第10話 一ミリの前進
「ただいま」
家に帰るとキッチンにいるお母さんに一声かけ、自分の部屋に入ると制服のまま、ごろんとベッドに横になった。
今日の昼休み、図書室でのことを思い出す。
諦めきれない……
あの日から私はあの人を想い続け、偶然にも同じ高校へ入学した。
学校であの人を見つけた時、どきんと心臓が止まるかと思ったくらいびっくりしたのを、今でも覚えている。
ただ、あの人はあの頃と様子は変わっていたけど。
同じ学校だったんだとわかった時から、あの人への想いは、さらに強くなった。
だから、真由にお願いした。
自分では何もできずに、他人任せ。
それでも、私からしてみれば、思い切った行動だったと思う。
でも、あれからなんの連絡もなかった。
もう、誰かを頼っていても、一歩も進めない。だから、自分から動き出そうと決めた。
いくら真由と同じクラスとはいえ、彼女でもないのに、教室へ押しかけて行く勇気はない。
本当はそれくらいしなくちゃ、あの人に私のことを再認識してもらえない。
でも、そんなことができるなら、とっくにしている。
かと言って、廊下で、あの中庭で話し掛けるのにも話題がない。
「私のこと、覚えていますか?」
それでも良いんだけど、「覚えていない」ときっぱりと言われたら、それはそれでショックだ。
私のことを思い出させると決めたばかりなのに、未だに、踏み出せないでいる。
こんな性格が嫌になる。
押しかける勇気も、話し掛ける話題もない。
私は枕に顔を埋め、ため息をついた。
そう言えば学校で挨拶すら交わしたこともない。
おはよう
さよなら
またね
たった一言なのに……
それなら、挨拶から始めよう。あの人の心に残るような、挨拶をしよう。
そうすれば、嫌でも私の事を認識してくれるだろう。
私はベッドから起き上がると、よしっと一人頷いた。
いつもより早めに登校し、靴箱で上靴を履き替え、急いで教室へ向かった。
あの人を待ち伏せする。
一つ間違えれば、ストーカーみたいな行為になってしまうけど、それでも良いから、私を振り向かせたい。
ばたばたと教室へ入り、自分の席に鞄を置いき、トイレに入った。
洗面所の鏡で、髪や制服のチェックをしたかったからだ。
さささっと髪を整え、よしっと頷き、トイレから出て、待ち伏せする場所へ向かった。
三階と四階の間にある、階段の踊り場。
四階にある一年のクラスへ向かう生徒やクラスメイトたちもたくさん通ると思う。
そんな所で待っていると、みんなに見られるだろうな。
でも、それでも良いんだ。
決めたんだから。
私は大きく深呼吸をして、階段の踊り場へ向かった。
私が登校してきた時間より、階段を登ってくる生徒が増えている。その中には、クラスメイトもいる。
私に気づいたクラスメイトは、おはようと挨拶をしてくる。
その中には、誰か待ってるの?と尋ねてくるクラスメイトも何人かいる。
私は、曖昧に答えながら、心の中では、早く来て欲しい反面、ここから逃げ出したいという思いが交差している。
しばらくしていると、あの人が階段を登ってくるのが見えた。
来た……
心臓がばくばくと早くなり、かーっと顔が赤くなるのが分かった。
あの人は、そんな私をちらっと一瞥すると、足早に通り過ぎようとしている。
早く言わなきゃ……
そう思うと私は、大きな声で
「お、お、おはようございます」
と挨拶をした。
恥ずかしくて、ぷるぷると震える体を抑えようと、スカートをぎゅっと握りしめた。
でも下は向かず、あの人の顔を見つめた。
思った以上に大きな声だったからか、あの人はびっくりした様子でこちらを見ている。
「お、おはよう」
少し、間があいたあと、ぼそぼそと返してくれた。
返してくれた……
嬉しさと恥ずかしさが、私の心の中でごちゃごちゃになっている。
私はあの人にぱっと頭を下げて、自分の教室へと走って戻った。
周りに変だと思われないように、教室へ戻った。
何事もなかったかのように、ささっと自分の席についても、胸のどきどきと顔の火照りが取れない。
たった一言の挨拶をするだけで、こんなに緊張し舞い上がってしまうなんて……
ぽやぁっとしている間に、がらりと教室の扉が開き、担任が入ってきて、朝のホームルームが何事もなく始まった。
今朝のことを思い出て、顔が赤くなったり青くなったりを繰り返していたおかげで、午前中の授業は、頭の中に何も入ってこなかった。
昼休みを知らせるチャイムがなると急いで席をたち、廊下へと急いだ。
「そんなに急いで、どこに行くの?」
「ちょっとね」
階段手前であの人を待っている。
朝に続いて、昼も。
昼休みの廊下は行き交う人たちが、朝よりも沢山いる。
一人でぽつんと立っている私を、通り過ぎるたびにちらっと見ていく。
向こうからまたイヤフォンを耳にさしたあの人がやってくるのが見えた。
ゆっくりと私の方へ近づいてくる。
何を聴いているのかは分からないけど、聴いている音楽に負けないくらいの声を出して、
「こ、こんにちは!!」
と、恥ずかしかったけど、体が震えるけど、朝に負けないくらいの大きな声で挨拶した。
近くにいた人たちも私の声にびっくりしたのか、立ち止まり見ている人、指をさしている人、振り向いてくすくす笑っている人…
恥ずかしくて消えてしまいたくなるけど、それじゃダメだから…
すると、あの人は片耳からイヤフォンを外しながら、
「…あ、うん、こんにちは」
と、返してくれた。
朝と違い今度は私を真っ直ぐ見てくれた。私もしっかりとあの人の目を見た。
嬉しくなって自然と笑顔になれた。そして、ぺこりと頭を下げ、教室へ戻った。
しっかりと私を見てくれた。
朝よりも、真っ直ぐな眼差しで。
少し前進できたかなと思った。
他の人から言わせたら、一ミリくらいしか前進していないかもしれないけど、それでも良い。
いつも、髪が伸びてぼさぼさな人、猫背で下を向いている人。おどおどと喋っている人……
出会った頃と全く変わってしまっている人。
それでも、私はあの時にあの人からもらった言葉のひとつひとつが忘れられない。
にっこりと笑いかけてくれた笑顔が忘れられない。
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