第32話 大人じゃないけど、子供でもない。

 中庭に出た悠斗は、すみにある藤棚の下で足を止めた。


 ここは職員室前の廊下からも、校舎のどの階の窓からも死角になっているんだと、千尋から聞いたことがある。

 悠斗も知っていて、日菜をここに連れてきたのだろう。


 顔をあげようとして。でも、それよりも速く――。


「なんで泣いてんだよ、日菜」


 振り返った悠斗は両手で日菜のほほをはさむと、ぐいっと顔を上向かせた。

 確かに、日菜は泣いていた。悠斗が言うとおりだ。でも、だからって――。


 ――悠斗くんまで泣きそうな顔、しなくてもいいのに。


 眉を八の字に下げて、今にも泣き出しそうな顔で日菜を見下ろす悠斗に苦笑いした。


 ――やっぱり……だめだ。


 苦笑いしながら、日菜の目からはまた涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。


「お母さんが今日、学校に来たの。転校の手続きをするためなんだ。……私、あと三ヶ月で転校するんだ」


 例え、仲直りしても。以前のように喫茶・黒猫のしっぽでいっしょに夕飯を食べても。悠斗に正直に、素直に日菜の想いを伝えても。

 何をしても、あと三ヶ月したら転校する。


 転校するときも。転校したあとも。ただ、つらくなるだけな気がして。

 だったら、いっそ。このまま。悠斗に何も言わないで、悠斗から何も聞かないで。離れてしまった方が楽なんじゃないかと、そう思った。

 それなのに――。


 ――やっぱり……できない。


「転校……したくない」


 ――がまんなんて……悠斗くんへの気持ちを飲み込むなんて……。


「私、転校したくない……悠斗くんと、お別れなんて……したくない」


 我慢しきれなくて、こぼれ出してしまった正直で、素直な気持ちと、涙を止めることができなくて。日菜は顔を隠すことも忘れて、ぼろぼろと泣いた。


「したくないのに……転校、しなくちゃ……」


 日菜よりも体温の高い悠斗の手にほほをはさまれて。きっと涙でぐしゃぐしゃで、もしかしたら鼻水も出ているかもしれない顔をすっかり悠斗に見られたまま。日菜はぼろぼろと泣き続けた。


「泣くなよ、日菜。泣くなって。大丈夫だよ、日菜。転校したってお別れにはならないんだから」


 両手でほほをぐにぐにと揉みながら、悠斗は泣き出しそうな顔で笑った。

 そんなことを言われても、素直にうなずけるわけがない。お別れにはならなくても、今までと同じようには会えないのだから。

 くしゃりとゆがむ日菜の顔を、悠斗はぐにぐにともみ続けた。もみ続けながら、


「お正月にばあちゃんちに行ってきたんだ。母さんの方のばあちゃん」


 急にそんな話をし始めた。

 あまりにも唐突に、全然、違う話になって、日菜は目を丸くした。

 びっくりしすぎて涙が止まったようすの日菜にくすくすと笑って、


「親父が今どこにいて、何してるか知ってるかって。聞いてみたんだ」


 悠斗はそう言った。


「……わかったの?」


「うん、わかった。毎年、ばあちゃんのところに手紙が届いてた。ばあちゃんも返事してた。俺が正月に来たときに撮った写真を毎年、送ってんだって」


 にひっと歯を見せて、悠斗は照れくさそうに笑った。


「親父のじいちゃん、ばあちゃんが九州なんだけど、そっちで暮らしてた。スマホの番号も聞いてきたから、かけてみようと思ってるんだ」


 ――そっか……。


 悠斗の言葉にほっと微笑んだ日菜は、ふと首をかしげた。


「まだ、かけてないの? ……ふぎゅ!」


 尋ねた瞬間、日菜はぐにゅっとほほを押しつぶされた。


「誰のせいだと思ってんだよ、バカ日菜。物事には優先順位ってのがあるんだよ。まずは日菜とのことを解決しなきゃだろ!」


 日菜の口がタコみたいになっているのを見ても、悠斗はくすりとも笑わない。むしろ、きりきりと目をつり上げた。


「なんで、親父に連絡しようと思ったと思う? お狐さまを返すためだよ。なんで、お狐さまを返そうと思ったと思う? 今のままじゃ、日菜のお狐さまと俺のお狐さまは縁を結ばないからだよ!」


 悠斗にタコにされていた日菜は、ハッと目を見開いた。

 確かに、そうだ。


 秋祭りのときに日菜が渡したお狐さまと、小学生の頃に悠斗がお父さんからもらったお狐さま。

 悠斗の手元にあるお狐さまは二体一対になってしまって、今は縁を結ばない。


 秋祭りの日は、悠斗と仲直りできたことや。お狐さまを受け取ってくれたことや。来年、いっしょに秋祭りに行く約束をしたことがうれしくて。

 そこまで全然、考えていなかった。うっかりしてた。


「だから、親父にもらったお狐さまを親父に返そうと思ったんだ。もう、泣いて駄々をこねる子供じゃないから。あの頃とは違うから」


 一気にまくしたてて、悠斗は息を吐き出した。


「わかってる。俺だって、ちゃんとわかってるよ。日菜がもう少しで転校しちゃうこと」


 最後に手の甲でそっとなでて、悠斗の手が日菜のほほから離れた。


「でも、大丈夫だよ、日菜。俺たちはまだ大人じゃないけど、子供でもない。ただ、待ってるだけしかできない子供じゃないんだ」


 代わりに悠斗は日菜の左手を取ると、ぎゅっとにぎりしめた。


「ここから日菜んちまで、どれくらい? こっちに来る前の、日菜んち」


「えっと……電車で五駅で。車だと……三十分くらい?」


「じゃあ、自転車で飛ばせば一時間くらいだ」


 きょとんとしている日菜の目をのぞきこんで、悠斗はきっぱりと言った。


「高校は? どこ、行くつもり?」


「まだ、決めてないけど……」


 まだ、決めてないけど。とんでもなく遠いとか、とんでもなく日菜の成績に合わない学校じゃなければ、きっとお母さんもお父さんも反対はしないはずだ。

 東中と西中からなら。日菜の家と悠斗の家からなら。同じ高校に十分に通える。


「なら、いっしょの高校にだって行ける」


 日菜が考えていることを見透かして、悠斗はにかりと笑った。


「ただ、待ってるだけしかできない子供じゃない。俺、日菜に会いに行くよ。来年になったら、毎日、学校で会えるように受験勉強もがんばるから。日菜だって、こっちに来るだろ? 日菜の、じいちゃんの家があるんだから」


 今までみたいに毎日、会えないじゃないか。

 喫茶・黒猫のしっぽで、いっしょに夕飯を食べたり。教室であんなことがあったねって言い合ったり。

 共有できる時間は、ずっと少なくなってしまうじゃないか。


 そう、思うけど。不安はたくさんあるけど。

 でも――。


「日菜だって、会いたいときに会いたいって言えないほど子供じゃないだろ。……昔とは違うだろ?」


 悠斗にぎゅっと手をにぎりしめられて、日菜はほほえんだ。


 不安を伝える言葉を、日菜は持っていて。正直に、素直に気持ちを伝える勇気も、もう悠斗からもらってる。

 伝えても、転校するという事実は変わらないけど。伝えた今、心はふわりと軽くなった。

 悠斗の正直で、素直な気持ちを聞いて、もっと、ずっと心は軽くなった。


 だから――。


「なんとなく、大丈夫そうな気が……してきた」


 日菜は悠斗を見上げて、くしゃりと笑った。


「なんだよ、その自信なさげな言い方。だから、泣くなって」


 再び、泣き出した日菜を見て、悠斗はまた、両手で日菜のほほをはさみこんだ。しばらく、そうやってほほをぐにぐにとされたあと、


「お母さんに言ったのか。転校したくないって」


 日菜の涙が止まり始めたのを見て、悠斗が尋ねた。


「言ってもどうしようもないよ。転校はしなきゃいけないもの。お母さんに言ったって、だったらどうするの? って、怒られるだけだし」


 悠斗に指の腹で目元を拭われて、日菜はぎゅっと目をつむりながら言った。


「だから、東中からこっちに転校するって言われたときも何も言わなかったし。今回だって何も言わない」


 すねたように唇をとがらせる日菜に苦笑いして、


「でも、言わなきゃ俺みたいにぐるぐる悩んで、苦しい思いをすることになる」


 悠斗は優しい声で言った。


「お母さんは悩まないよ。だって、私の気持ちなんて気付かないから」


 日菜の言葉に、悠斗はゆっくりと首を横に振った。


「日菜は苦しい思いをしてる。飲み込んだ言葉のせいで苦しんでる。なら、正直に、素直に、言うべきだよ。日菜自身のために」


 きっぱりとした口調で言って、悠斗は日菜を真っ直ぐに見つめた。


 転校してきて、悠斗に出会うまで。

 日菜が我慢して、気持ちを飲み込んで。それでうまくいくのなら、正直に、素直に気持ちを伝える必要なんてないと思ってた。

 それが正しいことなんだって思ってた。

 

 でも、いつの間にか、正直に、素直に気持ちを伝えることが当たり前になって。

 いつの間にか、飲み込むことが苦しくなってた。


 ――ううん……そうじゃない。


 本当は、最初から苦しかったんだ。


 日菜は少し迷ったあと。困り顔で微笑んで。それから、悠斗を真っ直ぐに見つめ返すと、こくりとうなずいた。


「よし! じゃあ、日菜のお母さんのところに行こう!」


 うなずくのを見るなり、悠斗は日菜の手を引いて駆け出そうとした。

 でも、日菜は悠斗の手を引っ張り返して、


「待って、悠斗くん!」


 そう叫んだ。

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