第18話 練習

 カチャカチャと、七城さんが食器を洗う音が聞こえる。時折、彼女が流す水の音と食器の触れ合う音だけが、この沈黙に穴を開けてくれる存在だった。俺は食卓に腰を掛けて、機会を伺う。


 七城さんはシンクの方を向いているから、どんな表情をしているのか分からない。


 ただ、その代わりに嫌というほど加速する心臓の音だけがはっきりと聞こえた。


「あの……七城さん……」


 たった一言喋っただけで喉がからっからになる。


 練習だ。これはあくまでも練習なんだ。

 そう何度も自分に言い聞かせているのに、やっぱり緊張は収まってくれない。


「……ダメ」


 後ろを振り向かずに、七城さんが答えた。俺は何がダメだったのか分からずに、頭の中が真っ白になる。


「下の名前で呼んで」

「…………陽菜、さん」

「……っ。ちゃ、ちゃんと呼び捨てで」


 互いに顔を見合わせていない。頭の中では練習だって分かっているはずなのに、どうしても心は落ち着いてくれない。俺は乾いた喉を潤すように、コップの水を嚥下えんかした。


 キン、と冷えた水が身体の深部に染み渡っていく。少しばかり暴走していた頭が冷静になった気がした。


「陽菜」

「……っ! な、なに? 


 冷静になったはずの頭に、急に熱が入ってきた。どろりと、溶けた鉄でも直接注ぎ込まれたんじゃないかと思うくらいに頭の中心が真っ白になって、顔が火照ほてる。自分でも変な汗をかいていると思う。ただ、名前を呼ばれたというのに。


「だ、駄目だよ。七城さん。俺も呼び捨てじゃないと」

「……いまは、下の名前で」

「……陽菜。俺も、呼び捨てで呼ばないと」

「…………ダメ」

「な、なんで?」


 七城さんは既に食器を洗い終わってしまって、今は手を洗っている。だが、その手洗いが終わることは無い。そして、それを俺が注意することも……。


「だって、蓮君の友達と……呼び方が被っちゃうから」

「いや、それは……」

「だから、ダメ」


 確かに岳は俺のことを蓮と呼ぶ。

 けど、それが嫌だなんて……。


「だから、蓮君。続き」

「わ、分かった」


 だが、七城さんがそれを通すというのだから仕方ない。

 俺は唾を飲み込んで、覚悟を決めた。


「陽菜、好きだ」


 そして、言った。けど、心臓の音がうるさくてちゃんと言えているかが怪しい。自分の声が心臓にかき消されて何を言っているのかがうまく聞き取れないのだ。


「蓮君。私も好き」


 だから、付き合って欲しい……と、練習ならそう言おうと思ってたのに。


 俺はただ七城さんの言葉に飲み込まれて何も言えなかった。ただ、口をパクパクと動かして、声にならない音を出しているだけ。俺はその時初めて、人は緊張が高まると声が出ないんだということを知った。こんなタイミングで知りたくなかったけど。


 水が七城さんの手に当たり続ける音がする。

 それだけが、心臓の音以外に耳に入ってくる唯一の音。


 幸運なことに、それが俺はこっちの世界へと連れ戻してくれた。そうだ。早く言わないと。


「だから、俺と……付き合って欲しい」

「うん」


 きゅ、と七城さんが水道を止める音が聞こえた。ドッ、ドッ、と短い感覚で心臓の自己主張だけが俺の身体に取り残される。


「……ふぅ」


 そして、ゆっくりと息を吐いた。これで告白の練習は終わりだ。

 だが、終わったというのに、俺と七城さんの間には変な空気が流れ続けていた。


「ど、どうだった? 練習は?」

「……良かった」


 ほぅ、と息を吐き出すように七城さんが言う。だが、彼女はこっちを向かない。ずっとシンクを見たままだ。


、しよ」


 その言葉にぎゅっと心臓が掴まれる。さっきから自己主張が凄かったから、これくらいで良いお仕置きになるだろ……と、脳みそがよく分からないボケをかました。


「そ、そうだね。俺は風呂を入れてくるよ」

「……うん」


 そして、俺は逃げる様にリビングを後にした。いや、実際に逃げ出した。これ以上、七城さんとの空気に耐え切れなかったのだ。それは別に、空気が重かったからではない。ずっとそこにいるとムズムズしてきて、心が落ち着かなくなってくるからだ。


 そして、色んな意味で心臓に悪い空気だから……。


 だから俺は部屋を抜け出したから、顔を真っ赤にした七城さんについぞ気が付くことは無かった。


 俺は煩悩を振り払うように、いつもより丁寧に風呂を洗った。何だか風呂桶をこすっていると気持ちが落ち着く。そういえば昔、寺の修行で子供たちが雑巾がけをしていたけど、あれもこうして煩悩を落ち着かせるためだったんだろうか。……いや、そんなわけないか。


 しかし、さっきの告白練習は本当に緊張した。まるで、本当に七城さんに告白しているみたいだった。


「俺が告白するときって……」


 あんな感じなのかなぁ、と口に出そうとしてしまった自分に気が付いて溜息ためいきをついた。


 だから、七城さんをそういう目で見たらダメだっていうのに。あくまでも、彼女をここに泊めているのは俺の好意だ。下心からじゃない。だから、そう言う目で見たら七城さんが悲しむ。七城さんだって、俺のことをそう言う目では見ていない。だろ?


「……そうか?」


 何でもない相手と告白練習なんてするか? 普通はしないだろ。でも、逆に本当に好きな相手とそんなことをするだろうか? それも、しないような気がする。それに、七城さんには気になる人がいるって言ってたし、本命はそっちだろう。


「……誰だよ」


 どうせ七城さんの本命なんだから、めちゃくちゃイケメンとかなんだろうな。良い家で育って、ちゃんとした親がいて、愛情を貰って、学費も出してもらえる。そんな人なんだろう。俺は頭をガリガリと掻いて、風呂場から出た。


「あ、七城さん。先にお風呂入る?」

「あの、秋月君。1つ提案があるんだけど」


 脱衣所にから外に出た瞬間、廊下に七城さんが立ってた。まるで、最初からずっとそこにいたかのように。


「提案?」

「うん。あのね、ずっとゲームしてるでしょ?」

「遠慮したら罰ゲームってやつ?」


 七城さんがこくりと頷く。元々は彼女の敬語を取り払うために用意した適当なゲームだ。今の今まで存在を意識することすら忘れていた。


「色々考えてみて、思ったんだけど」

「……うん」


 七城さんの桜色の唇から言葉が紡がれる。


「苗字で呼び合うのって、遠慮じゃないかな」

「…………そう、なのかな」

「うん。だからさ、これから2人きりでいる時はお互いに名前で呼ばない……かな?」


 控えめに提案してくる七城さん。その姿に再び俺のSな部分が刺激されて、思わず彼女の名前を呼んでしまう。


「分かったよ。陽菜」


 まっすぐ彼女の目を見て、俺は言った。七城さん……いや、陽菜は顔を真っ赤にして小さな声で、


「……蓮君」


 と、いじらしく俺の名前を呼んだので俺は赤面したまま、そこに立ち尽くしてしまった。

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