第三十話 そこにいたのは
「――えっ!?」
しかし相手に近づいた時だった。鼻先をある匂いがかすめ、カルは目を見開いた。
「今の、匂い、あいつ、のっ……」
それは自分が“ある人物”がそばにいる、と実感する匂いだった。苦手な者はとことん苦手、けれど自分は嫌いではない、安心できる匂い。
なんで、この瞬間に。なぜそんな匂いを感じるんだ、この酒の匂い……なんで。
そして刀を振るうのは片手だけであるというのに……自分を追い詰める手練の士。
それに当てはまる人物を自分は一人しか思いつかない。あいつしかいない、でもなんで、こんなことになっているんだよ……!
心臓の動きが速すぎて痛い……。
カルは数回後ろに飛び、なんとか男から十分な間合いを取った。
すると周囲の空気が、急にひんやりとした。
(……カル、彼を)
突如、声が聞こえた。頭の中に響く声。タキチかと思った、けれど違う。
(彼を、助けて)
誰だ、この声。女性だ。知らない声だ。
それは自分が腰に提げている白い鞘の短刀から聞こえてくる。つらい気持ちで訴えているように。
この短刀は先程、宿でスーから受け取った物。所有者はキユウだがスーに預けられ、自分の手元へときた彼の妖刀だ。交信ができないとされていた短刀が今、語りかけてきている。
(今の彼は邪念に憑かれている。愛する者を、手にかける邪念に。私の力が離れたゆえに彼はとり憑かれてしまったの)
カルは気づかされた。今まで起きた呪刀による事件。その被害者、加害者について。
そうだったのか。
憎しみを抱く相手ではなく、愛する者を手にかけるように。刀を持った持ち主は動かされていたのだ。今までの人達はみんなそうだったのだ。
ではここにいる、黒い刀を振るう者の正体は誰なのか。自分を大事に想ってくれている存在……そんなの、いただろうか。
(彼を、助けてカル、清めの水を使って)
(清めの水?)
カルは離れた位置にある祠に目を向ける。あそこには穢れたものを清める力を持つ水が湧き続けている……なるほど、効果はあるかもしれない。
だが少し距離がある。やるからには祠に近づかなければならない。
どうすればいい。考えろ、とカルは策を巡らす。
(カルっ! 前ぇっ!)
タキチが叫ぶ。祠に目を奪われていたら油断が生じた。
黒い刃が目前にあった。
しまった!
時がゆっくりと動いているかのように、風を斬る音がはっきりと耳に届く。そんな速さで振り下ろされた刀だ。避ける術はなく、刀で受け止める余裕もない。
このままではやられる。
今できる行動は一つのみ。
カルは歯を食いしばり、叫んだ。
剣を振るう相手の名を。
自分にとって今はただ一人の血縁である者を。
「キユウーっ!」
刹那、刃がカルの額すれすれのところでピタリと止まる。ひんやりとした冷たい微風が額をなでる。風だけで皮膚が切れたような錯覚があるが……大丈夫だ、切れていない。
カルはゴクッと喉を鳴らす。
そして見た。天狗の面の向こうにある、相手の瞳を。それをジッと見つめると相手の瞳が揺れた。
彼は、キユウなんだ。
「キユウっ、俺だよっ!」
あの時、キユウの後を追った黒い霞。あれはやはり呪刀の原因となる邪念だったのだ。キユウの刀にとり憑き、持ち主であるキユウの理性を奪い、自分を襲わせたのだ。
だが変だ。先日キデツの屋敷で出会った彼はいつもと変わらない様子だった。むしろ窮地を助けてくれた。仕事だと称して会わなかった数日間も事件を起こさず、普通にバスラを離れていたはずだ。
それなのに今はこうして理性を失くし、自分と戦っている、なぜだ。
昨日の彼と今の彼。何か違いがあるだろうか。
(カル、早くっ)
短刀の声に意識を呼び戻された。
ハッとしたカルはその場から飛び退く。
咄嗟の判断は功を奏していた。止まっていた黒い刃が力を取り戻したように、すぐさま動き出すとズン、と空を切っていたからだ。
短刀の声に反応し、飛び退かなかったら確実に頭を一刀両断されていた。先程から聞こえる謎の声。自分を助けようとしてくれているようだ。
この声は一体。これは誰の声で、誰の魂なのか。なぜ交信が突然できるようになったのか。
(カル、考えている暇はないぞっ、急げよ!)
今度はタキチの声が響く。天狗の面が真っ直ぐにカルを再び見据えていたのだ。黒い刃の切っ先がカルの眉間を目がけて突き出された。
「危ねっ! ――あっ!」
即座に避けた、はずだった。予期せぬ相手の動き――突き出されたと思った刀が横に振り払われたことで、カルの頬に痛みが走った。
一筋のあたたかい液体が頬を伝っていく。地面にぽたりと、赤い雫が落ちる。
(わぁっ、カル、大丈夫かっ!)
「平気だっ! でも次はもうなさそうだな!」
頬の血を手の甲で拭い、自分の首が無事なことに束の間、安堵した。
さすが剣豪と呼ばれる存在だ。一つの動きの先には別の動きがあり、相手に逃げる隙を与えてはくれない。そんな相手に駆け出しの自分が敵うはずがない。そろそろこちらの体力も限界だ。
決めるしかない、キユウを助けるんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます