第2話 こくり、と……。
春休み明け初日だというのに六時間目まできっちり授業をやって。帰りのホームルームを終えて。
その日はやっと解散となった。
中学二年なら、もう入っている部活がある。帰宅部の子たちだって、いっしょに帰る子や、次にどこに行くかは大体、決まっている。
クラスメイトたちが次々に教室を出ていくのをぼんやりとながめていた日菜は、
「白石! ホームルーム、終わったぞ。いつまで本、読んでるんだよ」
クラス委員長の和真の声に驚いて、そちらに目を向けた。
和真は大きなスポーツバッグをななめにかけていた。運動部所属らしい。なんとなく、イメージどおりだ。
その和真は日菜のななめ前、窓際の席に座る男の子を見下ろして、渋い顔をしていた。
朝のホームルームのあと、佐藤先生に注意されていた子だ。そのあとの授業でも、ホームルームでも。休み時間が終わったことに気が付かず、夢中で小説を読んでいた。
何度も先生にやんわり注意されたり、怒られたりしていて、さすがの日菜も今日一日で顔と名前を覚えてしまった。
どうやら先生だけじゃなく、クラス委員長にも目を付けられているらしい。
でも、当の男の子は、
「……ん?」
なんて言いながら、のんびりと顔をあげた。あたりを見回して、ようやくホームルームが終わっていることに気が付いたのだろう。
「あ……」
と、間の抜けた声をあげると、机の横に引っ掛けてあるカバンを手に立ち上がった。
「本を読むのが好きなのはいいことだけど、授業やホームルームのときにはやめろよ」
「チャイムに気が付いたらやめてるよ。――じゃあな、平川」
和真の小言なんて気にした様子もなく、男の子はさっさとドアへと走っていってしまった。嫌味な言い方じゃないけど、のれんに腕押し、ぬかに釘感がある。
和真も同じように感じたらしい。額を押さえて、ため息をついていた。
あの男の子も転校しても全然、平気そうだ。和真や真央とは全然、違う理由だけど。
日菜はうらやましい気持ちと、少しだけざわざわする気持ちとで、教室を出て行く男の子を見送った。
と、――。
「木村さん。よかったら、いっしょに帰らない?」
急に声をかけられて、日菜の肩がぴくりと跳ねた。おどおどと振り返ると、真央ともう一人。ショートカットの女の子が、にこにこと笑って立っていた。
昼休みに真央に声をかけていた子だ。
「えっと……橋本さんと……」
「清水
つまり、真央の友達――と、いうことだろう。
にひっと歯を見せて笑う千尋に、日菜はおずおずとうなずいた。
「私たち、テニス部なのだけど……今日の放課後練習は休みなの。だから、よかったらいっしょに帰らない?」
そう言う真央の横で、同意するように千尋がうなずいた。日菜は一瞬、微笑んで、でもすぐにうつむいた。
授業中も休み時間も、うつむいてばかりの日菜に声をかけづらかったのだろう。クラスメイトたちは遠巻きにちらちらと見るばかりだった。
今日、日菜が話したのといえば校内を案内してくれた和真と真央だけだ。
そんな日菜を見て、きっと真央は副委員長として気を使ってくれたのだ。そう思ったら、とたんに恥ずかしくなって。みじめになってきて。
「せっかくだけど……ごめんなさい! 急いで帰って来てって、おじいちゃんに言われてて……!」
思わず、口から出まかせを言っていた。
しまった……という後悔と。うそをついてしまったという罪悪感と。日菜は反射的にうつむいてしまった。うつむいて、恐る恐る二人の表情をうかがうと、大きな声にびっくりしたのか。真央も千尋も目を丸くしていた。
でも、
「……そうなの?」
真央は腕組みをすると、そう言って目をつりあげた。もしかしたら、うそなんじゃないかと疑われているのかもしれない。
実際、うそなのだ。
日菜が再びうつむくと、真央が息を吐き出すのが聞こえた。
怒っているのか、呆れているのか。どちらにしろ、きっと真央の中での日菜の印象は悪くなったはずだ。
日菜はますます小さくなった。
「それじゃあ、しかたないね。また今度!」
場の空気を和ませようと思ったのだろう。千尋が明るい声で言った。気を、使わせてしまった。
罪悪感と気まずさに耐えられなくなって、日菜はいきおい良くイスから立ち上がった。
「それじゃあ、また!」
カバンのひもを肩にかけると、日菜はぎこちなく笑って。でも二人の目を見れないまま、教室を飛び出した。
「うん、また明日~」
「また明日ね、木村さん」
後ろで千尋と真央の声が聞こえたけど、足を止めることも。振り返って笑顔を返すことも。二人の表情を確認することも。怖くて、できないまま。
日菜は廊下を早足で歩いて、階段をかけ下りて、昇降口に向かった。
靴を履き替えて、正門を出て、おじいちゃんの家を――これから一年間、日菜が暮らす家を目指して必死に走った。
カバンの外ポケットに入れたスマホが震えていた。きっと、奈々と彩乃からメッセージが届いたんだ。
小学一年の頃からずっと仲良しの友達。
一週間前、引っ越すときも見送りに来てくれた。昨日の夜だって、日菜のことを心配して、はげましのメッセージをたくさんくれた。
本当は今すぐにでも立ち止まって、スマホを確認したかった。なんでもいいから奈々と彩乃と――大好きな友達とおしゃべりしたかった。
でも、息が切れても、日菜は足を止めることができなかった。だって、真央と千尋に追いつかれたりしたら、きっと、すごく気まずいから。
歩道もない、車一台がどうにか通れる程度の路地におじいちゃんの家は建っていた。一階は喫茶店になっていて、外階段を上がった二階に自宅の玄関がある。
カンカン! と、靴音を鳴らして、日菜は外階段をかけあがった。玄関のカギを開けて、
「……っ!」
ただいまも言わず。乱暴にドアをしめた。
この時間、おじいちゃんはお店に出ている。もし、おじいちゃんが家にいたとしても、おかえりという言葉は返って来ない。おじいちゃんはすごく無口だから。
おばあちゃんが生きていた頃なら、お店に出ていても気が付いて、
「日菜ちゃん、おかえりぃ!」
と、よく通る声で出迎えてくれたはずだ。
でも、おばあちゃんは二年前に死んでしまった。今、この家に住んでいるのは無口で怖い顔のおじいちゃん一人だけ。
しん……と、静まり返った自分の家じゃない家に、日菜は唇をかんで。玄関のドアに背中をあずけて、しゃがみこんだ。
学校カバンをひざに抱えて、外ポケットからスマホを取り出す。
『新しい学校、どうだった?』
『友達できた? ヒナは人見知りだから心配』
それぞれからのメッセージのあと。
奈々からは心配そうな表情で汗を飛すクマ、彩乃からはムンクの叫びみたいな顔のハムスターのスタンプが送られてきていた。
可愛い絵柄のスタンプを指でなでて、日菜は震える手で二人に返事を送った。
『大丈夫。校内を案内してくれたり。みんな、優しいよ』
満面の笑顔で丸印の書かれた看板を掲げるインコのスタンプを送った瞬間。スマホの画面にぽつりと、涙のつぶが落ちた。
だって、こんなの大うそだ。全然、大丈夫じゃない。
確かに校内は案内してもらった。真央も。和真も。千尋も。みんな、優しい人たちだ。
真央たちにいっしょに帰ろうと誘われたとき。日菜がうん! と、答えていれば、きっと真央も千尋も、西中でのはじめての友達になってくれたはずだ。
でも、日菜は逃げてしまった。
気を使わせてしまったというもうしわけなさ。みじめさ。
でも、それだけじゃない。
だって――。
「……たったの一年で、また転校するんだよ」
学校カバンに顔を埋めて、日菜は泣きながら呟いた。
引っ越す日――。
見送りに来てくれた奈々と彩乃に抱きしめられて、頭を撫でられて。泣きながら車に乗り込んだあと、お母さんに言われた。
「一年なんて、あっという間よ」
なぐさめのつもりだったかもしれない。事実なのかもしれない。
でも、それを聞いた日菜はうつむいて、唇を引き結んだ。鼻の奥がつんとなって、胸がずしんと重くなったあと。
視界に映るもの全部がくすんで見えるようになった。
だって、一年は短いようで、長い――。
最初は毎日のように届いていた奈々と彩乃からのメッセージは、きっと徐々に少なくなっていって。そのうち来なくなってしまうかもしれない。
大丈夫、こっちで友達ができたよ――なんて言ったら、よけいに。
そうして一年後、日菜が戻った頃には奈々も彩乃も、すっかり日菜がいないことに慣れてしまっていて。
もう日菜の居場所なんてないのだ。
こっちで新しい友達ができたって同じことだ。
一年後には引っ越して、しばらくしたら日菜のことなんて忘れてしまうのだろう。
奈々と彩乃がいる東中にも、この西中にも。一年後には日菜の居場所なんてないんじゃないか。
そう思うとすごく、すごく怖いのだ。
でも、怖いと言っても。さみしいと言っても。みんなに気を使わせて、困らせるばかりだと。
「大丈夫、ずっと友達だよ」
なんて、言われてもみじめな気持ちになるばかりだとわかっている。
だから、日菜は唇をかんで、泣きながら。
お母さんにも、お父さんにも、おじいちゃんにも。奈々にも、彩乃にも。真央にも、千尋にも言わず。一生懸命に言葉を飲み込んだ。
転校したくない、も。
さみしい、も。
怖い、も。
友達になりたい、も。
全部、全部。
こくり、と……飲み込んだ。
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