第4話 禍根
「与次郎。しっかりいたせ」
与次郎は苦しそうに目を
「……う……」
と呻いてた。
与次郎の背中や肩には雷獣の
刻は、ふところから素早く
そして口の中で、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。
やがて『癒』と書かれた和紙が淡く光り出すと、刻はその和紙を二つに折り、口に軽く咥えた。
直後、与次郎の肩を両手でごろりと転がし、身体を横向きにさせ、与次郎の後頭部とうなじを軽く見やりながら、その紙を、与次郎の襟元部分から、背中に差し入れた。
すると、和紙を差し入れた与次郎の背中から、淡い光が与次郎の頭や足先にまで静かに広がってゆき、やがて与次郎の全身が、優しい光に包まれた。
その後、光は与次郎の身体の上ですーっ……と幾つにも細かく分かれ出し、その柔らかな光がひとつひとつ、与次郎の受けた全ての傷口に、それぞれ小さく、集中し始めた。
刻が与次郎を再び仰向けに寝かせてやると、先程まで険しい顔をしていた与次郎の表情が少し穏やかになり、息が整い、落ち着き出した。
そして珍しいものを見るように、仰向けに寝かせられた与次郎を、今一度、まじまじと見つめた。
「……
その男……なんだ。
ただの人間じゃねぇな」
狡の言葉に、刻は一言、
「……ふむ」
と言った。
「……人間に化けてるわけでもねぇ。本物の人間だ。
……しかし、何かおかしい。……ちがう」
狡は、与次郎の傷が凄まじい速度で
刻は、与次郎の息が整ったのを見届けると、倒れて動かなくなった雷獣に視線を移した。
狡に
刻は、筆と和紙を持ったまますくっと立ち上がり、倒れている雷獣にゆっくりと近づいていった。
刻が動き出したのを見ると、狡は十尺もある大きな
倒れている雷獣の目の前に立つと、刻は和紙にさらさらと『
そしてその紙を、倒れている雷獣の顔の上にすっ、と置いた。
やがて、『顕』と書いた和紙が淡く光りだすと、緑、赤、黄、白、黒、の五色が
撚り糸が最後まで全て出ると、『顕』の字が消え、和紙は白紙となった。
撚り糸は、金色に輝きながらくるくるとまるで蛇のように、倒れている雷獣の身体に巻きついていった。
雷獣の身体全体に撚り糸が巻き付き、糸がさらに輝きを増すと、突然、雷獣の首の後ろから湯気のようにふわりと、何か黒い物体が飛び出した。
その途端、倒れていた雷獣の身体は、じゅわっ……と音を立て、真冬の白い吐息のように、その場から姿を消した。
黒い物体は、屍体の山の後ろにあった御神木の根元に向かって、鳥のようにひゅん、と飛んで行った。
黒い物体が飛んで行くと、五色の撚り糸はそれを追いかけるように、地面を這いながら、まるで蛇のようにするすると、木の根元へ向かっていった。
「ふん。
やっぱり……あの木かよ」
狡が言った。
刻と狡もその撚り糸に続き、屍体の山の後ろに
御神木には
黒い物体が消えたその木の根元を覗くと、太い木の根と根の間の奥の穴に、一匹の
「貉か」
刻がぽつりと言った。
その時、五色の撚り糸が、しゅるしゅると御神木に巻きついた。
撚り糸は間もなく、煌々と光りだした。
すると、刻の頭の中に、まるで水のように何かが流れてきた。
今立っている、まさにこの場所の映像であった。
しかし、今あるはずの屍体の山は、そこには無い。
御神木の過去の記憶であると、刻は悟った。
────
産まれたばかりの子どもも、二匹いた。
巣穴の中で乳を飲ませていた。
突如、穴の中にごつごつとした人間の手が伸び、ものすごい力で身体を掴まれ、
乳を吸っていた子どもたちも、乳に吸い付いて離れないまま、二匹とも穴の外に引き出された。
暗い巣穴から、身体をがっちりと掴まれたまま、
そこに、人間の男が三人、立っていた。
戦で死んだ武士の死体から、武具や甲冑、衣類を剥ぎ取り、それを着ていた。
三人とも顔は汚れ、全身毛むくじゃらで垢まみれであった。
貉を掴んでいる男の顔が、にぃっ……と笑った。
笑った口の中の歯は、ボロボロで黒く欠けていた。
「────この一番でかいのは、おれが食うぞ」
げひげひと笑いながら、男が言った。
「お前らには、そのちっせぇのだ」
言いながら、
男の手から逃れようともがいていた
二匹の子どもたちは地面に投げ出され、まだ見えない目で母親の乳をきゅうきゅうと鳴きながら探していたが、やがて残りの二人の男達に汚い手で拾い上げられると、乱暴に連れ去られてしまった。
男達がその場からいなくなって間もなく、
辺りは天気が変わり、黒雲が立ち込め、雨が降りそうになっていた。
喉を突かれた時に
その場にまだ残っていた、人間の独特の臭いも、血の匂いと同時に嗅ぎとった。
雷が鳴った。
凄まじい
雷が、木に落ちた。
その木にかかっていた注連縄が、雷の衝撃で
木を伝って、巣穴の中にいた雄の貉に電流が走り、心臓が止まり、
斃れた雄の貉の身体から、黒い湯気のような煙が出始めた。
その黒煙に、『
御神木の周りがみるみる黒い
その身体からは、バチッバチッと閃光が散っていた。
雷がまたしても鳴り、辺り一面に激しい雨がザーッと凄まじい音を立てて、降り出した。
────
目の前に、御神木がひっそりと聳えていた。
「……そういうことであったかよ」
刻は、ぽつりと呟いた。
刻は、ふところから和紙と筆をとった。
和紙に『
すると、和紙から『結』の文字がゆっくりと剥がれ、その『結』の文字が、解れた部分にしゅるしゅると巻き付いた。
巻き付いたその『結』の字が淡く光り輝くと、解れていた部分がみるみる修復され、『結』の字は消えた。
注連縄は、木の幹にしっかりと巻きついた、元の綺麗な状態に戻った。
次に刻は、木の根と根の間の巣穴を、貉を遺したまま土で埋めた。
筆をとり、和紙に『
しばらくすると、和紙が淡く白色に輝き出し、その和紙からふわりと、白い煙のような靄が浮かんだ。
その靄の中に、貉の姿が薄く、見えていた。
そのまま白い靄はすぅ……っ、と天に昇ってゆき、やがて空に消えていった。
刻は天を仰ぎ、それを見届けた。
「────終わったか」
狡が、刻に聞いた。
「……うむ。
狡、助かったよ。
有難う」
刻が微笑んで言った。
狡は、無表情のままくるりと後ろを向くと、
「……牛の肝臓だからなぁ!」
と刻に言い放ち、役目を終えて、その場から一瞬のうちに姿を消した。
牛の肝臓は、狡の好物である。
式神を使う時は、役目を全うしたものたちに、褒美として食べ物を与えることになっている。
刻は微笑んだまま、和紙に今度は縦に三列、字を書いた。
『白百合』
『白菊』
『水仙』
和紙は淡く光りだし、和紙から刻の肩ぐらいまでの大きさのものが三つ、目の前の三方向に飛び出した。
全員、女性であった。
三人とも髪の色は白く、
向かって一番右の女は、白い美しい髪を頭の高いところでひとつに結び、その髪が腰まで伸びていた。前髪が、額の真ん中で分かれている。
真ん中の女は、白く美しい髪が耳ぐらいまでの高さであった。
一番左の女は、白く美しい髪が肩より長く、前髪を斜めに流している。
三人とも、真っ白い布地に、裾の部分だけ淡い黄緑色の小花が散っている同じ
刻は、三人に向かって言った。
「
悪いが、この方達を、頼むよ」
刻はそういうと、屍体の山の方を見た。
三人の女達は、刻に向かって同時に
直後、屍体の山の真下の地面がもこりと浮き上がり、それに合わせて、屍体の山も少し浮き上がった。
すると、屍体の山の真下にあるその地面の中から突如、花の茎がぼこり、ぼこりと土を突き破って姿を現し、何十本、何百本と、次から次へ、みるみる生えだした。
花の茎は屍体の山を囲い、屍体と屍体の間から次々と茎を伸ばして、
屍体の山が見えなくなるほど茎がまとわりつくと、その茎から、花が咲き始めた。
美しい白い百合、白い菊、水仙の花が、茎の緑色が見えなくなるほど、一瞬の内に咲き誇り始めた。
その白い花々は、やがて屍体を一人ずつ、見えなくなるほど覆い、包みこんでいった。
屍体が白い花々に覆い尽くされると、何十、何百という夥しい量の茎が、まるで生きているかのように少しずつ、もぞもぞと動き出した。
そして、白い花に埋め尽くされた屍体を、ゆっくりとひとつずつ運び、動かし始めた。
花に包まれた屍体たちは、茎に運ばれながら列になり、そのまま森の奥深くへと、消えていったのであった。
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