第7話 距離の詰め方

 風呂に入って、最初に思ったのは『七城さんは虐待を受けているのではないか?』

 という仮説だった。何しろ家出をしたというのに、そのことを責めるというよりも、そちらの方が都合の良いと言った口調でインターフォンから父親と思われる声が漏れていたからだ。


 だとすると然るべき場所に行くのが先だと思うが、あいにくと俺はそういうことに全く詳しくない。けど、もしかしたら純粋に厳しいだけの家なのかも知れない。


 と、俺が真面目なことを考えているのは七城さんの残り湯に浸かっている、ということを極力考えないようにしているためでもある。


 どうして、意識しないようにしているのだろうか。


「……どうして、だろうなぁ」


 七城さんは可愛い。

 そう、可愛いのだ。


 100人に聞けば100人が可愛いと答えるだろう。

 いや、ブス専が混じってたら99人かも知れない。客観的視点で見て欲しいものだ。青春はしないと宣言している俺だって可愛いって答えてるのに。


 そんな可愛い七城さんのことを意識すると、何だか七城さんに失礼なような気がしてくる。七城さんは家族間に何らかの問題を抱えて、寝る場所が無いからウチにいるだけ。


 そんな人に提供した風呂の中で、そんなことを考えるとまるで下心があるから家に誘ったみたいになって嫌なのだ。そうか、俺は心配を下心として捉えられるのが怖いのか。


 男女を入れ替えてしまえば、俺にだってこれが成り立つ。


 ……俺だって、家族に恵まれているか。と聞かれたら素直に首を縦に振れない。

いや、父と母は優しかったけど祖父母がクソだ。そんな状況で、同級生の女の子が下心で家に泊まらせてあげるとか言ってきたらどうだろう?


 うーん、駄目だ。控えめに言って最高だ。

 男女を入れ替えてしまったら意味がない……。


 でも、下心と言っても色々ある。例えば、その女の子の家庭が苦しくて、親の遺産目当てで俺を懐柔しようとしていた場合。それをもし、俺が知ったらどう思うだろうか?


「裏切られた……って、思うよな」


 間違いない。俺はそう思う。


 純粋な優しさだと思っていたものの裏側に、そうした気持ちがあると分かれば……人は傷つく。それは、七城さんにとってどれだけ辛いことになるだろうか。俺にはその気持ちを推測することしかできない。


「良くないな」


 俺は頭を振って立ち上がった。それは良くない。

 

 誰にも助けてもらえない辛さは、俺が一番知っている。

 そして、手を伸ばせば誰かが助けてくれるということも。


 七城さんは、まだ手を伸ばしていない。助けを求めていない。けれど、その顔と声色から俺は全てを察した。だから、俺は俺が信じるようにやりたい。多くの人に助けられた恩は、ここで返すのだ。


「……クサいな」


 自分で自分の考えに笑ってしまった。あまりに俺に似合わない。だから、俺は大きく息を吐いた。


 その瞬間、脱衣室の向こう側からガタ、と音がした。


「ご、ごめんなさい」

「あ、いや。違くて……!」


 七城さんからの謝罪が届いた瞬間、俺の声が聞こえてしまっていることに気が付いた。


「今のは自分に言ったんだよ!」

「そ、そうだったんですか?」

「あ、ああ。これは本当だ」

「あの……すみません。早とちりしちゃって」

「いや、俺も勘違いさせちゃうようなこと言ってごめん」


 俺は誤解を解いたことに安堵の息を吐いて、身体を洗うことにした。




「ごめん。待たせて」

「いえ。大丈夫です」


 俺が風呂からあがると、七城さんは別の宿題に手をつけていた。古典だ。


 ぱっと答案をみると、全て綺麗に答えている。七城さんは国語が得意なんだろうか。読書が好きって言っていたし、国語が得意なんだろう。偏見だけど。


「秋月君。ごめんなさい」

「……なんで?」

「こうして、家にまで泊めてもらった上に宿題を教えてもらうなんて」

「良いよ。俺が好きでやってることだから」

「ありがとうございます」


 目を伏せがちに、七城さんが頭を下げる。


 ……こうして困らせるというのは、俺の本意に反する。でも、どうすれば良いだろうか。俺はふと、岳と下らないゲームをやった時のことを思い出した。そうか。ゲームだ。


「あのさ、七城さん」

「は、はい?」

「俺とゲームしない?」

「げ、ゲームですか? 私、スマホ持ってないですよ?」

「えっ!? あ、いや。スマホは持ってなくてもできるやつだから大丈夫だよ」


 なんかサラッと凄いことを言わなかったか。

 いや、でも家が厳しいとそういうこともあるのかな……。思い返してみれば中学時代に祖父母の家に居た時にスマホが欲しいと言ったら祖父からドヤされた思い出がよみがえってきた。


 もしかしたら、七城さんもそうなのかも知れない。


「ゲームとかそんなにしたことないですけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫。簡単だから」


 俺は笑いながら言った。


「この家に居る時は、遠慮禁止。それを破ったら罰ゲームとして……」


 そういえば、罰ゲームのこと考えてなかった。


 岳と別のゲームをやった時はアイスの奢りとかだったのだが、七城さんの家が厳しいとお小遣いとか貰ってない気がするし……適切な罰ゲームが思いつかないぞ……?


「罰ゲームは破った分だけ相手にご飯を作るというのはどうですか?」

「おお……! 採用!」


 随分と可愛い罰ゲームが飛んできたものである。


「ふふっ。なら、それでやりましょう」

「敬語はアウトじゃない?」

「え、そ……そうですか?」

「うん。遠慮だね」


 言葉遣いは相手との距離をものだ。敬語は相手との距離を一定に保つときに使えるが、それ以上近づけるときには邪魔になる。


 ……尊敬している人の言葉だ。


「じゃあ、敬語使わないようにするね」


 敬語じゃなくなった七城さんが可愛くて心臓が跳ねる。

 だから、そういうのじゃないというのに。


「罰ゲーム1回だね」


 俺はそれをおくびにも出さずにそう言った。


「ルールが知らなかったから今のはセーフでしょ?」

「う、うーん。じゃあ、セーフで」

「あれ。秋月君。もしかして遠慮した?」

「し、してないっす……」

「アウト!」

「あっ」


 俺にしては良い提案だったと思う。それからしばらく七城さんと、それで遊んでから宿題に取り掛かった。全てが終わったのは夜中の1時だったけど、俺は不思議と疲れていなかった。


 誰かと喋ることがこんなに楽しいことだとは思わなかったし、七城さんが敬語じゃなくなるだけで、急に距離が近づいた気がして少しだけ嬉しかった。俺にはそれが女の子と仲良くなれたから嬉しいのか、それとも迷子の子犬のような人が心を許してくれたから嬉しかったのかの区別をつけることはできなかった。


 けれど、ここでその気持ちを塞いでしまうのはどうにも無粋な気がして、俺はただ嬉しさを噛み締めることにしたのだった。

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