第53話 e=mc2

スロットルを大きく開くと、エンジンは

長い猫の鳴き声のような音を立てて

長閑に、でもすごいスピードで加速を始めた。

街路灯も、路面電車の停留所も、石畳も


みんな、一瞬で過去になってゆく。


流れ去る時間が、一定だったとしても

僕とオートバイは、スピードの中にいる間だけ

その、厳密な時間回廊から逃れられている、そんな気がした。


本当は、その回廊が現世、三次元のもので

その枠の外に、彼女たちがいるのだろうか、などと

僕は夢想しながら。






柿の木坂の交差点を越えて

坂道を登り切ると、いつもの並木道。


僕の家は、すぐそこだ。



RZ350をシフトダウンし、ブレーキ。


半地下のガレージの前に停車。


シャッターを開いて、バイクを押して入れた。


2サイクルだから、煙がガレージに入るので

いつも、こうしていた。



シャッターを閉じて、コンクリートの階段を

僕は、ヘルメット、バリー・シーンふうの黒い

ヘルメットを抱えて登った。



「おかえりなさい」と、かすみが穏やかに微笑む。

「おつかれさまっ!」と、ふたばもにこにこ。

ガレージからエントランスには、直接入れるようになっているので


いきなりマイホーム、と言う感じ。


でも、この子たちも

普通の人からは見えないわけだから

なんとも、不思議な生活を僕はしているのだろうな、と

思ったりもする。



「きょうは、音楽はしなかったの?」と

かすみ。


しなやかな長い髪がよくお似合いだ。



うん、と僕は返す。


時々、バイトしながら

ジャズ・クラブでサックスを吹いたりしている。

ジャズと言っても、ごく軽いものなのだけれど

音楽していると楽しいし

それだけで、ふわ、と生きて行ければいいな、なんて

そう思ったり。




僕は、クロッカスさんの事を思い出し

彼女には、そういう何か、somethingが無いのかな、と

かすみに聞いてみた。


元々、どうして3次元、こちらの世界に来たのだろうと。



「はい...たぶん、理由なんてないと思うの。」


かすみは、淡々といつものように話した。

かすみたちもそうだったように、ある日、突然に

そうなったので、クロッカスさんもそうだったのだろう、と。




「でも、優しい気持ちになってほしい、って願いは

みんな持ってるんだよね」と、僕は尋ねた。



そうですね、クロッカスさんもそうだし、お花ってみんな

そうなんですよ、と。


でも、そこで彼に出会ったのは

偶然でしょう、とも

かすみは言い、にっこりと笑った。

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