第三十二話 様々な思い

 ギンちゃんは銀色の尻尾を揺らし、どこからともなく現れると清めの水が湧き出る祠を指差し――いや尻尾で指し示した。


「カル、よく命の鏡を手に入れてくれたね。ささ、それを水にさらすんだ」


「え、水に濡らしちゃってもいいのか?」


「あぁ、しばらく汚れた奴の手元にあったから刀自体も“ばっちぃ”し。そんなのじゃ私も戻りたくないよ」


 ギンちゃんは「早く早く」と落ち着かない様子だ。いいのかな、と思ったカルが地面に座り込むキユウに視線を向けると、彼は小さく鼻で笑った。


「でもギンちゃん……さっき呪刀に憑いていた邪念が向こうに飛んでいった。早く行かないと」


「大丈夫だ、あの子はもう動かない。向こうでカルが来るのを待っている。そしてあの子に立ち向かうためにはカルは真実を知らないと勝てない

……食われちまうよ?」


 あの子……?

 ギンちゃんは正体を知っているのか。色々気にはなるが今はこの神様の言う通りにした方がいいだろう。


 カルは命の鏡を手にし、泉の前に立つ。

 そして深呼吸をしてから泉の中に命の鏡を沈めた。


「冷たい……」


 冷えた湧き水が手に染み渡る。先程まで死闘で熱くなった身体には心地良い。


「カル、そのまま目を閉じるんだ。命の鏡に手を触れたまま――」


 目を閉じると水の音だけが聞こえた。まぶたを閉じたことによる暗い世界が広がる。

 それがだんだんと白い世界に変わり、誰かの姿がまぶた裏に浮かび上がる。


 そこには二人の若い男女がいた。身なりからしてそれほど裕福ではないとわかる二人。

 二人は小さな赤ん坊を抱いて囲み、幸せそうに笑い合っている。二人の眼差しの元、赤ん坊は安心したような表情で夢の中にいるようだ。


『ふふ、かわいい寝顔』


 女性は眠る赤ん坊を抱いたまま、その額へ自分の額をそっと合わせる。


『大好きよ、カル』


 女性の仕草を見て、やきもちを焼いたように『あっ、いいな! 俺も』と隣にいた男性が声を上げる。

 すると女性は『だめ』と言いながら笑っていた。


『あなたはまだヒゲを剃ってないわ。カルのお肌が傷ついちゃうでしょ』


『あ、そっか。じゃあ、じゃあヒゲ剃ってくるから待っててよっ』


 男性が慌てた様子でどこかにいなくなると、女性はまた赤ん坊を見てフフッと笑う。


『やぁね、お父ちゃんは。あせらなくても僕は寝てるよ〜って。ねっ、カル――』


 赤ん坊は眠り続ける。

 その様子を女性はずっと幸せそうに見ている。自分に面影のある二人。それはまぎれもない自分の両親だ。


(幸せそうに、笑っている……母さん、父さん)


 カルの胸は熱くなる。これが両親の顔、笑う表情、自分の名を呼ぶ声。抱きしめてくれるあたたかさ、これが、これが……。


「俺の、母さん、父さん……」


 まぶたを閉じているが涙があふれてくる。なぜなら自分は愛されている、間違いなく愛されている、両親は自分を愛してくれていたと。

 それが伝わってくるから。


(カル……よかったな)


 タキチが安心したように呟く。

 するともう一人、近くにいる人物の呟きが聞こえる。


「リラは……幸せだったんだな」


 キユウの声だ。カルの様子を見て、彼もまた妹の真実を始めて知ったのだ。駆け落ちし、短い生涯となってしまった妹は不幸になったと思い込んでいたが実際は違う。普通に一人の女性としての幸せを歩んでいたのだ、と察したような呟きだった。


(カル、アンタを大事に思っているのは両親だけじゃないよ)


 今度はギンちゃんの声だ、タキチの交信のように頭の中に響く声がする。


(そこにいる奴だってアンタが大事なんだよ、絶対に本人は言わないだろうから内緒だけどね。まぁ、大事なのと憎しみが半々って感じだけど)


(それは、キユウのことか?)


 ギンちゃんが「あぁ」と返すと。幸せそうな両親の姿が薄れていき、今度は“あの時”の様子がまぶた裏に再現された。

 キユウと初めて出会った時が。


『こいつが妹の人生を台無しにした下衆野郎の子……今なら、誰にも見られねぇ』


 それは幼少期、土いじりをして遊ぶ自分の元にキユウが現れた時。


『こいつが……こいつのせいで』


 キユウの心の中にある言葉が聞こえる。それは小さな自分に向けられる大きな憎しみだ。


『……違う、お前のせいじゃないことはわかってる。ただお前の親父がいたから、リラはいなくなっちまったんだ』


 キユウは葛藤していた。子供の自分に罪はない。けれどレンの血を受け継ぐ自分が憎い。

 キユウの手は、己の腰に提げられた刀の柄をつかむ。


『お前が、リラとあいつの子か』


『……おじさん、だーれ?』


 あと少し何も起きずに時間があれば、自分はキユウによって斬り捨てられていたかもしれない。短い生涯を終えたかもしれない。

 だがそこへ現れたのは――自分を助けるように現れたのは一羽の白い鳥。

 その鳥がくわえ、目の前に置いていった物。

 それが今は自分が持つ白い鞘の短刀。


 キユウがそれを手に取った時。

 キユウの胸のうちに渦巻いていたドス黒い感情が不思議な力によって押し流されるように、消えていくのがわかった。

 それはキユウ自身も不思議に感じていた。


『なんでだ……この短刀はなんだ、妖刀? ……だが妖刀ともまた違うような……声がしねぇ。でも、なんだ……こいつを憎むのをやめろ、と言われるような、この感じは……』


 キユウの心の憎しみが消える。まだわだかまりはあるとしても殺意はなくなり、どうしたものかという戸惑いが生まれる。

 そして思いついたのが――。


『……小僧、俺が剣術を教えてやろう』


 こいつを鍛えてみるか。使えなきゃ捨てるか斬ればいい。

 だが万が一、素質があれば、その時は――。


 カルは目を開け、命の鏡を清めの水から優しくすくい上げると、水の音を耳にしながら自分の心に問う。

 ……自分だって大切な家族が誰かのせいで失われたら憎むだろうな、それと同じことだ。


 奪った存在が母でも父でも。兄弟でも。長年、近くにいた大切な存在が、ひょいっと現れただけの誰かに奪われたら嫌に決まっている。自分の大切な人を奪いやがった、殺してやりたい。そんな憎しみを抱くだろう。


 母は、リラは。罪人である父レンに助けられ、その人を愛してしまった。

 だが許される関係ではない。誰も祝福はしてくれない。それでも愛した人と一緒にいるために、二人だけの道を選んだ、周囲の者のことは顧みずに。それで残された者が悲しむのは当然のこと。

 キユウだって、そうだったのだ。


(けれどアンタの伯父はアンタと過ごすうちに、アンタをかけがえのない存在だと思うようになったのさ)


 ギンちゃんから発せられた聞き慣れない言葉にカルは目を見張った。

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