ワーナー婦人 

 昼下がりの午後。

 老婦人が、カウンタ―の前に置かれた椅子に座り、エルザの入れたお茶を飲んでいる。

 髪は品の良いシルバーグレー。モスグリーンの生地に白いレースをあしらったドレスは、シンプルだが上等なものだ。淡いブルーの瞳はやや落ちくぼんで、年齢相応にしわが刻まれているけれども、肌はつややかだ。

「本当。エルザさんの作る美容液は、素晴らしいわ」

 老婦人、アリス・ワーナーは、にこやかに笑う。

「そう言っていただけると、嬉しいです」

 エルザは、薬品を調合して、緑色の瓶に注ぐ。

 ワーナー夫人は、子爵家の老婦人で、エルザの店の常連客だ。ワーナー夫人は、エルザの調合した美容液しか、肌に合わないらしい。 

 実際、ワーナー夫人の美容液は特別配合だ。基本的に、エルザの店の美容液は、使用する人間に合わせて作成している。

「おまたせいたしました」

 エルザは、緑色の瓶をワーナー夫人の前に差し出す。

「ありがとう」

 夫人はにこやかに笑んで、瓶を受け取った。

「ねえ、エルザさん。あなたにちょっと良いお話があるんですけど」

「なんでしょうか?」

 エルザは、これまでに、夫人には、仕事を紹介してもらったことがある。

 夫人の美肌は、エルザの広告塔でもあるのだ。

「あのね、あなたに是非会っていただきたいひとがいるの」

「いいですよ」

 エルザの美容液はオーダーメイドなので、使用する本人と会って話をしたり、実際に肌の様子を確かめてからしか、売らない。夫人もそのことはよく知っている。

「そう? 良かったわ。先日、うちに来てくれた時に、あなたを見かけたらしいの」

 夫人は嬉しそうだ。

「もう、あなたを紹介してくれって、うるさくってね」

「はあ」

 エルザは、首をひねる。『見かけた』というのは、どういう意味だろうか。

「息子のお友達の、カーナル男爵なんだけど。あなたに一目ぼれらしいの」

「え?」

 美容液の話ではなかったことに、エルザはようやく気が付いた。

「あの、えっと、そういうお話は」

「カーナル男爵は四十手前だけど、まだおひとりなの。ずっと商売が忙しかったらしくて。男爵ではあるけれど、商売がとても上手で、かなり裕福なのよ」

 夫人は、もはやエルザの反応など関係ないかのように話を続ける。

「もちろん、会ってすぐ結婚しなくちゃならないってこともないわ。嫌なら断わってくれても構わないの」

「えっと」

 どうやって、断るべきか。エルザが迷っていたその時、カランという音がした。

 アレックスだった。先客の姿に、声を掛けるかどうか迷っているかのようだ。

 本来なら、先客がいても挨拶すべきなのに、なぜかエルザの声は出ない。理由のない後ろめたさがエルザの中に渦巻く。

「あら、次のお客さんね。それじゃ、私はここでお暇するわ」

 夫人は荷物を持って、にこやかに微笑みながら立ち上がる。

「承諾してくれて助かったわ」

「あの、それは……」

 エルザの返事を聞かずに、夫人は出て行ってしまった。

 店の前に止めていた馬車が走り出し、蹄の音が遠ざかる。

 承諾したつもりは、全くなかったのだが、一度はうんと言ったのも事実だ。それに、夫人は上得意さまであって、恩義もある。断りにくいのも事実だ。

「えっと。いらっしゃいませ」

 エルザは、ようやくにアレックスに声を掛けた。

 動揺を隠しながら、にこやかに微笑む。

「今日は、どうしましたか?」

 夫人の使ったティーカップを片付けながら、エルザは問いかけた。

 アレックスは、かなり頻繁にこの店を訪れるが、用件はいつも違う。この前のような仕事に必要なものだけでなく、家での入用なものも買っていく。

「魔道灯用の魔石をひとつ」

 アレックスが答えた。

「魔石をひとつ、ですね」

 エルザは、棚の魔石の入ったケースからひとつ取り出す。

 魔石に傷がないか確かめながら、エルザは大きく息を吸った。

 なんだか胸の奥がざらつく。

 アレックスと話すだけで、どうしてこうも動揺しているのか。

「さっきの婦人、ワーナー子爵家の?」

「ええ」

 エルザは頷いた。子爵家の人間を騎士のアレックスが顔を知っていても少しもおかしくない。

「やっぱり。子爵家の老婦人が、わざわざ自分で買いに来るんだ」

 アレックスは驚いたらしい。

「お届けすることもありますけれど、たいていはこちらにおみえになりますね」

 エルザは答えながら、前回、ワーナー家を訪れた時のことを思い出す。

 そう言えば、あの時、ワーナー家の客人と何かを話したような気がする。今となっては、何を話したかも、相手の顔もあまり覚えていないけれど。

「どうかしたのか?」

 アレックスが心配げにエルザの顔を覗き込んだ。

「実は、私」

 エルザは口を開きかけ、見合いの話は、アレックスに話してもどうしようもないことだと気づいた。

「いえ、たいしたことではないです」

「それならいいが」

 アレックスはそれ以上追求する気はないようだが、エルザの言葉を信じたわけではなさそうだった。

「困ったことがあるなら、いつでも相談に乗るから」

 エルザの手に、アレックスの手が重なる。硬い手のひらから、伝わる温かなぬくもりに、エルザの胸がドキリと音を立てた。

「ありがとうございます」

 エルザは礼を述べてから、そっと手を引く。

 その手に触れていると、アレックスのペースにはまってしまいそうで怖かった。

「じゃあな」

 アレックスの去って行った扉を見つめながら、エルザは首を振る。

 いったい、なぜ、アレックスに話そうとしたのだろう。話してどうなるものでもない。

ーーそれにしても、どうやって断ろうかしら。

 エルザは大きくため息をついたのだった。




 

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