第31話 行こう、日菜。

 朝一番に会社に寄って、そのまま学校に来たのだろう。先に立って、一階の廊下をすたすたと歩いていくお母さんの首からは、社員証がかかったままになっていた。


「お父さんは離島、お母さんは海外。仕事のこともあるし、何かあってもすぐには帰って来れないの。だからこそ、小さなことでも報告してもらわないと困るのに……」


 来客用のスリッパのせいで歩きづらそうなものの、相変わらずお母さんは歩くのが速い。とろとろと歩く日菜との距離は、開くばかりだ。

 朝、会社に寄って来て、仕事モードになっているせいもあるんだろうけど。部下にするみたいなお説教にうんざりして、日菜は窓の外へと目を向けた。

 冬のこの時期。中庭の植物はほとんどが枯れてしまっていて殺風景だ。


「聞いてるの、日菜?」


 ぼんやりと窓の外を眺めていると、ピシャリと怒られた。無言のまま見返すと、お母さんは目をつり上げてため息をついた。


「そういう無口なところ。ほんと、おじいちゃんにそっくりね。なんにも考えてなくて、なんでも人任せなところも。おじいちゃんも、なんでもおばあちゃん任せだった」


 吐き捨てるように言って、お母さんは額を押さえてためいきをついた。


 おばあちゃんが死んでから、おじいちゃんの家に行く機会はあまりなかった。

 理由はこれだ。

 よく喋り、ハッキリと物を言うお母さんは、無口で、何を考えているのかよくわからないおじいちゃんを嫌ってた。


「今は大人しくて手のかからない子で、済むかもしれないけどね。来年には高校生になるんだし、社会に出たらそんな調子じゃ困るのよ」


 おじいちゃんの家に引っ越してくるまで、日菜もおじいちゃんは無口で、よくわからない人だと思ってた。怖そうで、ちょっと苦手だと思ってた。

 お母さんが言うとおり、何も考えていないんだと。まわりの人たちに興味なんてないんだと思ってた。


 だって、おばあちゃんが死んだときも涙一つ見せなかったのだ。


 でも、おじいちゃんの家で暮らすようになって、そんなことないってわかった。

 おばあちゃんが死んだ今も、おばあちゃんが集めた黒猫のカップや食器を大切そうに磨いている。

 日菜の好きな食べ物をちゃんと覚えてくれている。

 玉ねぎとピーマンを残そうとする日菜と悠斗を、無言でにらんで、叱りつけてくる。


 スマホに送られてくるメッセージは短いけど、猛禽類もうきんるいみたいで怖い顔に似合わず、使うスタンプは可愛いイラストのものばかりだ。

 タカやハヤブサのスタンプばかり使っているのは、たぶん自分の顔が猛禽類ぽいとわかっているからだ。

 日菜が、


「おじいちゃんぽいね、このスタンプ」


 と、言って笑うのを待っていて。そして、本当に笑って見せると、


「……」


 何も言わないし、ほとんど表情も変わらないけど。うれしそうに、すっと目を細めるのだ。

 そんなおじいちゃんが、


 ――何も考えてないわけ、ないじゃない……。


 長い廊下の途中で日菜は足を止めた。さっさと職員室へと歩いて行くお母さんの背中を、じっとにらんだ。

 何も考えてないわけがない。おじいちゃんだって。日菜だって。

 日菜はぎゅっと唇を噛み締めた。悔しい。


 でも、悔しいという気持ちは喉につかえて。代わりに目から涙としてこぼれ出た。


 日菜はくるりとお母さんに背中を向けると、駆け出した。

 逃げ出していた。


「ちょっと、日菜! 待ちなさい!」


 足音で気が付いたのだろう。お母さんが後ろから怒鳴った。


 日菜の足は速くない。

 スリッパで歩きにくいとはいえ、足の速いお母さんに勝てるわけがない。どんどんと近付いてくる足音に、日菜の心臓がバクバクと鳴って、あっという間に痛くなった。


 おじいちゃんの家で暮らすようになってから、ずっと。直接、怒られないのをいいことにお母さんたちからの電話やメッセージを無視してきた。

 そのことをものすごく怒っているはずだ。

 でも、これから先生と転校についての話をしなくちゃいけないから。家じゃないから。ここが外だから。ぶつぶつ言うだけで済んでいたのだ。


 今、追いつかれて、腕をつかまれたら。きっと逃げたことも、今までのことも。すごい剣幕で怒鳴られる。


 廊下の端まで来て、右手の渡り廊下に行こうか。左手の階段を駆け上がろうか。日菜が迷っていると、


「日菜、いい加減にしなさい!」


 お母さんの声が廊下に響いた。ドクン! と、心臓が跳ねて、日菜は反射的に左に駆け込んだ。

 右の渡り廊下は、一階の廊下の窓から丸見えだ。すぐにでも隠れたくて。お母さんの視界から逃げたくて。反射的に左に曲がってしまったのだけど――。


「日菜……?」


 聞きなれた声に名前を呼ばれて、日菜はハッと顔をあげた。

 階段の踊り場には悠斗が立っていた。


 悠斗はパッと笑顔になったかと思うと、階段を駆け下りようとした。


「……!」


 でも、日菜が後ずさるのを見て、足を止めた。

 目を見開いたかと思うと、悠斗はみるみるうちに悲し気な顔になった。


 ずきりと痛む胸に日菜は唇を噛んだ。

 悠斗にそんな顔をさせたことも。正直で、素直な言葉を伝えられないことも。全部が後ろめたくて。悠斗の目から逃げたくて。

 日菜はきびすを返して、渡り廊下の方に逃げようとして――。


「いい加減にしないと怒るわよ!」


 聞こえてきたお母さんの怒鳴り声に、動けなくなってしまった。


 近い。もう逃げられない。

 心臓がどくどくと跳ねまわって。頭の中が真っ白になって。どうしたらいいのか、わからなくて。

 日菜はぎゅっと手をにぎりしめた。


 その手を、


「日菜、こっち!」


 階段を駆け下りてきた悠斗につかまれた。

 強引に手を引かれて、背中を押されて。わけのわからないまま。


「へ……っ、むぐっ!」


「日菜、静かに」


 気が付くと、日菜は暗闇に押し込まれていた。


 ***


「日菜! ……日菜?」


 お母さんが廊下の角を曲がったとき。日菜の姿は階段の途中にも、階段横の一畳ほどのスペースにもなかった。

 ダンボールや使っていない机が積まれているなら、隠れる場所もある。でも、コンクリートで塗り固められたスペースはきれいに片付けられていて、小物一つ置かれていない。


 きっと、階段を駆け上がって自分の教室に戻ってしまったのだろう。


「全く……」


 額を押さえて、ため息をついて。腕時計を確認すると、お母さんはあわてて廊下を引き返した。


 先生との約束の時間を少し過ぎていた。


 ***


 真っ暗な空間で、日菜は必死に息を殺していた。呼吸音がうるさい。

 手で口を押さえても、外に――お母さんに聞こえてしまいそうで怖かった。


 体育座りをしていても頭をぶつけてしまいそうなほどに天井が低くて、ちょっと足を伸ばしただけでつま先が壁に当たってしまうような狭い場所だ。


 暗闇の中、悠斗の呼吸もはっきりと聞こえた。こんな状況なのに、すごく落ち着いてる。

 吸って、吐いて、吸って――。

 悠斗の呼吸に合わせて呼吸してみたら、少しだけ落ち着いた。


 落ち着いたら、急に涙がこぼれてきた。


 我慢して飲み込んだ言葉を、何も考えていないと、なかったことにされて。

 おじいちゃんをあんな風に言われて悔しかった。

 お母さんに怒られると思って怖かった。

 それから――。


 引っ張られたときに悠斗とつないだ手は、今もつないだままだ。

 悠斗の顔が見えないのをいいことに。悠斗からも日菜の顔が見えないのをいいことに。日菜はぎゅっと悠斗の手を握り締めた。

 悠斗はなんのためらいもなく、日菜の手を握り返してきた。


 それがうれしくて。悠斗の手の温かさにほっとして。

 でも、あと三ヶ月したらこんな風につなげなくなるんだとさみしくなって。

 日菜の目からは、大粒の涙が次々にこぼれ落ちた。


「行った……かな」


 悠斗がつぶやいた。

 薄くドアを開けると、外からの光が細い線になって差し込んだ。

 真剣な表情でドアのすきまから外のようすをうかがっていた悠斗は、


「うん、大丈夫そう。……ここのドアが開くの、知らなかっただろ?」


 そう言って、にひっと歯を見せて笑った。

 でも、日菜の顔を見るなり、その笑顔は曇った。


 ここ――と、いうのは階段下の収納スペースのことだ。

 屈まないと入れないくらいの小さな空間で、正方形のドアがついていた。壁と同じ色をしていたし、開いているところも見たことがなくて。日菜はここにドアがあることすら知らなかった。


 先に悠斗が外に出た。つないだままの手をぐいっと引っ張られて、日菜もよろめきながら外に出た。

 耳を澄ませても、お母さんの怒鳴り声はもちろんのこと。足音も聞こえなかった。


 ほっと息をついていると、


「行こう、日菜」


 悠斗が手を引いて歩き出した。


 階段をあがって教室に戻るんじゃなく。

 悠斗は渡り廊下を渡って、上履きのまま、中庭へと出た。

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