キラービー 1
キラービーの巣があるという神殿は、放棄されて既に三十年以上の時が過ぎている。一度水害で水に沈み、神官長をはじめたくさんの人間が亡くなったらしい。
その時の水害の被害はあまりにも大きく、一時期は辺りは湖のようになった。そのため、生き残った人間のほとんどは、ここから離れざるを得なかったのだが。
「民家がありますね。しかも新しい」
ガタガタと揺れる荷馬車の御者台の隣に座りながら、エルザは呟く。
街を離れ、道がだんだん悪くなるに従い、草原が広がり始めたのだが、意外にも、ところどころ畑や民家も見える。
「数年前に、ラバン川の治水工事が終わっただろう? そのせいだ」
馬を操りながら、アレックスが答えた。
キラービー退治ということで、今日のアレックスは完全武装済みだ。スケイルアーマーの上にプレートメイルを着こみ、皮のズボン、皮の手袋。今はつけていないが、おそらく兜もつけるのであろう。
一方のエルザは皮の服を着こんでいるが、鎧はつけていない。ただ、全身に虫よけのクリームを塗りこみ、さらに、服にも忌避剤をしみこませていて、対策は万全だ。
「それにしても、あなたが迎えに来るとは思っていなかったです」
アレックスは、今回の作戦の指揮官らしいから、てっきり部下が迎えに来ると、エルザは思っていた。むろん、全く知らない人間より、よく知っているアレックスの方が気楽ではある。だが、技術者の送迎まで指揮官がするなんて、仕事をしすぎではないだろうか。
「だって、契約したのは俺だろ?」
アレックスは馬を操りながら、当たり前のように答える。
「騎士隊と契約したのだと、思っていましたが?」
「どっちだって同じだ」
そういうものなのだろうか。
エルザはアレックスの横顔を見る。何を考えているのか、イマイチよくわからない。少しだけいつもより険しい顔をしているのは、仕事だからなのだろう。
「あれだ」
アレックスが前方を指さす。
苔むした石垣の向こうに、神殿の高い塔が見えた。
石垣の手前側の木に何頭かの馬がつながれており、甲冑を着た騎士たちが準備をしていた。
「アレックスさま!」
騎士たちは馬車に気が付いて、敬礼をする。馬車は、その騎士たちの前でゆっくりと止まった。
「準備はどうだ?」
御者台から降りながら、アレックスは問いかけた。
「万事整っております」
年配の騎士が答える。
辺りはしんと静まり返っていて、馬が草をはむ音と、甲冑の音だけが響く。ここはまだ、キラービーのテリトリーではないらしく、羽音は聞こえてこなかった。
エルザも御者台から降りようと身体を曲げるが、手すりなどないため、うまくいかずもたつく。
「無理するな」
「え?」
すっとアレックスの手が伸びて、エルザは抱きかかえられるように馬車から降ろされた。
アレックスとしては、安全に降ろそうとしただけのことなのだろう。だが、エルザの胸はドキリと音を立てた。
「ベン、錬金術師のマーティン殿だ」
アレックスは、エルザの腰に手を回したまま、部下に紹介をする。
「エルザ・マーティンです」
アレックスが自分に触れたままなことに当惑しながら、エルザは頭を下げる。
馬車から降ろしてもらった流れの距離感だとは思う。だから、抗議するようなことではないのだが、男性とこれほど密着した状態というのは慣れなくて、どうしても意識してしまう。
「アレックスさまの副官を務めているベン・ケストナーです。ベンとお呼びください」
低姿勢だが、年齢的にはアレックスより一回り上だろう。ただ、年を取ってはいても、動きに無駄はなさそうである。
「荷台の荷物を運ばせろ。くれぐれも丁寧にな。それからすぐに作戦会議を始める」
「承知いたしました」
ベンへの指示が終わると、アレックスの手がエルザの腰から離れた。
「エルザ、こっちだ」
それだけ言うと、そのままエルザに背を向けて歩き始める。まるで何ごともなかったかのようだ。
ーー私ってバカ。
意識したのはエルザだけだったことに、今さらながらに気が付いて、思わず苦笑いしてしまう。
そもそも、アレックスとは、店主と顧客の関係でしかなく、今日だってその延長なのだ。
ちょっと優しくされただけで、どぎまぎしてしまうのは、さすがに大人として情けない。しかも相手は、騎士として当然の行動をしているだけで、エルザに何か思うところがあるわけでもない。
エルザは大きく息を吐くと、アレックスの後を追った。
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