変化
「本当に?」
アレックスがそんなたちの悪い冗談を言う人ではないことは、百も承知だが、エルザは簡単に信じることは出来なかった。
「ああ」
頷くアレックスに胸の鼓動が早くなる。
「でも、あなたは貴族で……」
「貴族といっても、一代限りの末端貴族だ。爵位なんて形だけだ」
アレックスは苦笑する。
「本当は、十五年前、親父さんが亡くなった時にも言おうと思ったんだ」
「え?」
「でも、エルザはあの店を自分で切り盛りするのに精いっぱいだっただろう? それに、あの段階では、俺は冒険者という名のごろつきでしかなかったから」
アレックスは息をついた。
「この二十年。同じ温度でお前を思っていたと言えば、多少は嘘になる。諦めようとした時期もあった。でも……俺には、やっぱりエルザだけなんだ」
「私……」
エルザは俯いた。
ただ好きだと言われたのなら、エルザは素直に頷けたのかもしれない。
でも、結婚となると、簡単ではない。
十五年前の、二十歳の時であれば、何も考えずにアレックスに飛び込めたかもしれない。
でも今は、アレックスにはアレックスの、エルザにはエルザの生活があって、それぞれに責任がある立場だ。
好きという気持ちより先に、本当は隣に立っていいのかという危惧が、エルザの胸に広がる。
「エルザは俺が嫌いか?」
「そんなことは……」
エルザの気持ちは、きっとアレックスには透けてしまっているように思う。
「エルザ」
いつの間にかエルザの座っている横にアレックスが立っていた。
エルザの胸がドクンと音を立てる。
アレックスの手が伸びて、エルザの顎に手が伸びた。
「キスは、嫌?」
エルザは顔に熱が集まるのを意識する。
結婚をためらうなら。キスも拒絶すべきだとわかってはいるけれど。
触れるアレックスの手が優しくて、もっと触れてほしくて。
エルザは目を閉じて、アレックスのキスを受け入れる。
「あなたが好き」
何度目かのキスを交わす間に、思わずこぼれたエルザの言葉をアレックスは聞き洩らしはしなかった。
「大好きだ」
深いキスは、やがて甘い愛撫を伴い始めた。
「結婚は、ゆっくり考えて行こう」
エルザはアレックスの言葉をかみしめながら、久しぶりに自分の店を開く。
昨夜のあれこれを思い出すと、若くもないのに流されてしまった自覚はあるけれど、後悔はない。
勢いで一歩進んだ関係になったとはいえ、結婚となるとエルザは二の足を踏んでしまう。
騎士隊長のアレックスと、自分とではどう考えても釣り合うとは思えない。
お互いの気持ちを確かめ合い、アレックスの気持ちに疑問があるわけではないけれど、やはり結婚となると、エルザとアレックスでは難しいのではないかと思うのだ。
孤児同然のエルザを拾ってくれた義父の店を守っていくことそ、恩返しだと思って頑張ってきた。
エルザが平民であることをクリアしたとしても、騎士隊長の妻となれば、この店を続けることは難しい。
恋人として、愛を育みたい気持ちはある。
でも。
エルザもアレックスも、もう若くない。
社会的地位のあるアレックスは特に、将来を見据えない恋愛は好ましくないのではないかと思う。
こんなエルザで、アレックスの妻になることは許されるのだろうか。
──結婚か。
今まで一度も夢を見たことがないと言えば、嘘になる。だが、ぼんやりとした夢が突然具体的になってせまってくると、簡単には飛び込めない現実に気づいていしまう。
──年を取るって厄介ね。
好きな人にプロポーズをされて、気持ちを確かめ合ったというのに、簡単にそれだけを受けいれて幸せに浸れない。
カラン、と扉の開く音がして、そちらに目をやると、カーナル男爵とリンだった。
「エルザさん!」
「リン!」
エルザはカウンターを飛び出して、リンと抱擁する。
「本当に、本当に無事でよかったです」
泣きじゃくるリンの頭をエルザはそっと撫でた。
「ご無事で、良かった」
顔を上げると、カーナル男爵もホッとした笑みをエルザに向けた。
「あなたの勇気のおかげで、この子もこの子の母親も無事、当家にたどり着くことが出来ました」
「いえ。私が助かったのは、リンの機転のおかげですから」
エルザはやや苦笑する。
リンのついた嘘──いや、アレックスにプロポーズされた今となっては、完全な嘘とも言えなくなってしまったけれど、それがなければ、エルザはまだ野盗のアジトに囚われたままだったであろう。
アレックスたちが来なかったら、一人で逃げられたとは思えない。
「機転?」
リンはようやくエルザから離れて、首をかしげた。
「警備隊のひとに言ったことよ」
「ああ、騎士隊長のアレックスさんの婚約者って言ったことですね」
リンがポンと手を打った。
隣の男爵が驚いた顔をする。
「アレックスというと、アレックス・ライアスどのか?」
「はい。アレックスさんは、エルザさんととっても仲良しなのです」
リンがにこやかに頷く。
アレックスは冒険者上がりの騎士隊長なだけに、かなり有名人だ。カーナル男爵もその名を聞いたことはあるのだろう。
「ああいう地方の兵隊さんって、なかなか動かないって田舎娘の私はよく知っているんです。アレックスさんは超エリートだって聞いてたから、名前出したらとてもびっくりしてましたね」
にやにやとリンが笑う。
「でも、きっとアレックスさん、怒ってなかったですよね?」
「え、あの、でも、上司の方に知られてしまって、ちょっと、ね」
エルザは曖昧に微笑む。
「でも、あれしか、方法、思いつかなかったから」
「……そうね。助かったのはリンのおかげなのは事実よ。あとのことは気にしないで」
助かったのはリンの嘘のおかげだ。
これから先のことはエルザとアレックスの問題で、リンに責任はない。
「あの」
カーナル男爵が口を開く。
「マーティンさんにご報告しておこうと思いまして」
「何でしょうか?」
エルザは姿勢を正した。
「この子、リンを私の養女に迎えることにいたしました。ロゼッタさんについては、私の屋敷にて、しばらく養生をさせたいと思っています」
「そうですか。ありがとうございます」
エルザは丁寧に頭を下げた。
「医者の話では、ロゼッタさんは、胸を病んでおられるそうです。ただ、時間をかけてゆっくりと治療ができれば回復できるそうなので」
「良かった」
エルザはほっと息をつく。
「あなたには随分とお世話になりました」
「いえ、大したことは何も」
エルザは首を振る。
「本当は、あなたともっと親しくなりたいと願っていましたが、どうやらそれは叶わないようですね」
にこりと柔らかく微笑む男爵に、リンが驚いた顔をする。
「あの」
「年を取ると、新しいことに踏み出すのは勇気がいることです。私はこの子の親になろうと決断いたしました。マーティンさんも、どうかためらわずに、踏み出してください」
全てを知っているかのように、カーナル男爵は頷く。
「エルザさん?」
二人の間に流れた空気の意味を測りかねて、リンは首をかしげた。
「ううん。なんでもないわ。リン、これから大変だと思うけれど、いつでも遊びに来てかまわないのよ。カーナル男爵、リンをよろしくお願いいたします」
エルザはもう一度、頭を下げる。
リンが帝都に来たのはつい最近なのに、随分長い時を過ごしたかのように思う。
「エルザさん、大好き」
リンが再び、エルザに抱き着いた。
「私も、リンが大好きよ」
エルザはそっとリンを抱きしめる。
親子のような、友達のような。不思議な関係だった。
二十年変わらなかったエルザとアレックスの関係が変化したのは、リンがいたからだ。リンの若さと優しさが、二人の距離を一息に縮めてしまった。
──きっと、そうね。
エルザはそっと呟いた。
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