第十六話 絶体絶命
そこにいたのは開けた口から舌をたらし、牙をのぞかせる黒い毛並みの野犬。音を立てずに最初は一頭だけで現れた野犬は、引き寄せられるかのように一頭、また一頭と集まり、次第には八頭になった。自分達を中心に円を描き、視線の先に人間の子供である自分、そして息絶えそうなタヌキを捉えている。
飢えた野犬にとって、この二つは絶好の獲物でしかない。八頭の両眼は黒い光を放ち、口からハッハッと息を吐いている。
「お前、あいつらにやられたのか?」
タヌキに語りかけるが返事はない。だがおそらくはそうだろう。野犬の群れに襲われれば人間だってひとたまりもないのだから。
カルは立ち上がり、腰に提げた刀を抜く。野犬相手だろうが真剣で立ち向かわなければタダでは済まない。伯父に鍛えられている剣術。数頭の野犬ぐらいなら恐れることはないだろう、とカルは容易に考えていた、しかし――。
「ワオォォォンッ!」
野犬が咆哮を上げる。
すると餌がたんまりあると聞きつけた野犬がさらにやってきてしまった。数匹だったのが数十匹に増え、みな空腹でたまらないのか、野犬はさらに増えていく。
気づけば三十頭ぐらいの、野犬の輪の中に閉じ込められ、獣臭さが充満した。
「こ、こんなに仲間がいたのかよっ」
さすがにな……とカルは苦笑いを浮かべ、刀を握り直す。なんとかなるような気もするが、やはりなんともならないような気もする。わからない、頭の中が、若干真っ白になりかけている。
さぁ、どうする。
そう考えていると、足元にいたタヌキが「ぐるる」と低く唸った。
「ん? 自分を放っておいて逃げろって?」
実際にタヌキがそう言ったわけではないが、カルはタヌキがそんなことを言っているような気がした。
確かに傷ついて命もいくばくかというタヌキ。彼を餌食にすれば逃げられる可能性も少しはあるだろう。
自分の命が大事な人間なら、そう考える。
だがカルは鼻で笑った。
「バカだなぁ」
その言葉はそんなことを言っているかもしれないタヌキに対してか。またはタヌキがそんなことを言っていると思っている自分に対してか。
両方かもしれない。どっちでもよかった。
「一応さ、俺は剣士だぞ? 剣士が弱っている奴を放っておくわけないんだよ……なんのために剣術を習っていると思ってるんだ」
決して好きで習っているわけではない剣術。たまたまキユウが自分の元を訪れ、自分に稽古をつけるという話になったから習っているだけのこと。
それでも力は大事だ。誰かを守るにしても生き続けるにしても。剣術を習っているのは強くなって欲しいという両親の望みでもあるが、やっていくうちに自分でも極めてみたいかな、と少しは思うようになっていた。
ただ納得いかないのは師匠がいつも酔っ払って理不尽なことを言ってくることだ。いつか見返してやると決めているんだ。それをこんなところで終わらせるわけにはいかない。
ちょっと、怖いけど……やらなきゃ!
「こ、来いっ!」
気持ちを奮い立たせるため、カルは叫んだ。
野犬達は一瞬怯んだものの、すぐにグルルとうなりを上げ、飛びかかってきた。
次、また次と。四方八方から向かってくる牙や爪を避け、カルは素早い身のこなしで上から下へ、左から右へと刀を振るう。師匠に習った刀さばき。刀身は空を斬ることなく、目的の相手の腹や背へと確実に的中していく。
傷を負った野犬はきゃうんと高い声を上げて逃げていき、少しずつだが数が減ってきた。すでに五頭は退けたようだが、まだ油断をすれば食われるという状況には変わりない。野犬は刀があろうが仲間がやられようが怯むことなく飛びかかってくる。
「くっそ! きりがねぇっ」
それでもカルは刀を構える。牙、爪、蹴り、咆哮、野犬の攻撃をかわし、刀を下ろす。
次第に周囲は獣臭さに加え、野犬の血の臭いが充満し、赤や黄色の葉の中に赤色ばかりが足されていく――が、カルにそれを気にしている暇はなかった。
一匹の野犬を斬り伏せた時だった。予期せぬ一匹が自分ではなく、足元にうずくまる命短い生き物を狙っていたことに、カルは気づいた。
しかし、すぐには動けない。また別の野犬が襲ってきたからだ。それの牙を防いでいる間に、タヌキを狙っていた野犬がすでに地を蹴り、飛んできていた。
「に、逃げろ、タヌキ!」
タヌキに向かって叫ぶ。逃げてくれれば、そのわずかな隙に、なんとかなるかもしれないから。
けれどタヌキは覚悟を決めたというふうに両目を閉じ、身動きをしなかった。弱い生き物は食われるのが運命なんだ。これが自然界の流れなんだ。かすかに震える身体が、怖いけれど仕方ないのだと語っている。
くそ――と毒づき、カルは歯を食い縛った。
そして自分でも思いもよらない素早さで交戦していた野犬を刀身の反対側ではじき飛ばすと、タヌキを救うための隙を見事、自ら生み出した。
「バカ、あきらめんなよっ!」
刀とは反対の手を伸ばし、カルはタヌキの胴体に片腕を回した。抱えると出血のせいで腕にヌメッとした感触があったが、臆せず一気に走り出した。この状態で襲われたらひとたまりもない、逃げなくては。生きるには駆けなくては。怖い、死ぬかも……でも走るんだっ!
だがタヌキの重みが増した身体は著しく素早さを失う。逃げることはできても牙をかわすまでいかない。タヌキを抱いたカルの片腕の――左肩に狙いを定め、牙が突き立てられる。皮膚を突き破る痛みがカルを襲う。
「う、くそっ、離れやがれっ!」
カルは身体を振るい、噛みつく野犬を振り落とした。だが次に襲いかかってきた別の野犬に今度は二の腕を噛まれた。痛みでタヌキを落としそうになるものの、なんとかこらえ、これも振り落とした。
「絶対にこいつは離さないぞっ! たとえ腕がちぎれてもなっ!」
それぐらいにしっかりとタヌキを抱え、襲い来る野犬の牙を、走ってやり過ごしていた時だった。
(もう、やめてくれよっ!)
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