第13話 野良猫と猛犬。

 セミも鳴くのをやめるほどの暑さの中。どうして体育の授業を、しかも外なんかでやるんだろう。そう思いながら、悠斗はグローブを受け取るための列に並んだ。

 列の最後尾に並んだ時点で嫌そうな顔をしていたのは、グローブをかごから出して渡しているのが、和真と大地だったからだ。


 午前の理科の授業で、嫌いだと面と向かって言ったばかりだ。

 気まずいわけじゃない。言ったことを訂正する気もさらさらない。ただただ、嫌いな相手と顔を突き合わせるのが嫌なだけだ。


 悠斗の番になった。

 大地が差し出したグローブを受け取ると、悠斗はさっさときびすを返した。いつものように体育教師に相手をしてもらうつもりだった。


 それに、“嫌いだ”なんて言われたばかりだ。さすがの和真も、もう誘ってこないだろう。

 そう、思っていたのに――。


「白石。俺と、大地と。三人で、交代でやるぞ」


 いつもどおりの、クラス委員長らしい大人びた笑みで和真が言った。当然といわんばかりの口調で。


 いつもなら、


「いらない。先生に頼む」


 と、言ってさっさと駆けて行ってしまうのだけど。予想外のことに、悠斗は思わず足を止めて、振り返ってしまった。

 悠斗が足を止めたことに、和真の方もびっくりしたらしい。目を丸くしたけど、


「んじゃあ、まずは俺と白石な」


 そう言いながら、グローブをはめ始めた。


 悠斗はやるなんて一言も言ってない。和真もそれを承知で、勝手に話を進めているのだ。

 嫌いだと言われたばかりの相手に、だ。


「よく声かけられんな」


 和真の神経の図太さにあきれて、悠斗はしかめっ面で言った。

 和真は和真で小馬鹿にしたように鼻で笑ったあと、不意に眉を八の字に下げた困り顔で微笑んだ。


「木村さんに言われて反省したんだよ。確かに俺は、白石が言うことを最初からうそだ、強がってるだけだって決めつけてた。誰だって、頭から否定されたら嫌な気持ちになるよな。……ごめん」


 深々と頭を下げる和真を見つめて、悠斗はパチパチとまばたきした。


「……日菜が言うことは信じるんだ」


「だから、悪かったって」


 困り顔であやまる和真に、悠斗はいきおいよく首を横に振った。


「いや、別に責めてるとかじゃなく。俺もどっかで信じてもらえないんだろうなって、あきらめてたから。そっか。もう少し、真面目に話せばよかったな」


 悠斗は一人、納得したようにうなずいた。

 かと思うと、


「じゃあな!」


 と、言って体育教師の元に駆け出そうとして、


「じゃあな、じゃない」


「ぐぇ……っ」


 和真にえり首をがしりとつかまれて、うめき声をあげた。


「悪かったけどな……それとこれとは話が別なんだよ、白石」


 悠斗のえり首をつかんだまま、和真は低い声で言った。


「俺が白石のことを誤解してたみたいに、白石も俺のことを誤解してるんじゃないか?」


「どういう意味だよ」


「別に一人でかわいそうだからとか、そんな理由で毎回、誘ってたんじゃない。クラス委員長として、生徒内で解決できることは解決するべきだと思っているだけだ」


 えり首をつかまれて顔をしかめたまま、悠斗は和真を見上げた。


「クラス委員長だから声をかけていただけ。そうじゃなきゃ、お前みたいに面倒なやつに関わるなんて真っ平ごめんだし。クラス委員長である以上、これからも、これまで通り関わり続ける。……木村さんの言うとおり、お前の言うことを信じた上で、説教してやる」


 和真の淡々とした口調と遠慮のない言葉に、悠斗は目を丸くした。


 和真のとなりで二人のやりとりを見ていた大地も、目を丸くした。

 普通ならショックを受けるか、怒るかしそうな言葉だ。普段の和真なら、相手のことを気づかって、絶対にそんなことを言ったりしない。


 でも、和真がとっつかまえている相手は悠斗だ。普通とはいいがたい。


「そうなんだ」


 案の定、なぜか悠斗の表情はパッと明るくなった。


「そうだよ」


 そう答えながら、和真はなんとも言えない表情になった。

 今、言ったことは間違いなく本音だ。ただ、本音と建て前を使い分けられるような年齢になった今。直球の本音をぶつけることには結構な抵抗がある。

 でも――。


「俺も、ごめん。お前のこと、誤解してた。嫌いって言ったのも取り消す」


 何のてらいもなく頭を下げた悠斗の反応を見る限り、悠斗にとっては下手な建て前よりも冷たい本音の方が受け入れられるようだ。

 いきおいよく顔をあげた悠斗はにかりと笑っていた。和真のとまどいなんてお構いなしだ。


 あいまいな笑みを浮かべていた和真は、ゆっくりと目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。

 まだ、とまどってはいる。

 でも、強張っていた心が溶け始めるような。そんな感覚に、次に目を開けた和真は晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。


「俺、平川ってひとりぼっちのクラスメイトに声をかける俺、優しい! えらい! って、感じのうぬぼれ系なんだと思ってた」


 それも一瞬のことだったけれど。

 無邪気な笑顔で悠斗が放った言葉に、和真は顔を強張らせた。


「でも、違ったんだな。ちゃんと自覚して牧羊犬やってたんだな! すごいよ、平川! 牧羊犬のかがみ! クラス委員長の鑑だな!」


 悠斗の言いようと、妙にキラッキラな笑顔に、大地は顔を引きつらせた。

 だが――。


「白石、お前……」


 和真の低い声に隣を見て、今度はぎょっとした。

 小学校時代からの親友だが、和真がこんなにもはっきりと怒りを表情に出すのを見たことがなかったからだ。


「そういや、白石は先生とばかりキャッチボールしてたよな」


「え? うん!」


「なら、たまには同い年の男子が手加減なしで投げるとどんなもんなのか。味わうのも悪くないだろ」


「よし、こーい!」


 和真が鬼の形相をしていることなんて、気付きもしないで。悠斗はグローブをはめて、和真から距離を取った。


「大地、ボール」


「お、おう……」


 和真に言われてボールを渡す直前。大地は思わず、ボールをにぎりしめて、かたさを確認した。

 授業で使う用の軟式球だ。それでも当たったら痛いだろうけど。


 野球部所属の和真のポジションはキャッチャー。

 ピッチャーの大地とは小学校の頃からの相棒関係だ。


 だからこそ、和真が本気で投げたときのボールがどれくらい痛いか、よく知っている。ついでに冷静さを失った和真の暴投っぷりもだ。


 和真が片足をあげるのを見て、


南無三なむさん……」


 大地は手を合わせて目をつむった。

 ボールが風を切る音が聞こえたあと。悠斗の絶叫がグラウンドに響き渡った。


 ***


「……って、ことが体育んときにあったんだよ!」


 そう言って、悠斗はテーブルをバシバシと叩いた。

 夕飯を食べるために日菜が喫茶・黒猫のしっぽに下りてくると、先についていた悠斗は仏頂面をしていた。


「どうしたの?」


 と、日菜が尋ねるよりも早く。話し始めたのが、今日の体育であった和真とのできごとだった。


「悠斗、鼻の穴に赤い粉がついてんぞ。どうした?」


「だから、キャッチボールしたんだよ! 体育の授業で! 平川のやつ、思いっきり人の顔面にぶつけやがって! 鼻血が出てんのにあやまりもしないでさ!」


 石谷に尋ねられた悠斗は、再び、バシバシとテーブルを叩いた。


 ――体育の授業のあと。鼻に詰め物してたのって、そういうことだったんだ。


 鼻に綿を詰めて、ふくれっ面で教室に戻ってきたから、何かあったのかとすごく心配したのだ。

 理科の授業で和真や大地と微妙な空気になったから、よけいに。


「このくらいのボール、ちゃんと取れよ。やっぱり先生とばっかりやってるとダメだな。手加減してもらって当たり前になってる……とか、えらそうに説教しやがって! いいから、まずはあやまれって!」


 かりかりと怒る悠斗に相づちを打ちながら、日菜は心の中でくすりと笑った。

 何かはあったようだけど、日菜が心配していたようなことにはならなかったみたいだ。


「平川のこと、ちょっと見直したけど撤回! やっぱり俺、アイツのこと大っ嫌いだ! 牧羊犬じゃないよ、あれ。猛犬だよ、猛犬。日菜も気をつけろよ!」


 和真のことが大嫌いだと悠斗は言うけれど。理科の授業中、和真に面と向かって言ったときとは言い方も表情も、全然、違った。


 今の悠斗も本気で嫌いだと言ってるんだと思う。

 正直で、素直な気持ちを言おうとして、実際に正直に、素直に言ってるんだと思う。


 でも、心の奥底には前とは違って、嫌い以外の気持ちもちゃんとあって。

 だから理科の授業のときには、ただ冷たくて。聞いている日菜の方が胸が痛くなるような“嫌い”だったのが、今は沸いたやかんみたいににぎやかな“嫌い”になったんだ。


 ――正直で、素直な言葉って……すごく難しい。


 だって、本人もまだ気づいていない気持ちだって、あるかもしれないから。


 和真の悪口を並べ立てる悠斗の顔を、ほおづえをついて見つめて、


「日菜、聞いてる!?」


 日菜はくすりと笑うと、


「聞いてるよ、悠斗くん」


 そう答えたのだった。

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