るや、

「こ、これは……!!」

と絶句し、驚愕した。


 百足は、今度は弥貴子の生霊いきりょうに、取り憑いた。

 弥貴子から出てきた百足女は、その場で四つん這いになると、襖をばんっ、と突き破って、部屋を飛び出した。


「まずい」


 蒼頡は、懐から和紙と、矢立やたての中の筆をとった。


 百足女は四つん這いの不気味な姿で中庭を抜け、外の廊下を凄まじい速さで渡りきると、ある部屋の前で止まり、その部屋の襖を、ゆっくりと開けた。


 その部屋の中に、佐兵衛と、もう一人、女がいた。


 女は、志代の後に新しく雇われた、屋敷の中で一番若い女中であった。

 病でせっていた弥貴子の面倒を、佐兵衛とともに献身的にていた女であった。


 佐兵衛の部屋の布団の中で、二人は、抱き合っていた。


 佐兵衛と若い女中は、突然部屋に入ってきた百足女を同時に見つめ、ぎょっとし、揃って顔を青くした。

 二人とも、驚きとあまりの恐怖に声が出ず、固まった。


 四つん這いの百足女から、天井まで届くほどの、もの凄まじい黒い“おん”の気がずぉぉ……っ、と溢れ出した。



「……佐……兵衛……」


 百足女が、おどろおどろしい声を出した。


 弥貴子の顔に、鎌のような二つの歯が、にょきりと生えた。


 佐兵衛は全身ががくがくと震え出し、腰を抜かし、裸のまま、一歩も動けなくなった。

 隣にいた若い女中も、全く同じであった。


 弥貴子は“おん”の気を纏ったまま、恐ろしい形相で佐兵衛を睨みつけると、佐兵衛のそのそそり立つ魔羅まらを見、二本の鎌のような歯を広げ、佐兵衛に向かって、勢いよくどうっ、と襲いかかった。


 佐兵衛の魔羅が弥貴子に噛みちぎられるかと思われた、その時────。




"どうんっ……ばりばりっ……ばきっ……!"


「────!…………がっ!!」



 百足女は何かに背中を蹴り飛ばされ、障子とともに勢いよく倒れ込み、その場で呻いた。


 魔羅が噛みちぎられそうになる、その刹那。



 蒼頡は、和紙に『朽葉くちば』と書いていた。


 和紙は淡く金色に光り、中から輝く人間の姿の女が飛び出したかと思うと、佐兵衛に襲いかかろうとしていた弥貴子の背中を、女はその勢いのまま一瞬で、思い切り蹴り飛ばしていた。


 弥貴子を蹴り飛ばした後、光り輝く女は、畳の上にひらりと、着地した。


 女は、目が黒々と大きく、小顔であった。

 唇は小さく、髪の毛の長さは耳より下ぐらいまである。

 髪の色と着ている小袖こそでの色が同じ灰褐色はいかっしょくであり、小袖には白のまだら模様が散っている。

 着ている小袖は振袖が大きく、すそが短く、ももが見えていた。


 小さく可愛らしい唇が、ゆっくりと開いた。



「……ふふっ。

 うまそうな虫じゃあないですかぁ……。

 蒼頡様!」


 可愛らしい顔をした光り輝くその女は、倒れている百足女を見据えながら後ろにいる蒼頡に向かってそう言うと、唇をぺろりと小さく舐め、嬉しそうに、にいっ……と笑った。

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